マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

稲渕の男綱

2012年02月29日 06時44分10秒 | 明日香村へ
飛鳥川の上流を遡っていけば、中央に大きな房をぶら下げた勧請縄が見られる。

最初に目にするのは大字の稲渕だ。

さらに2kmを遡れば形が異なる房になる。

そこは大字の栢森である。

いずれも大字集落の入り口にあたる場に掛けられる。

かつては両大字とも正月の十一日に掛けていた。

どちらも川を跨ぐように掛けるので相当な長さの綱になる。

稲渕では日程が移り変わり、十数年前からは成人の日の祭日に掛けられている。

稲渕は50数軒の大字である。

昭和45年当時の戸数は65軒だったそうだ。

近年になり離農して勤めやすい村外に出ていった。

そうして行事を支える人手が確保しづらくなった。

こうした理由で日程を替えられたのである。

男綱の姿を川に架かる神所橋から眺めてみた。

その橋の袂に露店がある。

畑で栽培した野菜や自家製の漬物などが並んでいる。

そこには暖をとっている男性と女性が5人。

大字の年寄りたちは老人会。

交替しながら店番をしているのだという。

こうしていろんな話をするのも楽しみだと話す。

その人たちが言うには大きな房は男綱。

男のシンボルだと声を揃えて言った。

かつては「マラ」と称していたが言い辛いこともありシンボルと称しているようだ。

今年は閏年だから男綱を巻いている縄は13本あるという。

例年ならば12本。

オリンピックが開催される年は13本だと話す巻き数は月の数。

一年間が無事に過ごせるように巻いているという。

重さは結構あるのだろう。どっしりと構えた男綱はどうどうとした形である。

その天長に竹に付けられた幣が見られる。

「昔はもっと小さかった」と高齢者の人たちは話す。

数メートル離れたところには長い縄が下がりのように地上へ向けて降りている。

3mぐらいの長さであろうか、これを「タレ(垂れ)」と呼んでいる。

綱もそうだが等間隔に細藁や紙垂れが取り付けられている。

綱の長さは48ヒロの長さだという。

1ヒロが1m50cm程度として換算すればおよそ85mの長さ。

村の風景に溶け込んでいる稲渕の男綱である。

綱掛けの行事は宝暦元年(1751年)に纏められた地誌『古跡略考』や『大和国高取領風俗問状答』文化年間(1804年~1818年)には正月の1月11日に行われていたと記載されているそうだ。

それによれば勧請綱掛神事若しくはカンジョ掛神事と書かれているが村人は「オツナカケ」と呼び習わしている。

子孫繁栄、五穀豊穣を祈り、川や道をつたって悪疫などが集落に侵入しないようにしていると伝承されている。

語ってくれた高齢者によれば稲渕に4組の庚申講があるそうだ。

庚申さんの日は60日おきにやってくる。

その日はヤドと呼ばれる当番の家に寄り合う。

庚申さんの掛け図を掲げて講の営みをする。

今年は閏年だから4組の講中が一同に揃って「モウシアゲ」をするという。

それぞれの講の都合も聞かなければならないが4月初めぐらいになりそうだという。

皆が揃うからお餅も2升搗くらしい。

閏年に行われる稲渕庚申講の「モウシアゲ」と同じ呼称をする同村の平田や桜井市の山田(明日香村近隣)があるが、地域によって呼び名が異なる。

桜井市の脇本や出雲では「庚申トウゲ」。

同市山間にあたる瀧倉では「トアゲ(塔揚)」と呼んでいる。

隣村の芹井や北白木、修理枝でも「トアゲ」だ。

天理市苣原町、長滝町、藤井町も「トアゲ」と呼ぶ。

一方、盆地部の田原本町の伊与戸や法貴寺では「塔婆上げ」となる。

奈良市の藺生町や天理市の山田町も閏年の庚申講が行われているが名称は聞き取れていない。

また、奈良市の長谷町では特有の名称はなく橿原市の五条野町でも単に「閏年の初庚申」であった。

日程も行事の仕方もさまざまであるだけに地域の調査は限界を感じる。

(H24. 1.11 EOS40D撮影)
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観音寺町観音堂の初観音

