マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

丹治の山の神祭

2017年08月11日 09時41分20秒 | 吉野町へ
山の神を祭る日は7日。

圧倒的に多い県内事例は1月7日であるが、地域によっては12月7日とか、11月7日もある。

稀に6月7日にしているという地域もある。

山の神の行事をされている地域は山間地。

木材業が盛んである地域にある。

この日に訪れた地域は吉野町丹治であるが、当月の11月行事であればこれまで取材した地域に吉野町小名の上出垣内もある。

天川村は天河弁才天社西の坪内垣内。

東吉野村は鷲家の川向垣内や上鷲家の大西垣内

五條市は旧大塔村の阪本

御所市であれば日程は申の日である鴨神上郷西佐味水野垣内。

東山間部にあたる奈良市柳生町の山脇もあれば桜井市の横柿もある。

また、話しは聞いているが、未取材地域に吉野町の喜佐谷や天川村の南日裏、黒滝村の赤滝がある。

桜井市の鹿路にもあると聞いているが時間帯は判然としない。

県内くまなく取材をしたいものだが、同一日行事であるだけに何十年もかかってしまう。

吉野町の丹治に山の神行事があると知ったのは平成26年2月1日

所在地を探してみたが見つからなかった。

この日も見つからない。

聞いていた時間帯であるが、早く着き過ぎたのか人影すら見えない。

山の神の所在地は山の中かもしれない。

そう思って急坂を登ってみるが見つからない。

諦めて下ったところに軽トラが停まっていた。

たぶんにここであろうと思って近寄ってみれば、そうであった。

今年当番の上第一、第二垣内の人がお供えをしていた場所は幹回りが太い年代ものの大杉の下。

厚めの一枚板をコンクリート祭壇に載せて御供を置く。

塩、洗い米に生鯖が一尾。

プラスチック製のコウジブタに白い餅がある。

特殊なものなど、一切ない。

饅頭屋に頼んで作ってもらった御供餅はもっとあるが、祭壇に載せられないからゴクマキの場に置いていた。

参拝者はめいめい。

神饌料を奉げて手を合わせる。



丹治の山の神祭には神職は登場しない。

めいめいがやってきて参拝する自由参拝。

山の神の場はハイトダニと呼ばれる谷の地。

勾配のキツイ斜面を登って参拝する。

丹治の山の神は神木の大杉。

百年ぐらいはここに立っているという。



山の神がある山は区有地。

丹治の北の口にあたる。

山の向こう側は大字吉野山の境界になる。

近鉄電車の吉野線に沿って県道を少し南下すれば吉野の千本口駅だ。

丹治に貯木場がある。

川上村から伐り出した木材は丹治に運ばれて加工している。

そういう関係もある製材仕事の従事者はこの日は休みだ。

昭和13年の殖産制度に発展した丹治の江戸時代はタバコの葉の生産地。

養蚕業に欠かせない桑畑もあったという。

そんな話をしていた神木の地はしっかり踏み込んでいなければ後ろに反ってしまうぐらいの急勾配の地である。

参拝を済ませた村の人はここより下ったところで暖をとっている。

その場の方がやや広い地。

しかも安定しているから皆が集まって寄り添う場所でもある。

30分も経ったころだろうか。

立ち状態でトンドにあたっていた参拝者たちは場を移動した。

コンクリートの崖上より投げるゴクマキがこれより始まる。



実は聞いていた時間がそのゴクマキ時間であったのだ。

高齢のご婦人たちは山へ登ることができずにアスフアルト道路のゴクマキ場下から拝んでいた。

トンド場にいた村の人の数の倍以上もおられるゴクマキ場を見て、そう思った。

思う存分の御供餅を投げる男性たち。

道路にいる人たちは右や左に手が伸びる。

ときには後ろに転がっていく。

面白いことに逃したモチが落ちた痕跡が白、白の点々。



ハ、ハ、ハか、ヘ、ヘ、ヘの文字に一、一、一の数字もある。

そんなことはお構いなしに餅を手に入れたい人は動き回っていた。

ちなみに丹治は山の神以外に神社の年中行事がある。

マツリは10月。

新嘗祭は11月23日。

山の神と同じようにゴクマキをしているらしい。

丹治にある神社は2社。

一つは吉野神宮駅近くにあるこうもり神社。

充てる漢字は子守神社のようだ。

もう一社はおおもり神社。

充てる漢字は大森神社であろうか。

また、場所はわからなかったが、弁天社もあるようだ。

また、丹治会館があるところの山の上はシロヤマ(城山)。

この地は以前も聞いている街道を歩く侍を上から見下ろして監視していたという地。

一度は拝見してみたいものだが、機会があればの話しである。

(H28.12. 7 EOS40D撮影)
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吉野町香束のハザカケ

