マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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今井町を抜けて

2009年09月30日 08時08分33秒 | 民俗あれこれ
前夜の11時過ぎにジムの会長から電話がかかってきた。

対戦した相手からパンチをくらってダウン。

脳しんとうをおこしているようだからと救急病院へ連れていくと言ってきた。

これで二回目のトラブルだ。

いつかはそうなるかと心配していたことが発生した。

それから2時間後、次男を病院から連れてきた会長。

CTスキャンの結果ではどこにも異常は認められなかったという。

3日間ほどはもどすこともあるという。

それがきつい症状であれば高度な病院に行ってほしいと話す。

次男はジムで2番目に強いそうだ。

10月にはプロテストのチャレンジができるまでのレベルに達しているという。

へェーというしか言葉がでない私と家内。

いっさいこういうことを話さない次男。

それを終わってからは話そうとしていたのか。

それはともかくスクラム車はジムに残してきた。

起床した次男が血相を抱えてリビングに降りてきた。

眼から血が出ている。

眼帯出血なのか、これはすぐにでも眼科に行かねばと予約する。

その間、私はスクラムを探して今井町に出かけた。



ここを通り抜けた五井町に駐車している。

五井はノガミがあるところだ。

神社の裏がジムの場。

八木西口駅を降りててくてく今井町をめざした。

町並みは整然としている。



塀に鳥居のマークが目に入った。

今時でもこれがあるのかと驚く珍しい景観だ。



重要文化財の河合家は「上品寺屋」の屋号をもつ造り酒屋、数軒のお家には小さな輪っかの注連縄飾り、整備された南門口跡の濠跡、数多く祀られた絵馬殿がある春日神社を通り抜けると遠目にスクラムが目についた。



そこが次男の通うジムだった。

(H21. 9.11 SB912SH撮影)

白土白坂神社宵宮のお渡り

2009年09月29日 08時51分21秒 | 大和郡山市へ
白土町のM自治会長からお電話が入った。

M会長は4月ころに事務所でお会いした方。

白土といえば正月三日に神社で簾型の注連縄や神さんが通る砂の道を拝見した地だ。

撮らせていただいた写真を差し上げたことが記憶に新しい。

今でも氏神さんのお祭りは保存していくのが大切だと伝統行事を続けているというM会長。

是非取材に来てほしいとのことである。

トヤと一老から六老までは装束に身を固めてお渡りをしている。

一老は勾玉の首飾りを装着する。

稲穂担ぎは五、六老の役目。

桶と杓を持って行く人もいる。

村の中心地から出幸して白坂神社に向かう。

宮座の長老十人衆は拝殿に登って長寿を祝うそうで自治会長もお渡りに参列するそうだ。

かつては十月十日だった宵宮は体育の日の前日に替わり、15時半ころに集落中央の広場に集まって16時に出幸する。

神社で祭典が行われたあとは、子供御輿が出たり夜店などで賑わうという。

本祭は翌日の体育の日と決まっている。

ちなみに正月の注連縄は大注連縄(一部の長老はドウガイと呼ぶ)と呼んでトヤが大晦日までに編んで取り付けるようだ。



電話口での会話では砂を撒くのは判然としなかった。

それまでに行事の詳細なことを聞きに行かねばならない。

(H21. 9. 9 取材依頼電話)

法貴寺厳島神社弁天さんのヤマモリ

2009年09月28日 08時01分34秒 | 田原本町へ
巫女による湯立て神事を終えた炎はチロチロと残り火となって夕景にとけ込んでいく。

神事は田原本町法貴寺に鎮座する池坐神社の末社である厳島神社の祭礼だった。

小学高学年の女児巫女が笹を振って湯立つ釜に入れて四方に飛ばす。

畑では雨が降り、日が照って順調に稲が育ってきた。

台風が来ないように無事に稲刈りができるよう祈る予祝行事である。

池坐神社の拝殿前の境内にゴザを敷いて座る宮司と役員。

二人だけで始まった酒宴は灯火の灯りに照らし出されていた。



もう少しすれば弁当持って各家が集まってくる。

今夜は「弁天さんのヤマモリ」と呼ぶ寺内垣内、宮の前垣内の行事である。

厳島の弁天さんは垣内の守り神。

予祝の行事は、飲んで食べて神さんと共に飲食饗宴する地域の習わしの夜の籠もり。

「夜籠もり」はいつしか「ヤゴモリ」と訛って「ヤマモリ」と転化した。

60年も前のこと、子供だったころは夜も遊べるというので「ヤマモリ」に来るのが楽しみだった。

家族ぐるみで山盛りの食事は食べられるし、境内ではしゃぎ回ったと回想される。

一組、二組と集まって境内が賑わってきた夜。

昼間の暑さがどこかへ行ったように涼しい風がほてった顔をなでていく。



(H21. 9. 7 Kiss Digtal N撮影)