2012年02月28日 08時31分01秒 | 大和郡山市へ
古くは平城京右京九条一坊であった観音寺町。

大和郡山市の北部地域にあたる。

正月の九日は初観音の日だと言って寄り合う観音寺町の人たち。

「おめでとうさん」と年始の挨拶をされてお堂にあがる。

八幡宮境内にある観音堂に安置されている十一面観音立像はこの日と夏にご開帳される特別な日でもある。

その印しといえば町内辻に木製の行燈を掛ける。

それには「毎月十七夜 拾壱面観世音」と書かれている。

「火の用心」の文字もある。

それは観音さんの日を伝える行燈なのであろう。

昼間の営みだけにローソクは灯されていない。

十一面観音立像は栴檀木の一材から丸彫りされ、ごつごつとした刀痕が見られるそうだ。

特徴的な「鉈彫り」で彫られた造りの仏像は関東や東北地方の平安仏に多くあるという。

西国に存在するのは稀で珍しいとされることから市の文化財として指定されている。

普段は観音堂の扉が閉められていて拝見することはできない仏像である。

お堂に登られた人たちは旧村農家14軒。

鍵を管理する当番の人は八幡宮の一年間の祭礼をされる宮守さんである。

お供えは海や里、山の産物だ。

ダイコンやニンジン、キュウリ、シイタケなどのお供えは台に串を挿して立てている。

いわゆる立て御膳である。

ローソク立てに火を灯した。

その形は炎のような円形だ。

その数は13の燭台。

十三仏を現しているのだろうか。

それはともかく一人の導師は本尊前の席に着いた。

ご開帳といえども観音仏像は幕で遮られている。

周りを囲む人たちも鉦と撞木(しゅもく)を取り出して右に置いた。

これから始まるのは西国三十三番のご詠歌である。



キン、キンの音が堂内に響き唱えるご詠歌は聞こえにくい。

導師が鉦を打つテンポは早い。

主婦は忙しいので早めに終えるようにしているのだという。

長丁場のご詠歌だけに途中で一服される。

それはいずこも23番辺りである。

鉦を連打してひと休みする。

再び始まったご詠歌を続けて唱えていく。

西国を終えると引き続き善光寺二十一番のご詠歌までも。

およそ40分も経過したのであった。

さらに舎利禮文や般若心経までも唱えていくが、その際には導師は鉦叩きから木魚に転じる。

一時間のお勤めを終えて解散された。

15、6年前までは当番の人がぜんざい(善哉)をこしらえて食べていた。

たいそうになってきたことからパン一つを配ることにした。

夏のお勤めではスイカをまくわっていた。

カキゴオリもしていたがすっかり止めてしまったという。

行燈が示す文字から毎月17日の夜にはお参りをされていたと思われるがその経緯は知らないとH婦人は話す。

かつて観音寺町に鎮座する八幡宮では簾型の注連縄を結って本殿に飾っていた。

笹の葉をつけた竹を二本。

左右両側に葉を向けた。

ユズリハ、ウラジロ、ダイダイにオヒネリ。

それは米と小豆に入れた。

堅炭も括りつけたという注連縄を「ドウガイ」と呼んでいたと話すHさん。

数年前に宮守を勤めておられた方が言うには10年ほど前まではそれをしていたという。

盆のときには鳥居の脚に巻きつけたっていうのは何だろうか。

隣町の野垣内町であるかも知れないが、詳しくは聞き取ることができなかった。

(H24. 1. 9 EOS40D撮影)
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北野津越初祈祷