2017年05月22日 07時15分00秒 | 吉野町へ
宇陀市榛原の篠楽(ささがく)の取材を終えて進路を旧西吉野村に向けてハンドルを切る。

旧西吉野村に向かうには榛原からは一挙に南下する。

吉野町の三茶屋(みつぢやや)から右折れして吉野川の畔にでる。

そこからは東に東へとひたすら走って五條市の本陣信号を左折。

吉野川に架かる大川橋を渡る。

そこからはずっと南下。

山に入っていく。

そういうコースを選んで車を走らせる。

三茶屋の信号を右折れ。

そこから道なりに走る。

柳を抜けてしばらく走れば左手に一本竿を架けたハザカケが目に入った。

時間帯は午後3時。

じっくり眺めている余裕はないが車を降りてしばしハザカケ景観を撮っていた。

この地は吉野町香束(こうそく)。

前月の8月24日も訪れた地である。

その日は夜間。

地蔵盆の提灯の灯りに釣られて車から降りた。

そのときも先を急がねばならないから短時間の撮影だった。

(H28. 9.25 EOS40D撮影)
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津風呂入野の九月子安地蔵会式

2017年05月18日 09時08分28秒 | 吉野町へ
吉野町入野(しおの)の子安地蔵尊に会式をしていると知ったのは前月の8月28日だった。

調べていたのは子安地蔵ではなく吉野町津風呂・鬼輪垣内で行われていた旧暦の八月十五日のイモ名月である。

鬼輪垣内は開発された津風呂湖中に全村もろとも沈んだ。

行事は見つからなかったが隣村の入野(しおの)で子安地蔵会式をされていることがわかった。

着いた時間帯は午後1時前。

何人もの人たちが地蔵堂に集まっていた。

前月にお話ししてくださったKさんもおられる。

参拝される村の人たちにお声をかけて取材の主旨を伝える。

代表を受けてくださったのは区長のUさん。

珍しい地蔵さんも行事も大いに宣伝してくださいと云われて取材に入る。

普段の地蔵堂は扉が閉まっている。

格子戸から見えなくもないが、本尊の扉は閉まっているので実態は見えない。

ご開帳されるのは一月二十四日と九月二十四日。

ただ、平成22年からはいずれも第三日曜に移された。

それがこの日である。



本尊の地蔵さんは「元正天皇期の霊亀元年(715)に入野の亀之尾という所に霊亀に乗って金色の光を放ちながら天から降りてこられた」という伝承がある。

安置されている「子安地蔵は江戸時代作の塑像であるが、蓮華座でなく、亀の背に乗っている」ということだ。

特徴的なのは一般的に胸にかける涎掛けであるが、入野の地蔵さんは亀の首にかけているそうだ。

さて、行事日のことである。

毎年の正月と九月の年二回。

いずれも24日が会式(看板では例祭とあるが仏行事なので会式であろう)である。

お堂に近寄ってみれば但し書きが貼ってあった。

平成22年からはいずれも第三日曜日に移されている。

浄土宗の僧侶が来られて法要をするらしいと聞いていたが、どうであったのだろうか。

もっと早くに済まされていたのでろうか聞かずじまいだった。

見上げるように子安地蔵さんを拝ませてもらった。



安産などを祈願した涎掛けがあるその首は龍でもない。

耳があることからもしかとすれば玄武だろうという村人たち。

確かに亀のような脚が見える。

のっそり、のっそり今でも歩きそうな脚に似つかわしくもない顔は一体何であろうか。

中国の説話に龍の一番末っ子が亀の形をしていると云う。

調べてみれば龍の頭に身体が亀の龍亀のようである。

それにしてもだ。

龍であれば長い髭があるのでは・・・と思ったのだが、類例が見当たらない。

地蔵尊を称える板書がある。

要約すれば「霊験あらたかな子安地蔵さんは子供を安らかに生ませて、健康を守り、病気や悪い癖まで治してくれる。首にかけてある涎掛けを一枚受けて、腹帯に差入する。安産が叶えば新しい涎掛けを持ってお礼参りをする習慣、信仰がある」である。

子供に恵まれたい人は願掛けにくる。

生まれたら新調した涎掛け寄進する。

古いのは1月14日の午後2時から行われるとんどで燃やす。

そう話してくれたのは村の人たちだ。

入野(しおの)の戸数は15、6軒。

かつては20軒もあったが、少なくなったという。

この日の当番は4軒当家(とうや)さん。

上、下の組のそれぞれ2軒が務める。



左手に珠を持つ地蔵尊の目の前に当家(とうや)さんが仏飯を供えていた。

云われてみなければ失念していたかも知れない。

仏飯杯を納めていた箱も見せてもらった。



年号を示すものがあればと思ったが時間がない。

適当な時間までここに居て参拝者を待つ。

そろそろ場を替えましょうといって会所に移動する。

会所は入野生活改善センター。

これより始まるのはゴクマキだ。

この日は朝から雨が降っていた。

本来ならば地蔵堂の場でゴクマキをされるのだが、雨天の場合は安全を考慮して入野生活改善センターで行われる。

参拝者の楽しみはゴクマキ。



当家が撒く御供餅に手を伸ばす。

子どもたちも大人も大はしゃぎで餅を手に入れる。

僅か数分で終えたゴクマキ。



降り出した小雨に傘をさして家に戻っていった。

ちなみに入野に鎮座する神社がある。

この場より少し外れた処にあると聞いて立ち寄った上宮(じょうぐう)神社。



11月23日の午後3時からこの日もゴクマキをすると話していた上宮神社は神社庁表記では「うえのみや」になるそうだ。

(H28. 9.18 EOS40D撮影)
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求める鬼輪の前に出合った入野の子安地蔵尊

