マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

月ヶ瀬嵩八柱神社秋の大祭

2017年06月24日 08時52分55秒 | 奈良市(旧月ヶ瀬村)へ
平成2年11月に月ヶ瀬村(現奈良市月ヶ瀬)が発刊した『月ヶ瀬村史』がある。

村史によれば嵩の八柱神社の例祭は10月27日(平成11年から第三日曜)だった。

「例祭の当屋は家並み順。かつては子どもが当屋であって大まつり、小まつりの名称で呼ばれていた。大きい子どものうちから一人。小さい子どものうちからも一人。座衆、非衆の区別があった・・・。秋茄子が一番のご馳走というほど質素な料理。村中の人たちが寄ってきて、野菜のご馳走を食べて謡いをする。その場でお箱渡しが行われる。昔は宵宮の晩に当屋の家に集まってカシの木で作った千本杵と木臼で餅を搗いた。当屋の家では寿司や刺身、松茸などのご馳走を作り村各戸に配った。謡いの式には三角に切った焼豆腐とコンニャク、ジャコがある。昭和十二年、戦争の影響で招待者は遠慮、節約体制となり、以降は寂しくなった」と書いてあった。

オトナ(老名)は四人。

長老は神主と呼ばれ祭事を務めた。

前日の宵宮で話してくださった嵩の行事。

本日の八柱神社の大祭に生きた鯉を供えていた。

生きているから暴れる場合もある。

それを防ぐには鯉の目に蓋をする。

蓋といっても紙片である。

神事が終われば近くにあるため池に放して放生会をした。

今年からは鯛になったが、放生の鯉は酸素を詰めた袋に入れて斎主がもらって帰る。

隣村の月瀬では一老がもらって帰ったというから、かつての嵩もそうであった可能性が高い。

ただ、年代は不明だが『祭り帳』に「はつの魚」の記載もある。

マグロを「はつ」と呼んでいたのは山添村の大字春日。

マツリに登場するでっかいマグロは刺身用。

嵩でも同じようにマグロの刺身を出す時代もあったようだ。

昔の御供はもうひとつの特徴があった。

それは山に生息してキジである。

捕ってきたキジを供えて持ち帰るのも斎主。

いつしかキジでなく山鳥代わりの生玉子である。



昭和3年の初期のころの『祭り帳』に記載されていた山ノ鳥や川魚のことである。

宮総代らがいうには昭和44年から49年までは生玉子。

50年からは玉子5個に定まった。

また、大祭に三角に切ったコンニャクに同じく三角に切った柔らかい豆腐を挟む料理がある。

『祭り帳』によればその料理を「サンド」と書いてあった。

つまりはパンのように挟むことからサンドイッチ。



イッチが取れて「サンド」の表記は昭和53年ともなれば「三度サンド」。

さらには「三角三度」に移っていた。

『祭り帳』に書かれていた当時の記帳内容を把握しながらの取材である。



本当家と相当家の2軒の家族が調理する座の料理。

奇麗に皮を剥いた茄子が山盛り。



その向こうには三角に整えた味付けコンニャクがある。

茄子は蒸し器で蒸す。

やや小さくなった蒸し茄子は大皿に盛る。



盛り方は放射状に広げるような感じだ。

柔らかくなった蒸し茄子は手を添えながら並べる。



ほうれん草は大鍋で茹でた。

これはクルミイモである。



クルミは青豆をすり潰したもの。

どろどろになったクルミはとろとろに茹でた里芋に覆うようにかける。

クルミの潰し方は若干の粒状を残す。

こうしておけば歯触りが良い。

かつて数か所のよばれたことのあるイノコのクルミモチもそうだった。

あのときの食感は忘れられない魅力がある。

三角サンドの呼び名がある三角切のコンニャクと豆腐。

厚めの豆腐を横スライスに切って三角切り。

手に乗せて切るのが難しそうだった。

挟んだこの形を拝見して思い出したのが山添村の大字春日のオトナ祭り(若宮祭)の座に出てくる料理である。