2012年02月27日 07時40分47秒 | 山添村へ
年初めに村中の五穀豊穣、平和安穏を願う行事が各地で行われている。

山添村の北野津越では年始に村人が集まって初祈祷を営んでいる。

北野津越は11軒。

年番にあたる年預(ねんにょ)は二組。

軒数が少ないだけに回りが早い。



参集する前には会所にもなっている薬師堂の炊事場で料理を作っていく。

それは集会の折りに出される豆腐の田楽である。

一軒に一丁の豆腐を買ってくる。

かつては村の豆腐屋で作られた豆腐を買っていた。

廃業されてからは大橋の大矢商店で購入している市販品。

それを十字に包丁を入れて四つに分けて手作りの竹串に挿す。

炭火を焚いた囲炉裏で豆腐を焼いていく。

買った豆腐は水分をたっぷりと含んでいる。

そのままでは豆腐田楽にはしにくい。

それゆえ前日から水切りをしたという。

まな板を斜めにして豆腐を置く。

そうしておくと豆腐の水分が流れていく。

前日の昼からこの日の朝までの丸一日もかかったという。

手間がかかっている豆腐である。

火の勢いが強いからと網を出された。

そうしても火の勢いが強いから竹串が焼けてしまう。

しかたなくアルミホイルで火除けをする。

豆腐に焦げ目がついたころが丁度いい。



焼けた豆腐に自家製の味噌タレをつけて皿に盛る。

津越組の八幡さんや薬師如来に御供飯とともに供えておく。

初祈祷の日は6日と決まっているが、年預の仕事の関係もあってこの年は日曜日となった。

サラリーマンは行事を勤めていくのが難しくなったという。

そうこうしているうちに風呂敷包みを持った村人が薬師堂に集まりだした。

正月を迎えたお堂には門松を立て注連縄を張っている。



座についた津越組の人たちは八幡さんに向かって参拝する。

このときはOさんが神主役となって祝詞を奏上した。

神前に向かって正座する。

二礼、二拍手、一礼と神事作法に則り儀式を終えた。

いつもの作法である。

その後、すぐに年預が新年の挨拶をされた。

そうして始まったフリアゲの儀式。

何の役を決めるのか。

それは京都にある石清水八幡宮へ参って神符札を授かってくる役目なのである。

一回目が大正八年一月に始まった代参の役目。

その文書は大切に保管されている。

フリアゲ作法によって行われる代参の人は半紙で蓋をされた茶碗に入れられている。

半紙には小さな穴が開けられている。



それを両手に持って年預が振り上げる。

上げると言ってもスローではない。

ひょいと振るのだ。

そうすると穴から丸められた紙片が飛び出す。

それが一人目の代参者。

代参は二人で行かねばならないからもう一回される。

そして何らかの事情で代参をすることができなくなるかもしれないと予備の一人を選ぶフリアゲをした。

八幡さんの前で厳粛に選び出された氏名を発表されたフリアゲ神事であった。

こうして終えた初祈祷の儀式。

その後は会食に移る。

テーブルにはすき焼き鍋が用意されている。

飛びきり上等の鹿児島牛のすき焼きが焼ける音がジュウジュウ。

醤油と砂糖の味付けは食欲をそそる香りがする。

八幡さんはハトがシンボル。

小さな木彫りの神さんの傍らにハトが並んでいる。

ハトは2本足。

そういうことですき焼きは牛肉に決まっている。

すき焼きには玉子がつきものだが津越ではそれも出さないという。

正月の酒宴はすき焼きをよばれながら談笑に包まれる初祈祷の日。

年預が焼いた田楽豆腐も皿に盛って席にだされる。

「昔はもっと固めやったな」と話される豆腐は自家製味噌が味を増す。

何本も食べてしまう美味しい田楽だ。



数時間に亘る宴は会場がすき焼きの香りで充満した。

会場が暑くなってきたからと、ときおり窓を開放する。



そうこうしているときのことだ。

酒宴が始まっておよそ2時間半。

自宅から持ってきた風呂敷包みを開いていく。



中からでてきたのは重箱に詰められたアブラゲメシ。

漬物もある。

これらは自家製のメシと漬物である。

カシワの出汁だけで炊いたという人。

「アブラゲだけやちゅうのに、おまえとこはコンニャクやニンジンが入っているんや」と声がかかる。

すかさず隣の人は「うちはシイタケも入れてるで」という。

もう一人が持ってきたアブラゲメシにはマッタケも見られた。

それぞれの家で炊かれたアブラゲメシである。

どれもこれも美味しい味は家の料理。

「それぞれの家の味を堪能した」と言えば、「そりゃ違う。炊いている嫁の味や」の声が返ってきた。

すき焼きに田楽豆腐、アブラゲメシでお腹がいっぱいになる。

白いご飯の御供もよばれるのだが「もう食べられんで」と口々にいう。

9月の京のメシの行事もそうだが、津越は食べるのが目的の行事のようである。

〆に出される味噌仕立ての豆腐汁で酒宴を終えた。

庭にセンリョウ、マンリョウ、カシの三種の木を植えるというTさん。

それは貸すことができるくらいに金持ち長者の家だという。

F家では1月7日の朝に自宅から山の神に男の数だけヤマノモチを供える。

その際には山の神のほうに向けてモチを投げるそうだ。

元日の朝は水を溜めた器にダイダイを入れて顔を洗う。

ゴマイゼンと呼ばれる膳を当主が頭の上にあげて家の神さんに祈る。

その膳は大きなモチが二段。

シダやコンブとホシガキ。

12個のコモチを置いてお金を添える。

12個のモチはツキノモチであろう。

(H24. 1. 8 EOS40D撮影)
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太田市天満神社ツナクミ