2017年04月24日 09時31分42秒 | 吉野町へ
史料名は記憶にない。どこで見つけたのかも覚えていないが、そこから抜き出した簡単なメモ記がある。

平成25年の9月のコメントに付記していたのでメモっていたのはその年だ。

メモの内容は「吉野町津風呂・鬼輪垣内では旧暦の八月十五日にイモ名月があると書いていた。

旧暦の八月十五日は十五夜(じゅうごや)。

いわゆる中秋の名月にあたりサトイモの皮を剥いだダンゴをお月見と称して夕方のころから屋敷内に供える。

そういう風習は今も昔も変わらないが供えるのはサトイモではなく餅若しくは饅頭。

いずれも甘い和菓子。

本来の意味を失っている。

サトイモの皮を剥いだら真っ白。

楕円形ではないまん丸な形のイモはお月さんに見立てたもの。

例年であれば12個のイモを供えるが、旧暦閏年は大の月が13カ月となることからイモの数は13個になる。

そういうことをしていた鬼輪垣内の風習は「芋の子」の名があった。

果たして鬼輪垣内はどこにあるのか・・、である。

カーナビゲーションにセットした津風呂を示す通りに走っていく。

南国栖に抜けるトンネル道。

その手前、右折れを示すカーナビゲーション。

下っていけば右手に本堂が建っていた。



それは入野(しおの)の子安地蔵尊であると案内板書があった。

板書を要約すれば、「地蔵さんは元正天皇期の霊亀元年(715)に入野の亀之尾という所に霊亀に乗って金色の光を放ちながら天から降りてこられた」という伝承がある。

「現在、安置している子安地蔵は江戸時代作の塑像であるが、蓮華座でなく、亀の背に乗っている」ということだ。

特徴的なのは一般的に胸にかける涎掛けであるが、入野の地蔵さんは亀の首にかけているそうだ。

さて、行事日のことである。

毎年の正月と九月の年二回。

いずれも24日が会式(看板に例祭とあるが仏行事と思われるので会式とした)である。

お堂に近寄ってみれば但し書きが貼ってあった。

平成22年からはいずれも第三日曜日に移したとある。

もしかとすれば拝観させて行事取材も、と思って現地住民を探してみる。

一人の男性がおられたので声をかければ、なんと3週間前に村入りした東京の人だった。

一時的に住んでいた川上村を離れて当地に来たのは農業従事の専門者になるためだそうだ。

そういう男性が紹介してくれた婦人が住む家を訪ねたがお留守だった。

そこら辺りで見渡せば畑に婦人がおられる。

声をかければもともと当地で生まれ育った婦人。

住まいは田原本町だがここで畑仕事をしているという。

娘さん時代にはおばあさんが尋ねるイモ名月をしていたという。

が、離れて云十年。

村の姿は・・・わからないという。

そこよりさらに下った処は津風呂ダム湖の東の端。

旧家があったのでここでも尋ねるが鬼輪のことは知らないというが、子安地蔵のことはご存じだ。

来月の会式にはお菓子を撒くゴクマキがある。

午後の時間帯、浄土宗の僧侶が来られて法要をするらしい。

とにかく知りたい鬼輪垣内のこと。

場所も判らず、湖畔を回遊するかのような道路を走って探し回るが集落どころか家、一軒も見当たらない。

かつてダム湖に沈んだ村がある。

垣内はたぶん上津風呂に下津風呂であろうか、72戸の人たちが移転を余儀なくされた。

その人たちの一部(20戸)が移住した先は奈良市内。

山陵町(みささぎちょう)内にある津風呂町地区になるそうだ。

さて、鬼輪垣内のことである。

津風呂湖で一番賑わっている場所はといえば津風呂湖観光株式会社があるところだ。

ここなら何かの手がかりが掴めるのでは、と思って尋ねたら社長が一番よく知っていると云われて紹介された。

社長の話しによれば、鬼輪は昭和37年にダム湖が完成する以前の建設が始まった昭和29年ころに移転したという。

ここより見渡す向こう岸。

左手は平尾垣内。

谷を隔てて右寄りに津風呂垣内があったという。

そこら辺りが鬼輪垣内だった。

昭和26・27年発行の地形図に「鬼輪」の文字があるらしい。

村はダム湖建設によって沈んだ。住民は移転したという。

鬼輪の戸数は3軒だった。

うち、一軒は津風呂町に移転した。

2軒は隣村の大字平尾に移転したという。

移転したうちの1軒を教えてもらって探してみたが、結局は判らなかった。

万事休す。である。

(H28. 8.28 SB932SH撮影)
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吉野山口の地蔵盆