染野大池の八朔法要

2009年09月27日 07時54分40秒 | 葛城市へ
葛城市染野の傘堂は郡山藩主の本多政勝の家来であった吉弘統家が建立(1674年)した。

一本脚の傘堂の造りはとても珍しい。

その傘堂の傍らには元禄九年(1696)に建立された墓標二基がある。

墓標には「俗名 吉弘甚左衛門之尉統家」とある。

燦々と照っていたお日さんは二上山の向こうに隠れていけば長く影が伸びてきた。

墓標の前に位牌(一年交替で大字のお寺が保管)を置き灯明に火が点けられた。



集まった男性は新在家、染野、今在家の三カ大字の役員30名。

今日は大池を造った際、工事で亡くなった人を弔う法要の日。

かって八月一日に行われていたものが新暦の九月一日になり、昨今は農業従事者がサラリーマン化したことから休日の日に替わった。

八朔の日に営むことから八朔法要(施餓鬼とも)と呼んでいる法要は、水飢饉に苦しむ農民の救済に築造した願主(藩主の吉弘統家)の威徳を讃え、工事に尽力した先人の菩提を弔い、さらに恩恵を受ける大池の水(現在は分水から水を得ている)に感謝するお勤めだ。



墓標を建立してからも三百年に亘って連綿と供養の法要は新在家の明円寺、染野の石光寺、今在家の観音寺の僧侶が毎年交替されて営んでいる。

2月、4月、6月、8月には大池や傘堂の周りを草刈りして綺麗に清掃している三カ大字。

いつまでも守っていきたいと仰る村の役員さんは、お勤めのあと交流の場になる公民館に向かっていった。

なお、12月初旬には大池勘定という公益金を分配されている。

昔やったら年貢、今は税金。水利権は勘定されて三カ大字の収益源となっているという公益金は、大池の維持管理費にあてがわれている。

池の堤防や傘堂の周りの草刈りをする。

落ち葉も清掃して綺麗にするのが大字の役目。

2月、4月、6月、8月の清掃作業をお願いする代償に費やされている

(H21. 9. 6 Kiss Digtal N撮影)

61km走行で制限速度21kmオーバー

2009年09月26日 07時40分24秒 | いどう
染野の取材に向けて広陵町の県道(広陵町大字広瀬1227番地の先)を走っていた。

取材のおりにはたいがい利用している道だ。

すると左側になにやら光る異様なものが目に入った。

あっ、やってしまったー。

速度を緩めておそるおそる前進すると向こうからおいでおいでと誘いの姿は制服マン。

十数年ぶりにゲットされてしまいました。

「はい、21kmオーバーの指定速度違反です」の台詞に頭を抱える。

「お急ぎですか」の問いに「はい」と応えれば「手間はかけません」だって。

調書を取られている間もチャカチャカとレジシートのように器械から出力される。

隣を見れば赤色調書。わたしゃ青色。

免停にならんかっただけでも助かる。

取材にも影響はない。

かなわんのは一万五千円の出費だ。

定額しか収入のない身にとって、その金額は重くのしかかる。

交通事故だったらそれどころではない。

心に油断ができていたのであろう、今回の件は戒めの儀式と考えて合掌。

(H21. 9. 6 記)

池田熊野神社八朔祭

2009年09月25日 08時03分28秒 | 奈良市へ
八嶋郷や帯解界隈の地域では盛んに八朔祭が行われている。

なかでも池田町に鎮座する熊野神社の祭礼は一風変わっている。

早朝に当家に集まってきた宮座十人衆は祭礼の供物造りに忙しい。

すし桶に入れたササゲゴハンは、お茶碗二杯分ぐらいでしょうか430gずつ目方に計ってパックに入れていく。

一方ではを半切りにして中をくり抜く。

それを四等分にする。

底になる部分は平に切断する。

先にインゲンと呼ぶセンゴクマメと切断したカボチャにミョウガを串刺し。

これらは氏子家の数となる33個作っていく。

次年度の当家夫妻は翌年の支度のために記録を取ったり細工の支援をする。

コウジブタに並べた供物に名前はないが本殿の前に神饌をともに供えられる。



ササゲゴハンは末社に並べられて12本のローソクに火が点けられた。

一老が述べる八朔の祝詞奏上が祭礼のすべてである。



それを終えると氏子の数だけ袋に詰めていく。

十人衆はそれぞれの六班地域に別れて配っていく。

「熊野神社のお供物です」と言って氏子家を呼出して配る。



自宅であっても配る際には玄関から家人を呼び出して配る。

衆の一員として儀礼を大切にしてるんだと後(あと)スケだった前年の当家さんは仰った。

串刺ししたカボチャとインゲンはタネが入っている。

そのタネは次年度当家のみならず隣家らが畑に植えて育てていく。

当家は祭礼のお供物をタネから育てるのだが、万が一不作に窮しても隣が助けるという。

お供物は当家に送る「タネオクリ」ともいわれている。

たいそうな儀礼は次世代に続けていくことが難しいと呟かれた。

祭礼後の直会において話題は秋祭りの御膳作りが持ち出されたそうだ。

この御膳作りは八朔御供よりもはるかに手間と時間がかかる。

以前からこれをどうするか随分と意見交換されていたようだ。

結局、今年の祭りからやめようと決議された。

なお、各家では串差しの供物は煮炊きものにしたり吸い物に入れたりして食べるそうだ。

たばった私の家でもそうしたがとても美味しいもの。

家人もパクパク食べるぐらいササゲゴハンも旨かった。

(H21. 9. 6 Kiss Digtal N撮影)