2012年02月26日 08時00分56秒 | 橿原市へ
大和郡山市の井戸野町を経て天理市を南進する。

櫟本町、喜殿町、前栽町、東井戸堂町、備前町、武蔵町を貫く真っすぐな道を抜けると田原本町になる。

そこは村屋神社が鎮座す藏堂町。

さらに南進して東味間を抜ければ橿原市の太田市(おだいち)町に入る。

この道は古代の官道の一つに挙げられる中ツ道である。

その地を南下する道はない。

どうやら中ツ道はそこで消えているらしい。

それはともかく寺川流域になる鏡川(かがり)川の西側にあるのが天満神社だ。

一段と高い地に鎮座しているのは、かつてそこが古墳であったのだとT総代が話す。

いつの頃か判然としないが前方後円墳だったそうだ。

前方墳は削られて残された後円墳に神社が祀られたという。

昨年に立ち寄ったときの神社の社そうは鬱蒼としていた。



本殿後方にあった樹木が奇麗に刈りとられていやにすっきりしている。

総代の話によれば白いサギが住みついて樹木が白い糞だらけになったという。

その糞は本殿屋根にも広がってきた。

それ以上の影響はご免こうむりたいと枝を掃ったそうだ。

ご神木であるだけに宮司に祓ってもらってから刈ったという。

どうりで。

明るく開放的になった境内には村人30人ほどが集まって鳥居に掛ける綱を結っている。

この日はツナクミの日で村人総出の作業。

村入りするにつれて増えていった太田市は45戸。

かつては30軒の農村だったそうだ。

旧村にあたる家の代表者がワラスリ、ワラウチ、ツナクミなど作業を分担して進められる。

ツナクミは正月明けの成人の日の前日。

5、6年前までは8日と決まっていたが集まりやすい日に移したという。

ワラスリ、ワラウチとも回転式の機械を使って作業する。

ツナクミの日程が変更される前まではヨコヅチ(槌)でモチワラを叩いて藁屑を取っていた。

手がかかるからと言って機械化された。



藁はワラスリと呼ぶ回転筒式の機械に当てて屑を取る。

筒には尖がったクギのようなものが付いているからそれに当てるとさばかれるのだ。

度々目にするイネコキの道具。

手で藁をひっかくようにして藁屑を取る道具だ。

それが回転式になった。

その効率は大幅にあがった。



次にローラー型の機械に藁を通す。

ローラーの圧力をかけて何度も通していく。

ベルトで動くハンマーだと言っていたワラウチの機械だ。

かつては石にバシバシと打って藁を強くしたワラ打ち作業は短時間で、しかも労力がかからずラクになったと話す。

こうして出来上がった藁は綱を組む人たちに渡していく。

太い藁束を継ぎ足して三本撚り。

張りを得るために男3人が力を合わせて結っていく。

力仕事であるが掛け声もなく淡々と作業を進める。

女性たちは出来上がった綱をハサミで奇麗にしていく。

太田市の綱はそれだけで終わらない。

県内の注連縄や勧請縄に特異な形の房をぶら下げる地域が散見される。

特異としたのは男陰、女陰と呼ばれる両房を綱に取り付けるのだ。

男陰は他所でも見られるようなフングリとよく似ている。

表現しづらいがタマタマと呼ぶそうだ。

さて、女陰といえば、7品種の木の枝を束ねて綱に取り付ける。

松、竹、梅、椿、樫、杉や境内に生えるつる(蔓)性植物である。

つるはつる状であればどのような品種でも構わないそうで、つた(蔦)でも構わない。

雌雄両陰の房は総代や長老らの手によって作られる。



こうして出来上がった綱はとぐろ状に巻いて本殿前に供えられる。

その上には男陰、女陰が置かれた。

そして総代は前に立ち村人たちが並ぶ。

手を合わせて綱が出来上がったことを神さんに報告する。

ツナクミは神事であろう。

こうしてようやく綱が掛けられる。

綱を掛けるのは神社両端にある大木のムク。

南側のムクは甘い実ができる。

熟した実は皮がシワシワ。

その頃が美味しいのだ。

味といえば干し柿のような甘さだ。

北側のムクは羽子板の羽根に使われたと言う。

羽根の下にある黒い堅い玉である。

昨年に聞いたIさんによればその木はゴボゴボの木だという。

ゴボゴボは泡。であるとすれば石鹸の木。

そうであれば北側がムクロジで南側はムクノキだと思われるがどちらも現地では「ムク」と呼んでいる。

その木にアルミの梯子を掛けて綱を巻きつける。

まずはムクロジの木だ。

昔は木の梯子で3間もあったそうだ。

それを登って掛けるのはとても怖かったと年配の総代は話す。



ほぼ中央辺りに男陰と女陰を括りつける。

それらには紙垂れと細い藁を挿し込む。

そうして南側のムクノキに巻きつける。



そろそろと引き上げて丁度、鳥居前に落ちついた男陰と女陰。

こうしてツナクミを終えた村人たちは会所でささやかな直会。

慰労会のようだった。

総代の了解を得て合祀されている子安神社を拝見した。

とは言っても本殿内である。



案内されたのはその下に置かれている砂。

それは安産祈願をする砂であった。

お腹が孕んだ家では、その砂を半紙に包んで神棚に供える。

子供が無事に生まれればその砂を返す。

「そんな風習がある村なのです」と、直会を婦人たちも話していた。

その砂は「安産祈願御授砂」。

砂を扱う風習はここにもあった。

(H24. 1. 8 EOS40D撮影)
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山添村の山の神巡拝