2017年04月18日 08時24分25秒 | 吉野町へ
吉野町の香束(こうそく)から下っていけば吉野山口に着く。

当地に鎮守の神社がある。

吉野山口神社である。

神社行事の一つに秋祭り大祭がある。

その行事は平成18年の12月3日に取材させてもらった。

ここを通る度に奉納される餅御供を詰めた器の「ぼっかい」を思い出す。

「ぼっかい」は「ほっかい」が濁った「ぼっかい」の呼び名で表現していた。

充てる漢字は「行器」である。

通り抜けようとした吉野山口に明かりが灯る。

今まさに始まろうとしていた地蔵盆である。

当番と思われる女性が提灯にローソクを灯していた。

その先にも明かりが見える。

近づけばそこも地蔵盆。

ローソクを灯した場に僧侶が立つ。

周りを囲むように地区の人たちが居る。



僧侶は地区浄土宗西蓮寺のご住職。

念仏を唱えていた。

そこの念仏を唱え終わると先ほど拝見した地蔵さんに向かう。

何人かの人たちが付いていった。

急がねばならないが、念仏を唱えた地蔵さんに供えた野菜造りの立て御膳を拝見することを優先した。



香束と同様に串挿しの土台はカボチャ。

香束とは違って大小2個のカボチャを雪だるまのように二段構えにしている。

眉毛はオクラ。

目はトマト。

鼻はナスビに口は赤ピーマン。

耳はホウズキで両手はナスビだ。

お腹部分には花丸模様であろうか。

この立て御膳は怖い顔のように見えた。

話しを聞けばその通りの怪物版。

20年ほど前から立て御膳をするようになったと云う。



そこには木桶に盛った平べったい餅がある。

3斗も搗いたハンゴロシオゴクだという。

「ハンゴロシ」は餅米1に対して粳米は2の量。

米の角を取って半日がかりで搗いたそうだ。

「オゴク」は御供である。

それらを拝見して先の地蔵さんの場に急行する。

お念仏は終わっていなかった。

提灯の灯りだけなので辺りは真っ暗だ。



申しわけないがストロボを当てさせてもらって撮った。

24日は地蔵さんのお勤め。

なむあみだぶつと十篇唱えさせてもらっていますと云う。

お念仏を終えたら恒例のゴクマキ。

地蔵さんにそなえた「ハンゴロシオゴク」を撒く。

この場もそれほど明るくない。

これもまたストロボを発光させてもらってシャッターを押す。

小さな子供たちは前へ。



そこに優しく手渡す「オゴク」である。

それもあれば皆が喜んで取り合いするゴクマキに熱中して地蔵盆を終えた。



吉野山口の行事はこの日の地蔵盆以外に8月17日の十七夜(かつては盆踊りがあった)や同月28日の風日待、9月1日の八朔盆踊り、同月の24日の午後と夕刻にマツリをしているという。

また、7月10日はコムギモチもあれば柿の葉寿司もある。

これらは村の各戸が作って食べているそうだ。

12月7日もマツリ。

かつては青年団が戸板に餅を乗せて運んでいたそうだ。

吉野山口の行事は多彩。

是非とも再訪したいものである。

(H28. 8.24 EOS40D撮影)
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香束の地蔵盆

2017年04月17日 08時32分32秒 | 吉野町へ
吉野町の香束(こうそく)。

三茶屋の信号から国道28号線は佐々羅へ抜ける道。

ここら辺りは幾度となく車を走らせた街道である。

午後6時55分に通っていた地が香束である。

集落が固まっている地に灯りがある。

そこには何人かの人が居る。

車から見えた地蔵さんにお供えがある。

それは立て御膳のように見えた。

車を停車させて場に近づく。

居られた人たちに声をかけて立て御膳を撮らせてもらう。

それはまさしく立て御膳。



半切りしたカボチャに串挿し。

彩り豊かに挿した野菜は赤ピーマン、ホウズキ、ナスビ、ミョウガにキュウリだった。

地蔵さんの下には祭壇がある。

ガラスケースにしているローソク立て。

ローソクの灯りがガラス板に反射して明るい。

その前にある線香は何本あるのだろうか。



赤く燃える線香に煙がくゆる。

辺りは真っ暗だが地蔵さんには電灯も照らしていた。

もうすぐやってくる村の導師が般若心経を唱えるそうだが、先を急がねばならない。

申しわけないが失礼させてもらった。

(H28. 8.24 EOS40D撮影)
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丹治・上第一の地蔵盆

2017年04月15日 09時20分45秒 | 吉野町へ
向丹治(むかいたんじ)で良き出会いをさせてもらった。

ここ吉野町の地蔵盆の状況を教えてもらったお家がある。

その日は平成26年の2月1日

厄祓いに丹治の各地区にある地蔵さんを巡って餅を供えていく風習を調べにきた日である。

結果的に云えば該当者に遭遇することはなかった。

なかったが、地蔵盆に供える御膳や野菜で形作る造り物の在り方を知った日である。

撮った写真があるからと云われて拝見した造り物に度肝を抜かれた。

それがきっかけとなった上第一の地蔵盆は平成26年の8月24日に拝見させてもらった。

地蔵さんがある場近くに住む婦人にこの日もまたお会いした。

平成26年に伺ったときと同様に御膳は野菜盛りになっていた。

見事な盛りが美味しく見える。

マヨネーズにドレッシングをかけて食べたいと思った。

着いた時間帯は午後4時40分。

早くも地蔵さんの提灯に火が点いた。

祠内も灯りがある。

ローソクではなく電灯である。

地蔵さんの前に供えたのは色粉を塗したシンコである。

みたらし団子やちらし寿司。

ブドウなども同じように供えていた。

先を急がねばならないこの日の地蔵盆巡りは大淀町もある。

申しわけないが、礼を述べて失礼した。

(H28. 8.24 EOS40D撮影)
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丹治・向丹治垣内の地蔵盆にシンコ御供