下山町の八坂神社八朔祭

2009年09月24日 07時06分42秒 | 奈良市へ
八朔祭の日は一日。

早朝、月並み祭が営まれた奈良市帯解下山町の八坂神社。

六人衆は後かたづけをして夕方五時に再び集まり籠もりの八朔日。

六時ころからは自治会が催されるカラオケ大会に変身する。

ヨーヨー引きなど子供らの楽しみもあり境内はにぎやかしの日と化す。

本来ならこの日は満十歳の子供がお酒を振る舞う元服の儀式が行われる日だったが、今年は対象の子供の家が不幸ごとの服忌となり、やむなく中断された。

(H21. 9. 1 記)

山村御霊神社八朔祭

2009年09月23日 07時14分09秒 | 奈良市へ
柳生の八坂神社から神職を迎えて八朔祭の神事が始まった奈良市山村町の御霊神社。

宮座の六人衆、氏子総代、自治会役員らは境内に縦列して祭典を行う。

宮司一拝、祓えの儀、祝詞奏上など厳かに執り行われたあとは境内いっぱいにシートを広げる。



そのころには氏子らが風呂敷弁当を手に抱えて集まってくる。

灯明に火を点けて神社に参拝する。


神饌はサンマ一匹にダイコン、ミカン、シイタケ。

これらは本殿の他、四隅の石の上にも供えている。

弁当は八朔弁当と呼ばれるもので、役員に予め頼んでおけば仕出し弁当が用意される。

この弁当に切り替えたお家もあるが、愛情込めた弁当のほうが味わいが違うと仰る。



六人衆と神職は社務所でヨバれる。



総代の挨拶を終えると早速箸でつまんで食事会。

お酒の注文が飛び交い手伝いさんは忙しく動き回る。

カラオケも用意された境内は夜まで続く山村のコミュニケーションの場となる。

(H21. 9. 1 Kiss Digtal N撮影)

桃香野八幡神社風の祈祷

2009年09月22日 08時15分15秒 | 奈良市(旧月ヶ瀬村)へ
山間部で数多く行われている風の祈祷。

奈良市月ヶ瀬の桃香野に鎮座する八幡神社では長老のおとな衆が集まって祭礼を営んでいる。

末社などをお参りした羽織姿の長老は、暑い日差しを避けて軒下の陰を求めて待っている。

神事を営むのは総代の三人。

村神主となって並ぶ。



任期は三年で、ようやく役目を終えることになったという総代が祝詞を奏上する。

祓えの儀、神饌の献饌のあとは大祓詞を全員が唱和する。

元々が八月三十日だった風の祈祷は月初めに営む月並祭の中に組み込まれた。

所作はなくとも、風が吹いて荒れないよう、災害が起きないようにと祈る。



神事を終えれば、献じた洗米、マメ、四角く切ったトロロコンブにジャコをお下がりして直会で饗される。



(H21. 9. 1 Kiss Digtal N撮影)

中山八幡神社八朔参会

2009年09月21日 06時48分59秒 | 奈良市へ
毎月一日は月次祭が営まれている奈良市中山町の八幡神社。

今日、旧暦八月一日は八朔の日でもある。

朝八時に集まった宮座十二人衆は拝殿に登り、月次祭の般若心経を唱える。

一年神主が拍子木を叩き、二老が太鼓を打つ。

中山八幡神社では毎月初恒例の営みである。

三巻唱え終えると直殿に移動してお神酒をいただく。

式使(しきじ)と呼ばれる十三番目のミナライも座に座ってお神酒をいただく。

格式を重んじる座衆はそのあと社務所に上がり、参会(さんかい)と呼ばれる行事の打合せを始める。

この日は朝からお参りに来る人は少なくない。

一日と十五日は、ご利益がある氏神さん参りは欠かせないという氏子は多い。

手を合わせたあとはハクセンコウが入っている御供(ごく)をたばって帰っていく。

参会は年明けの初参会と今日の八朔参会に年末の終参会がある。

この参会は引退した座衆に入れ替わり、新しく座入りする人を座衆が認める場でもある。

2時間ほどの参会を終えると座衆は再び直殿に登ってくる。

中央に間を空けたテーブルにはパック御膳が席に並べられている。

全員が席に着くと一人の座員は座敷下に赴き、「どうぞよろしくお願いします」と口上挨拶を述べる。

そして、100円を入れたポチ袋を一人ずつ差し出していく。

こうして座の仲間入りを認める八朔参会は膳の接待に移る。



かつて接待役は新入り座衆の家族が担っていた。

料理は予め作らなければならないし、座の接待役は男性でないといけないしきたりだった。

家族も少なくなり維持することが困難になったことから、接待役は廃止し、料理も簡単にとパック膳にして形式だけを残した。

(H21. 9. 1 Kiss Digtal N撮影)