2012年02月25日 09時04分13秒 | 山添村へ
写人らとともに山添村に点在する山の神の様相を探訪してきた。

山の神の所在地は集落外れにあることが多い。

その地を探すには地元の人の声にすがらなければ見つけることが困難だ。

これまでにも数か所を探索してきた。

それらがどのような形で参られているか、行事を終えた後でも痕跡があるので判りやすい。

とはいってもすぐに見つかるわけでもない。

写真家たちの案内で室生小原はこの日の朝に撮らせていただいた。

ありがたいことだ。

お返しに私の知る範囲で山添村の山の神を案内させていただいた。

<毛原の山の神>
小原、下笠間から笠間川流域に見られた山の神。

下笠間からさらに下っていけば毛原に着く。

毛原は山添村になる。

その毛原では西の地区と東の地区でカギヒキとクラタテが行われている。

西の地区では山に入る登り口に六地蔵と思われる石仏がある。

それは元文三年(1738年)十月十五日の銘があるという奥出の六地蔵。

近くに村墓地があるのだろうか。



その傍らに供えられている西の山の神。

林を吹き抜ける風に幣が揺られている。

東の地にある山の神は道路の際。

その辺りに毛原廃寺があるという。

そこにも六地蔵(四ツ辻)があるらしい。

それは奥出の六地蔵よりも古く室町後期の作。

この日はそれを拝見する時間がない。



そんなことを思いながら東の山の神を拝見した。

ここには「山の神」と刻まれた岩がある。

そこにおましたお供えを含め、竹林の中にはクラタテがあちらこちらにある。

西が7つで東は13個もあった。

それぞれのお家の人が供えられたのであろう。

その毛原の山の神は平成22年の2月に伺っていた。

男性は西と東の山の神さんへお参りをする。

そこでカギヒキやクラタテをしている間、女性は笠間川の向こう岸にある弁天さんへお参りする。

そのあとは家に帰って七草粥を作って食べると話していた。

山の神にぶら下げた藁はワラチンチン或いはフクダワラと呼ばれている。

カギヒキの木は判らなかったが、かつては「うちのくーらへどっさりこ」とカギヒキの唄を歌っていたそうだ。

<岩屋の山の神>
さらに下流を下って行った。

そこは岩屋の村。

中出と下出の辻の上と下出の辻の下に山の神がある。

他にももう2か所あるらしいがまだ見つかっていない。

中出では横一列にクラタテが供えられている。

その数はざっと数えて20個。

実に壮観である。

山の神と言えば竹林。

その上の方にあるのが山の神。



大きな岩だと思っていたがそうではなかった。

近くに住むご婦人の話ではその岩に乗っている小さな石が山の神だという。

いつの日かそれを山の神と思わずに下したそうだ。

そのときには祟りがあって戻したという。

その地では11月7日に生い茂った竹藪を刈りこんで奇麗に山の神を清掃されて竹垣を作り替えられる。

美しくなった2カ月後に山の神に供えられるのだ。



カギヒキは樹木に掛けられるのだがここでは竹垣に引っかけている。

そういうことでカギヒキは水平に掛けられている。

清掃の日に聞いた話ではカギヒキの木はホウゾやクヌギの木でタワラと呼ぶ藁の中に小石を一個入れる。

カギヒキとタワラの本数は決まっているそうで家に住む男性の数だという。

山の神さんに参るのは7日の午前0時になってからだ。

真夜中に参拝する人もいるが、朝方が多いそうだ。

お参りに来た人はカギヒキを引っ張って「ニシノクニノイトワタ ヒガシノクニノゼニカネ アカメウシニコメツケテ ウチノクラニドッサリコ」と歌うそうだ。

クラタテは四辺形の半紙を敷いて四隅にカヤの木を挿す。

それに紙垂れを付ける。