2017年04月14日 10時10分33秒 | 吉野町へ
明るいうちに着いて拝見したい地蔵盆がある。

シンコダンゴにちょんちょんと色付けする。

3色の色粉で色付けしたシンコダンゴは藁筒に串挿しする。

数が多いから見事なものだと思った。

その前には塗り椀に盛った御膳も供える。

また、野菜で作った御膳も供える。

私が初めて拝見したのは平成26年の8月24日だった。

そのときの話しを写真家Kさんに伝えたら是非見たいという。

民俗を取材している者にとっては是非ともとらえておきたい行事は視点を替えて記録に残してほしい。

そう思って案内する吉野町丹治の地蔵盆。

丹治で行われる地蔵盆は垣内ごとにある。

2年前に訪れて取材した垣内は上第一・第二・第三・中一組、中二組(木戸口)、向丹治(むかいたんじ)だった。

その日は時間も足らずで金龍寺境内の地蔵仏やワセダ地蔵仏に飯貝(いがい)の三地区は拝見できなかった。

多数の地区でされているだけにどこに絞って良いやら悩ましい。

この日は丹治だけでなくまだまだ取材しなければならない地域が多い。

仕方なく、と云えば申しわけないが、この日だけが山から下ろして祭っているという向丹治垣内に決めた。

2年も経てば当番の人は違っている。

特徴的なお供えもある向丹治を再訪させてもらったことを伝えて取材の了解を得る。



拝見したシンコダンゴは同じであった。

桶の台に立てたシンコダンゴが美しい。

塗りの御膳もまた美しい。



すべての椀の蓋は開けていなかったのでごく一部であるが撮らせていただく。

中央の椀はプチトマトを添えたゴマ振りのキュウリ揉み。

その横の椀は生野菜。

ササゲマメ、オクラにニンジンがはみ出している。

母親は家でお供えするシンコダンゴを作っている。木枠に搗いたモチ(ダンゴ)を入れて型を作る。

木枠はいくつかあり、それぞれが異なる形状をしている。

型枠に入れて作ったモチは色粉で色付けしている。

そう話してくれた女性にもしよろしければと作っている状況を取材したいと申し出た。

女性が云った。

「顔だしせず、手だけなら・・・」という条件付きの撮影に許可してくださった。

女性が住む家では母親が中心となってシンコダンゴの御供作りをしている。

毎年のことで、小さいころから作業を手伝っていると云う。

案内されたお家に上がらせてもらう。



木枠にモチを詰めて型取りをする。

こういう具合にしていると説明してくださる。

型抜きはいろんな形がある。

一枚の型枠に数個の型抜きがある。



象や亀、梅、松、蝶、栗、桃、貝などすべてが手造りの型抜き枠。

昔の丹治では各戸にこうした型抜き枠があった。

それぞれの家が独自に作った型抜きでシンコダンゴをこしらえていたそうだ。

うち一枚の型抜きの側面に「十七年」の文字があった。

型抜きが我が家のものであることがわかるように印もある。

三代前のお爺さんが型枠を作っていたという刻印である。

お爺さんの兄弟は大工さん。

その技量もあって作られたようだ。

「十七年」の年代は平成でなく、昭和のような気がする。

朝から蒸して作っていたシンコダンゴは熱いお湯を入れて捏ねて作る。

子どもも作れる型抜きは好きな型に嵌めて作っていたそうだ。

色粉の塗りは3色。順番は特に決まっていない。

好きな色から塗り始める。

色塗りは塗るという表現はし辛い。



色塗りは小さな点のようにポチッと押すようにつける。

容器に溶かした色粉に箸のような小さな木片を浸ける。

滴が落ちないように、それをシンコダンゴにちょん、という具合だ。

緑色、黄色、赤色をちょんとつける。



ちょんの位置も数も決まりはないようだ。

型枠によってちょんの位置も違うのでそうなる。

コウジブタに入れたシンコダンゴに色がつくと綺麗に見える。



シンコダンゴの化粧はこうした作業をもって作られていること教えてくださった当家に感謝する。

ちなみに母親はシンコダンゴだけでなく何がしかの祭りや祝い事があれば柿の葉寿司を作っていると云う。



柿の葉で包んだ寿司米は自家製の桶に押して詰める。

7月10日に行われる神社行事のサナブリにはコムギモチも作って供えるという。

なにかと手造りが多い当家の話しはまだある。

2月1日に行われる地蔵さんの厄除け参りだ。

前厄に当たる年は41個の餅を持って各垣内にある地蔵さんに供えて参る。

翌年は本厄。

その年は42個の餅を持って参る。

次の年は後厄だ。

その年は43個の餅。

来年の平成29年は後厄になると話してくれた。

丹治の厄払いの地蔵さん参りは未だ拝見できていない。

該当する人がどこにおられるのかさっぱり掴めない。

厄でない場合は当然ながら参ることはない。

地蔵さんの前で待っていても現れることはない。

参ったことがあるという人にお話を聞いたことがあり、上第一地区の地蔵さんで待っていたが、出合わなかった。

朝7時ぐらいにしていると聞いていたが、だれ一人として現れないので諦めて帰ったことがある。

シンコダンゴ作りを拝見させてもらったお家にすがりつく県内事例に見られない丹治の伝統行事に初取材ができそうだ。

こんな出会いがあった向丹治にもう一度感謝した。



こうした話をしてくださった当家は再び向丹治の地蔵さんに参って作りたてのシンコダンゴを供えられた。

そこには先ほどなかった野菜造りの御膳が立っていた。

立っていたのはナスビで作ったポケモンに登場するカビゴンだ。



私は見たことがないからこれが本物・・・かどうかわからない。

どうであれ、胴体は丸ナスで腕は細いナスビ。

手はミョウガで足はゴボウで作っていた。

その前にあるのはプチトマトで作ったモンスターボールである。

これは地蔵盆に3年に一度の廻りになるトヤ家が作った御膳である。

その左横に作りたての色付けシンコダンゴ。

皿に盛られてラップ包みで供えた。

とん、とん・・。

朝から枡で計った米粉。

日光に当てた粳米が10割に対して餅米を1割。

お米をはたいてもらってくる。

はたくのは上へいくほどはたいてもらったシンコ(新米)で作った。

隣村になる吉野町の新子(あたらし)はコロコロまきのお団子だった。

コロコロさんを潰してみたらしのようにして食べると当家の母親が云っていた。

(H28. 8.24 EOS40D撮影)
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柳・上柳の地蔵盆