豆腐の焼きがあるか、ないかの違いはあるが、形状はまったく同じである。

三角切りの豆腐・蒟蒻の名前を漁ってみたが、大字春日の資料には固有名詞の記載がなかった。

どちらが先にあったのかわからないが、何らかの関係性があったことに違いない。

大祭神事が始まる時間帯は午後2時。

神前に数々の神饌御供を先に並べた。



お重に詰めた青豆はハジキ豆。

もう一つのお重はクルミイモ。

お櫃の御飯はキヨ(『祭り帳』に“きよう”とある)の白蒸し飯。

生玉子五つは両当家の奉った御幣の陰に隠れた。

他に鏡餅や鯉から替わった鯛や鯖に開きの魚のサイラ干し、祝い昆布、寿司海苔。葉付きの大根、蕪、人参もある。

宵宮同様に拝殿に登るのは神職に4人のオトナ(老名)と3人の宮総代である。



参集された氏子たちは見守るかのように外で参列する。

大祓詞の唱和。

そして、祝詞奏上。

厳かに行われる神事に聞こえる祝詞。

野鳥が囀る声が境内に広がる荘厳な場に佇んでいると異空間に入り込んだかのような錯覚を覚える。

次に始まるのは両当家が奉げた御幣を受ける奉鎮祭。

まずは本社殿に向かって正座する。



頭を下げて2礼、2拍手、1礼。

本当家、相当家とも同じ作法をして拝殿に戻る。



そこで受け取る当家の御幣。

儀式を終えて場を移動する。

そういえば先に拝見していた『祭り帳』に記載していた春日神社や薬師寺などの御供はどこにあったのであろうか。

嵩の神饌御供は先に調えて供えている。

ここにあると聞いて下げる前に撮らせてもらった薬師寺の神饌御供。



本社殿の御供と同じようにお重に詰めたハジキ豆にクルミイモ。

本社殿の鏡餅は五合であったが薬師寺は二合の重ね餅。

その前にある小皿盛りがキヨの飯。

一合升で詰めた作ったキヨの飯は四角い形であった。

本尊は格子扉の奥に安置されている。

落ち着いて拝見する間もなかったが、掲げてあった絵馬に目が留まる。

文政十一年(1828)七月吉日に寄進奉納された絵馬がある。



退治した赤鬼、青鬼に向かって諭しているかのように見える武者の絵馬。

お伴の者を描いていないから桃太郎ではないだろう。

で、あれば大江山の鬼退治した渡邊綱なのか。

大江山を描いた絵馬は群衆絵が主。

このような優しく鬼を諭す絵馬はあまりない、と思うのだ。

いずれであっても、絵馬に願主尾山とあるから大字尾山の人が寄進したことには違いない。

ちなみに春日神社は本社右横にあるヤカタであった。



これより始まるのは「座」である。

上座に座るのは神職と一老に区長である。

両脇の席についたのはオトナ(老名)、宮総代、氏子である。

下座につくのが本当家、相当家。

そういった席の前に並べた嵩のごっつぉはお櫃に盛ったキヨ(『祭り帳』に“きよう”とある)の白蒸し飯。

お重詰めのハジキ豆。



同じくお重詰めのクルミイモ。

里芋、大根、人参、竹輪、椎茸を煮込んだ煮しめ料理。

酢ゴボウ。

輪切りイカのたいたん。



三角切りの味付けコンニャク。

胡麻を振りかけた茹でほうれん草は醤油の味付け。



ダイビキの名がある辛子漬けの蒸し茄子にコンニャクと豆腐を挟んだ三角サンドである。

座始まりの指示は斎主の大字尾山の岡本和生宮司が行う。



まずは下座についた両当家が座の始まりの挨拶をする。

そして、下げたお神酒を座中に注いで酒を飲む。



注ぎ回った両当家も酒をついでもらって一同揃って一杯をいただく。



すぐさま動いた両当家は上座から酒を注ぎまわる。

酒を待てない氏子たちは交互に酒を注ぎ合う。

ひと通り酒を注ぎ終えたら今度はお櫃をもって上座に向かう。



小皿に盛ってまわるキヨの飯である。

次に配るのはお重詰めのクルミイモ。



席に回されたクルミイモはそれぞれが一つずつ箸で摘まんで手元の小皿に乗せる。