中央にも一本。そこにコウジミカンかトコロイモを挿して米粒をパラパラと撒く。

山の神のモチも供える。

モチはとんどで焼いて食べるが一個だけは持ち替える。

七草粥に入れるそうだ。

タワラは2本で一対。

一本は山の神に供えるがもう一本は持ち帰る。

それを家の外の角地にあるオンボさん(樫の木)に付ける。

女性はフクラシの木に吊すそうだ。

下出には2か所ある。

辻の下と辻の上だ。



下出の辻の下に11個のクラタテがあった。

カギヒキはご神木のツバキに吊す。

カギヒキの木はホウソウの木。

いわゆるナラの木であってクヌギではないという。

「カギヒキの唄は覚えているがボソボソと言うぐらいで「何ゆうてるか判らん」と笑っていた。

その際には家の蔵の門を開けるという。

「開けてなけりゃカネが入らんじゃろ」と笑顔で話していた。

藁束の本数は同じく男性の数だがフクダワラと呼んでいる。

ツバキの下には石が集められている。

これをトシダマという。

山の神さんは福の神ともされる。

参ったら福の神がトシダマをくれるから持って帰るという。

辻の下のご神体は2体の石仏。

山の神さんの祟りは怖いからその日は山の仕事はしないと話していた。



下出の辻の上でも下と同じようにカギヒキと9個のクラタテがあった。

半紙には洗い米や干し柿にゴマメ、クリ、クワイ、ミカン、トコロイモ、重ねモチが見られる。

家庭によって供えられる御供に違いが見られる。

いずれもタワラには小石が入っていたが昨年に拝見したときと置く場所が多少違っていた。

特に決まりはないのだろう。

<三ケ谷の山の神>
写真家に教えられて三ケ谷(みかだに)に向かった。

かつて取材された山の神の地。

景観は思い出すがその地が判らない。

村の人に聞いてようやく到着した。

その頃はすでに夕闇が迫っている時間帯になった。



ここでもカギヒキとクラタテがあった。

数えてみれば16個もある。

そこには木を削った刀が見られる。

刃の部分には波紋模様や世界平和、家内安全などを祈願した文字が書かれている。

クラタテには僅かだがクリも残っていたがミカンはない。

聞いた話では持ち帰るそうだ。

<菅生の山の神>
ラストに訪れたのは菅生(すごう)。

辺りは真っ暗になっていた。

菅生は7カ所の木場(こば)でそれぞれに行われていると聞いていた。

平成17年、18年に山の神の取材した上出(かみで)と峯出(むねで)がある。

その様子は産経新聞奈良版で平成22年1月6日に紹介させていただいた。

上出はたしか後出(おしろ)とも呼び、北出とも。

北出を上出と聞き間違ったのだろうか。

それはともかく他に谷出(たんで)、鍛冶屋出(かんじゃで)、大海道出(おげって)、大垣内がある菅生の山村。

山の神は山の中に宿るといい、新年に五穀豊穣と山作業の安全を祈る。



峠の小高い丘の上にご神体とされる山の神が祀られている。

女性と信じられている山の神。

機嫌を損ねてはならないと女性の姿は見られない

ぶら下げた藁をホウデンと呼ぶ。

山の神が喜ぶから掛けているという。

山の神に安全祈願をして勧請綱を作る。

それを丘の樹木に掛ける。

クラタテは一つだ。

傍には農林業の七つ道具であるクワ、ノコギリ、ナタ、カマ、クマデ、ツチノコなどミニチュア用具が置かれている。

さらに外敵から村を守るとされる刀を供える。

それにはご祝儀の金額が書かれる。

当時の金額は前年より1千万円も増えて、ご祝儀額は5億6千8百万円になっていた。

その額を確かめたかったが奉書で包まれていたので確かめられなかった。

その傍らには昨年に供えた刀も見られる。

この日は陽が落ちて真っ暗闇。

峯出を拝見することができなかった。