2017年04月12日 09時32分18秒 | 吉野町へ
この日の行事取材地は吉野町と大淀町。

各地の地蔵盆の在り方を拝見することにある。

目的地に向かう道すがらに見つけた地蔵盆の提灯。

ずらりと横並びに吊った提灯は否が応でも目に入る。

これは是非とも話を伺っておいたほうがいいだろうと思って車を停めた。

ここより先の処でUターン。

その場で目が点になった施設に揚げた幟旗。

これは一体何であるのか。



「火の用心」の大きな文字があるからここは消防署。

なにかがおかしい。

「火の用心」は上から読んで火の用心。

その左側に貼ってる幟旗の文字は「交通安全」。

なぜか逆さ文字である。

逆さ文字に違いないと思うのは下段の横文字。

正位置に書かれた文字は「中竜門交通安全協会」である。

ここは一体どこなんだ。

辺りを見渡せば地域施設の位置を示す地図がある。

それには「吉野町消防団中竜門第一分団管内図」とある。

その地図を立てている横に施設がある。

「中竜門地域振興センター・柳児童館」である。

ここは吉野町の柳であった。

柳は西から田尻、中央、中村。

中村の北に別所。

また、中央の東に上柳とある。

さきほど見かけたたくさんの提灯を吊っていた地蔵盆がある地区は上柳。

Uターンして村の人に聞けばそうであった。

上柳の地蔵盆は8月24日。

夕方の午後5時半ころから集まる。

当番の人が地蔵さんに供えるセキハンの握り飯を並べる。

コモチも多くて一斗半も搗く。

太鼓を打ってカセットテープが唱える念仏を流している。

終るのは午後6時だと区長さんらが話していた。

それまでの時間帯は他町村地区の地蔵盆の様相を探索、取材する。

一旦は上柳を離れて大淀町増口・中増・西増に吉野町丹治に出かける。

そこでの取材を終えて戻って来た時間帯は午後6時。



県道の拡張工事によって埋没していた地蔵さんが出てきた。

谷にあった地蔵さんはこうしてコンクリート製の崖内に設えた祠に納めて祭っている。

日中に遭遇した地蔵さんの前は長机があったが、それは相当数ある御供を納める祭壇になっていた。

その代わりではないが、歩道に並べた長椅子を設えていた。

すでに何にかの人たちが夕涼みを兼ねて座っている。

話していたセキハンの握り飯のお供えを拝見する。



お盆に盛ったセキハンの握り飯はたくさんある。

形はどちらかと云えば俵型である。

ざっと数えただけでも100個の握り飯。

上柳の戸数は20戸というから一軒に何個かの握り飯が配られるのであろう。

白い餅はコモチ。

前述したように一斗半も搗いたコモチは桶でもなくバケットに盛っていた。



当番の人は花を立ててローソクに火を灯す。

線香も火を点けていくころの時間帯は陽も暮れる。

辺りはゆっくりと時間が流れ、電灯線をひいた提灯に火を灯す。



村の人たちがやってきて始まりを待つ。

子供たちの姿もみえる。



老若男女が揃って長椅子に座る。

地蔵さんに手を合せばカセットテープが唱える念仏が流れる。

車の往来が激しい国道沿いの地蔵盆。

役員たちは交通安全にここより上下区間とも人を配置して通りがかる車に合図する赤色LED誘導灯で誘導していた。

上柳の地蔵さんは、この新道の拡幅工事をしている際に出てきたという。

右下にある谷から出現した地蔵さんは大切に守ろうというわけでコンクリート製の崖内に設えた祠に安置したということだ。

カセットテープの音源は生前に導師が残したお念仏。



なみようほうれんげきょ・・の念仏に合わせて村人たちもお念仏を唱える。

村内にあるお寺は願成寺。

無住寺であるが、真宗大谷派の東本願寺の教区になる。

お念仏を終えたら先を急がねばならない。

日が暮れているかななおさら急がねばならない。

事情を申しあげて、さようならを伝えたらどっさりとお下がりのコモチを分けてくださった。

ありがとうの気持ちは再会したときにお礼を伝えたい。

そう思って退出した。

(H28. 8.24 EOS40D撮影)
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丹治の地蔵盆

2015年03月30日 07時31分05秒 | 吉野町へ
最近はニュースでも取りあげられるようになった吉野町丹治のどろん子祭り。

今年は6回目になる。

どろチャリ、どろん子フラッグの競技もあればどろんこすべり台もしていると云うどろん子祭り。

団体のカメラマンも来て賑わっているそうだが「着替える子供を撮っている者がおってどなったこともある」と中二区の区長さんが話していた。

いやはや困ったことである。

この日は丹治の地蔵盆。

野菜の造りものや御膳、シンコダンゴ御供もあると知って訪れた。

早めに着いて聞取りをしようと思っていたが14時ころでは上第一、中垣内ともに誰もおられない。

街道を下って金龍寺角地にある中二区の木戸口地蔵尊へ。

雨が降ると判断して午前中にテントを立てたそうだ。

にわかに黒い雲に覆われて雨が降り出した。

本降りである。



中二区の木戸口地蔵さんの前には上から、4、4、6、8個の提灯を吊った「ダイガク」のような形を立てていた。

以前はそのような形態ではなく、地蔵さん周りを囲むように提灯を吊るしていたという。

かつて丹治の神社のマツリに高張提灯をかたげてオワタリをしていた。

ヨミヤにも高張提灯を掲げていたが、古座・新座の宮座行事と重なり、忙しくなった。

そのころから若い者もおらんようになった。

担ぐ人がいなくなった。

そういった事情があってやめたオワタリ提灯。

高張提灯の形式を継承した地蔵盆に掲げるようになったという提灯立て。

今から、6、7年前から金龍寺側と道路隔てた反対側に立てるようにしたと話す。

この日は雨天。

ビニールカバーを被せて調えた。

日が暮れた頃、提灯に灯りが灯った。

宮座行事の詳しいことは聞きそびれたが、今では両座を纏めてひとつの座にしたようだ。

丹治の地蔵盆のお供えは野菜の造り物だけでなく、串に挿したシンコダンゴ盛りもある。

近年は手間のかかるダンゴ作りはお店に注文するようになった。

盛りもしなくなった垣内・組もある。

今では挿すこともなく餅屋で作ってもらったダンゴを供えるようにした中二区の木戸口地蔵尊。

つい最近まで使っていたというシンコダンゴを串に挿す太い藁束と御供桶を倉庫に残していた。



桶の裏側に「地蔵尊御供桶 明治三拾三年旧八月」と墨書された記銘があった。

今ではシンコダンゴを挿すこともない中二区。

餅屋で作ってもらったダンゴを供えるようにしたと云う。



シンコダンゴは赤、緑の色粉を塗ったものだ。

昔からそういう形だったようであるがラップで包んでいるので判り難い。

しばらくすればどこからともなくやってきたおばあさんが置いていったダンゴ。



ラップ包みであるが、よくよく見ればドロイモ(サトイモ)と思われるイモに餡を塗している御供はイモボタであろう。

90歳のおばあさんはいつもそうしていると区長らが話していた。

奈良県の郷土料理の一つに挙げられるイモモチは東吉野村の鷲家で拝見したことがある。

史料によれば吉野町の他、下市町、天川村、野迫川村、下北山村などの吉野郡地方ではイモボタと呼んでいるようだ。

15時ころともなれば廻り当番のトヤ家がお供えをされる。

前日に家族とともに作っておいた野菜の造りものは流行りのふなっしーと吉野町アイドルのマスコットキャラクターのピンクルだ。

胸に「吉」の文字まである。串に挿すことなく乗せているだけの造りもの。



動かす際には注意を要する。そろりそろりと供えていた。

ジャガイモ、パプリカ、ズッキーニで目はナスビで作ったピンクルは親父さんの手作り。

ふなっしーは娘さんが作ったそうだ。

材料はウリ、水ナス、イトカボチャにピーマン。



表情が愛くるしい。

トヤさんが云うには、日程・行事名は知らないが国栖で夜中に家を回ってお菓子を貰う行事があると話していた。

御膳はのちほど持ってくると云われたが丹治では中二区以外に数カ所で行われている。

一時的にどしゃぶりとなっていたが、上ではやや小雨。

テント、提灯などの飾り付けの作業をしていたた上第一隣組に着いたのは15時だ。

トヤの人はサラリーマン。

気をもんではいるものの造りものは間に合わず野菜盛りにしたと云う。

かつては当地でも御供桶があって串に挿したシンコダンゴもしていたと云う。

一旦は失礼して下の垣内に移動した時間帯は15時半。

一カ所は上三組・中一組合同の中垣内の地蔵盆である。



ヒバの葉で作った屋根を設えたヤカタ納めの地蔵さんに供えた造りものは、またもやふなっしーだ。

ソーメンカボチャ、メロンマッカ、赤いパプリカでこしらえたと云う。



両端には紅白の餅を供えていた。

ここでもかつては串に挿した色粉塗りをしたシンコダンゴであった。

型に入れたダンゴは蒸して吊るしていたが、今では皿に置いた杉の葉に盛っている。

屋根葺きはヒノキ材。

お皿はなぜに杉の葉であるのか。

答えは簡単。

ヒノキであればダンゴがくっつくのである。

中垣内の地の北手にある山は「シロヤマ」と呼ぶ山城があったそうだ。

弘法大師が通ったとされる山道を歩く人物。

ちょん髷を結った侍が不審者であるかどうか、見張っていたと云う歴史的な街道である。

ここより南へ20mの地にも地蔵盆が行われている。

上二組・上三組合同の中垣内である。

こちらの造りものは映画「アナと雪の女王」に共演するオラフ。

映画を観たことはないが、今にも動き出しそうな表情のオラフはダイコン、ジャガイモ、タマネギで作った。

ニンジンの赤い鼻が決めてである。