峯出の呼び名はホウガン。

少し離れるだけで名前が違う。

上出と同じように勧請縄が作られる。

その際には「ドウドウ、ドウドウ」と囃子が入る。

さらに「ドウドウ、ドウドウ」と言いながら地区の外れまで走っていく。

まるで馬を引いているような姿に見えたのであった。

これは綱が出来上がった喜びの表現だと言っていた。

そして綱中央辺りにホウガンを結び付け二股の木を差し込む。

三股の木を持つ男の子が二股の木の間に差し込むように入れる。

挿し棒で固定して出来上がるそれは和合の儀式であろう。

山の生産と豊穣、大人へ成長する通過儀礼を現していると思われる作法であったことを思い出す。

また、大垣内も山の神をしていると聞いたことがある。

山の神の磐にキンダマと呼ぶ藁を掛ける。

カギヒキの木はヒノキであろう。

クラタテを供えて拝むのだと話していた。

そこには山の七つ道具であるカマやクワなのミニチュア用具を作って供えるそうだ。

勧請綱は4、5メートルほどの長さで「フクワラ」と呼ぶ。

上出でも供えられていた刀。

それはメイトウマサムネ(名刀正宗だろうか)と呼んでいる。

奉書で包んで、「山の神さまお金がよく回るように」と5兆円、10兆円と毎年金額が上がっていくと当時の区長さんが話していた。

(H24. 1. 7 EOS40D撮影)
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針テラスつるまるうどん

2012年02月24日 08時04分19秒 | 食事が主な周辺をお散歩
取材行程の関係で昼食は軽便に済ませている。

最近はジャスコ店で購入するお得おにぎりが多くなった。

1個が68円でとても安価。

味はといえばまぁまあだ。

何を買うかは迷うが肉味噌や豚肉生姜焼き。

この前は照焼チキンも買ってみた。

この日も午後の取材に備えて腹ごしらえ。

どこにするかは悩ましき課題。

そんな大層なものではないが、夏にも行った針テラスの「麺之庄つるまる饂飩(うどん)」に決めた。

前回は280円のぶっかけうどんを食べた。

今回は違うものがいいだろうと和風中華そばにした。

これも280円だ。

中華そばには胡椒がお似合いだが店には見当たらない。

残念である。

友人がイカの天ぷら(150円)を入れてくれた。

ほくほくでとても美味い。

そばの出汁にマッチした。

食事の後は県内の山の神やオコナイなどの実施状況を把握したくて写真家たちと室生の深野に向かった。

(H24. 1. 7 SB932SH撮影)
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室生小原の阿弥陀石仏三尊

2012年02月23日 06時46分52秒 | 宇陀市(旧室生村)へ
小原の民俗行事を取材したおりに拝見した小原の阿弥陀石仏三尊。

三体揃って立ち並んでいる姿だ。

永仁六年(1298年)六月十六日に建之された立派なお顔の阿弥陀さん。

「つちんど」と呼ばれる地にある三尊。

「辻堂」が訛って「つちんど」と呼ばれる。

そこには「辻堂」と「十三重の塔」があったそうだ。

座高は1m28cmもあるだけにそれなりに高い石仏。

「カサ(笠、傘)」というテーマに相応しいと思って納めておいた。

両脇待は観音と勢至で座高が85cm。

石塔に彫られているのでその差は目立たない。

この日は赤い実を付いた南天を供えられていた。

尤も、阿弥陀さんが被っている笠石は整地をしたときに土中から現れたそうだ。

(H24. 1. 7 EOS40D撮影)
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室生小原の正月飾り