手の材料は何だろうか。

左横にあるのは発泡スチロールで現した雪ダルマ。

なぜかダイコンの葉があった。

ここも屋根材はヒバである。



かつて藁束に串挿しのシンコダンゴを供えていた御供桶はお供えの飾り台に転用していた。

シンコダンゴはモチに替ったものの杉の葉を敷いて盛っていた。



御供はパンやお菓子にバナナもある。



丁度そのころやってきたお菓子貰いの子供たち。

オラフはここにいるよと云ってみたものの気がつかなかったようだ。



時間は16時半を過ぎていた。

県道を挟んだ向こう側でもしていると教えてくださった向丹治(むこうたんじ)の集落。

作業場のような場に地蔵さんを祭っていると云う。

向丹治ではきちんとした祭壇を組んでいた。

午前中出かけた桜団地の近くの赤土が採れる地の里道。

そこに安置されている地蔵さんはこの日だけここに移動していると云う。

一年のうち、この日だけは向丹治の垣内に下りてくる地蔵さん。

雨風にあたっては気の毒だとヤカタを作ろうとしたが「入れたらアカンと云われて断念した」そうだが、アカン理由は何であったのか判らないと話す。

この地蔵さんは眼病に効くとかで、聞きつけた人がお参りしている姿をときおり見かけるそうだ。

20年ほど前のことだ。「一週間ほど出かけはった。警察に捜索願を出して、探してみれば近くの山の中にいてはったから元の場所に戻ってもらった」と云う。



参考までに村の人が記録された写真を載せておく。



そのような逸話がある地蔵さんの祭壇には両脇の竹製の花立てがある。

さまざまなイロバナを飾っていた。

ヤカタ奥には串挿しのシンコダンゴを供えていた。



ここでは今でも健在の御供桶もあった。

お供えには生御膳もある。



垣内によっては飯盛り、汁椀、採れたての野菜盛りもあれば調理御膳の場合もある。

他所でも見られた野菜造りのふなっしーもある。



全体は黄マッカであるが、胴体内部はウリで周りにキュウリを詰めたそうだ。

手はバナナ、目はショウガ、足はトウモロコシ、ネクタイ・口がニンジン。

手がこんだ造りである。

これで3体目のふなっしー。

今年いちばんの人気はひっぱりだこである。

このころの時間帯は17時。

雨がざんざん降ってきた。

奈良県北部や平坦では警報が出たそうだ。

丹治の雨量はざんざんだったが少しはマシな降り。



小雨になったころを見計らってやってきた親子連れの子供たち。

次から次へと参拝されていた。

お参りを済ませたらお菓子・飲もの。



いずれを選んでも構わなく、2品をもらって次の地蔵さんへ巡っていった。

稀には一人でやってくる男の子もいる。



賽銭を入れて手を合わせていた。

そこへやってきた団体の親子連れ。



お父さんは赤ちゃんを前抱っこしていた。

昨今のおんぶは背中後ろではなく前抱っこ。

最近は背中おんぶは見かけたことがない。

時代も大きく変容している。

御膳も供えたころだと判断して小雨になった丹治を行ったり来たりする。

17時50分に戻った上第一隣組。



ここでもベビーカーを押す親子連れの参拝者が何組か来ていた。

祝儀と思われる御供袋が増えていた。



お供えは各戸がされたと思われるブドウ、バラ寿司、みたらしだんごなどがある。



シンコダンゴをやめて御供餅の盛りやトヤが話していた野菜盛りの御膳もあった。

赤、緑、黄色の色粉をあしらったパック詰めの花型シンコダンゴも供えていた。



テントを設えていた垣内住民も手を合わす地蔵盆巡り。

3人並んでお参りする子供たちもいた。



先に参った地蔵さんで貰ったお菓子を辻で食べていた子供たちだが作法はきちんとしている。

中垣内の2カ所も取材の礼をしたいが下の木戸口地蔵に向かった。

戻ってきた時間は18時20分。

この日の地蔵巡りは身体が限界だと言いだした。



丹治の地蔵巡りは小降りの参拝であるが、途絶えることはない。

高張提灯にローソクを灯していた。



夕闇の灯りの雰囲気が風情を醸し出す。

ふなっしーもピンクルもしっくりおさまっている後方に御膳があった。



3時間前はなかった御膳を見届けて5カ所巡りをした丹治をあとにしたが他に4カ所もある。

ワセダと呼ばれる地、吉野神宮駅踏切南の地、水分神社付近の民家、貯木場である。

18時を過ぎた時間帯。

金龍寺の住職がそれぞれの地蔵さん出向いて12体あるという地蔵さんに法要をされると聞いていたが、丹治の滞在時間は5時間。

体力の限界を感じて断念した。

金龍寺の御膳はもっとすごいと聞いていたが訪れる時間を確保することはできなかった。

全容は来年に持ち越しである。

(H26. 8.24 EOS40D撮影)
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