2012年02月22日 21時17分00秒 | 宇陀市(旧室生村)へ
小原在住のK氏邸。

門に〆飾りを掛けられている。

その形といえばクギ煮のように90度曲げられた太い藁束で、下部にダイダイを取り付けている。

まるで杓子のような形だ。

その端に炊いたご飯が置かれている。

正月の三が日の毎朝どころか15日までの毎日。当主がおましたお供え。

そこには松やウロジロに実付きのフクラシの木もある。

それら合わせて「正月飾り」だと言う一体もの。昭和の時代までは玄関口に飾っていたそうだ。

このような門や玄関に注連縄などを飾ってそこに御供を置く風習事例が見られる。

奈良東部の山間。

長谷町垣内脇のN家では正月2日に藁を編んだ棒の形のようなものを玄関口の外側に取り付ける。

直角に折って曲げて崩れないように藁紐で括っている。

まるで手の形のような杓子のようである。

祖母が朝に箸で摘んで四角いモチとご飯を入れる。



本来は当主がするのであるが「年寄りの役だと言って受け継いでいる。

それはシメナワサンと呼んでいる。

福住町別所に住むNさんも同じような形式で供えている。

藁で作った棒のような長いものは長谷町と同じようで杓子の形。

そこにクシガキを2個、モチも2個、コウジミカンは1個を供える。

「外の神さんが来やはんので供える」のだという。



これを「カンマツリ」と呼んでいるが、充てる漢字は判らないという。

一方、盆地部の大和郡山市では2か所で同じような作法をされている家がある。

小林町に住むHさんは、正月の朝に、注連縄に取り付けたユズリハを丸く皿のようにする。

そこに炊いた米を五粒ほど乗せるそうだ。

それを「カンマツリ」と呼んでいる。

正月元旦の朝起きたときに当主がそこへ乗せるのだと話す。

正月の三が日間は毎朝する。

同じような作法でされている番条町の酒造り家。

玄関口の外側に注連縄を飾る。

注連縄に括りつけたユズリハの葉を丸くして炊き立てのゴハンメシを供える。

「歳神さんに食べてもらうのじゃ」と当主は言った。

神棚にメシを供えるような感じで3、4粒供えるという話しを思い出した。

番条町ではこれを「神祭り」と呼んでいた。

山間では注連縄と思われる藁棒を直角に曲げて御供を置く。

盆地部ではユズリハを皿に見立てて供える。

これを別所町と小林町では「カンマツリ」と呼んでいる。

番条町では「神祭り」と呼んでいる。

この行為を「外の神さん」に食べてもらうというのは別所町と番条町。

形式は違えども「外の神さん」に供えるのは共通している。

「カンマツリ」と呼ばれる御供行為はおそらく外の神さんに食べてもらう「神祭り」であろう。

(H24. 1. 7 EOS40D撮影)
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室生小原の山の神

2012年02月21日 08時47分50秒 | 宇陀市(旧室生村)へ
1月7日には山間各地で山の神のマツリが行われている。

室生笠間川流域沿いの各地で行われている山の神のカギヒキ。

その一つに室生小原がある。

朝日が昇るころに村の人たちが行者山(大文字鏡山とも)にやってきてカギヒキをしたそうだ。

行者堂の後方にある大木に多数のカギヒキがぶら下がっている。

3mから4mもある長い木はウツギの木。

自在鍵のような形をした方を樹木に引っかけているのだ。

カギヒキの先には幣とミカンが見られる。

実に壮観な景観であるが、このような形式を見たのは初めて。

特異な形態で行われている小原のカギヒキ。

一人ずつ参られて「にしのくにのいとわた ひがしのくにのぜにかね うちのくらへどっさりこ」の唄を歌ったそうだ。

その際には家人が蔵の戸を開けておくという。

お金がどっさり入ってほしいという願いがこもっている。

この行為を「山の口の鍵ひき」と呼ぶようだ。

山の神の日はいずこも7日。

その日は七草粥の日だ。

小原では「ひがしのとり(鳥)と にほん(日本)のとり(鳥)が うち(打ち)あって バタバタ」と言うらしい。

これはどういう意味なのであろうか。

上茶屋出(かみちゃいで)と下茶屋出の垣内25軒が集まってされている山の神。

お盆に乗せたホシガキ、コバンモチ(小判型のモチ)、数個のクリの実に山の道具(ナタ)を風呂敷包みに入れたまま供える。

カギヒキもそうだが供える個数は家の男の人数分。

コバンモチはナタで何度か削って山の神に供える。

その削ったモチを見つけることは困難だ。

モチは持ち帰って七草粥に入れる。

ナタネとナズナを入れて炊いた七草粥。

下笠間と同様に2種類だった。

セリ、ナズナ(ペンペングサ)、ゴギョウ(ハハコグサ)、ハコベラ(ハコベ)、ホトケノザ(コオニタビラコ)にスズナ(カブラ)、スズシロ(ダイコン)の七種であるがこの時期に生えているのを探すのは困難。

いずこもすべてを揃えるのは難しい。

ちなみに行者山で行われる山の神は小原の東側。

西側の地区も山の神をしているそうだ。

山の仕事は男の力仕事。

山の神の日はいずこも山仕事を休む日である。

(H24. 1. 7 EOS40D撮影)
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下笠間の七草粥

2012年02月20日 06時46分25秒 | 宇陀市(旧室生村)へ
山の神さんにアゲオニギリをおまして般若心経を唱えたというI家の婦人が話す。

1月4日の朝には〆飾りを撤去する。

正月を迎えた午前0時。

当主はアキの方向に向かって膳を頭の上にあげて正月の作法をされた。

年初めに行われる家の風習である。

アキの方向に向かうのは顔を洗ったときもトイレに行くときもそうしているという。

こうした家の作法を話す婦人は竃に七草粥を供えていた。

七草も集まらないからと言ってナズナとカブラの2種を粥にした。

この地で採れるのはそれぐらいだから昔から2種類だという。

数日前に摘んできて料理した七草粥。

竃の神さんは喜んでいることだろう。

(H24. 1. 7 EOS40D撮影)
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