イモはそれぞれが廻していくが最終的には下座の両当家席の前において留め置き。

次に廻すのは煮しめ料理。

その次は輪切りイカ。

そして、酢ゴボウ、三角切りのコンニャク。

茹でほうれん草も順番に廻す。



廻す都度に中央に置いたご馳走料理を移動する。

一つ、一つの盛りを順次繰り上げるように移動するのである。

ただし、である。



大皿盛りの辛子漬けの蒸し茄子とコンニャクと豆腐を挟んだ三角サンドのお重は廻さない。

後ほど行われる謡いを終えてからである。

そのときに登場する“膳”は松葉と白い菊の花を立てた2/3切り大根である。



大根はやや長目のようだ。

その膳には高く盛ったジャコに盃がある。

この“膳”は2杯ある。

座が始まってから1時間経ってのころだ。

この“膳”を上座の斎主と一老席の前に置く。

謡いの歌詞を見てどの曲を先に謡うのか。

オトナとも相談して決めた初めの曲は四海波。

そして始まる謡いの儀式である。



まずは塗りの盃に酒を注ぐ。

盃は“膳”にある塗り盃である。

酒は熱燗のようだ。

酒を注いだ塗り盃を手前に差し出すような位置で止める。



それから謡う四海波。

「四海波 静かにて・・」の節を謡う斎主。

それに合わせて次の節の「國も収まる時つ風・・・」からは一同も揃って朗々と謡う。



最後の節の「・・君の恵みはありがたや」を謡い終わって盃の酒を一気に飲み干す。

飲んだ盃を“膳”に戻してジャコを摘まむ。

摘まんだジャコをいただく間に次の盃は右手の次の席者に。

左手も次の席者に“膳”を移動する。

盃を手にして酒を注いでもらう。

次の歌い手は下座に座った若い人。

謡う曲は高砂だ。

「ところは高砂の・・・」と謡えば、一同が揃って「尾の上の松も・・・」と謡う。

だいたいが1曲2分間の儀式は上座から数えて何人かが酒をいただいた。

廻し飲みの酒に膳が運ばれるが、なんとなく山添村の大字春日のオトナ祭り(若宮祭)の座に出てくる、

いわゆる“見せ膳”によく似ているように思えるが、どうも違う。

祝いの膳、それとも“謡い膳”と呼ぶのが相応しいのかもしれない。

そう判断してこれ以降の文は“謡い膳”とさせていただく。



一区切りがついたのか、先ほど謡いをしていた二人の若い人が上座に動いた。

持ったのはコンニャクと豆腐を挟んだ三角サンドのお重だ。

当家でもない若い人は手伝いのドウゲ(堂下)のように思えたが聞きそびれた。

順番に三角サンドを配った二人は下座に戻る。

そうすると両当家が“謡い膳”を二人の前に差し出す。

これまでと同じように注いでもらった盃の酒をいただいてジャコを食べる。

ジャコは廻し飲みに食べる肴である。

席についた両当家がようやく口にする煮しめ料理。

三角サンドも食べるが、座の接待に廻らなければならない。

ゆっくり落ち着いて食べる間もなく席を離れて上座に向かう両当家。

上座の席に運ぶのは大皿に盛った辛子漬けの蒸し茄子である。



大皿の中央にあるのは辛子醤油漬け。

箸で摘まんだ茄子を椀の辛子に漬けて小皿に移す。

一人、一本の蒸し茄子はナスビそのものの味だが、辛子醤油をふんだんに漬けることによって乙な味に変貌する。

『祭り帳』に記しているのは材料だけであって、味付けというか今で云う作り方レシピは書かれることがない。

村行事において味覚も受け継いでくるのは難しいことだと思うのである。

座中のとり計らいで座料理を味わう特別な料理の美味しさが口中に広がった。

三角サンドには味付けはない。

コンニャクは蒟蒻の味であるし、豆腐は豆腐味。

どちらかといえば豆腐そのものの味がする。



なお、この辛子茄子のことを「ダイビキ」と呼んでいたのが気にかかる。

これまで取材した地域。

山添村の松尾のトウヤ(当家)家が渡り衆をもてなす接待宴があった。

その在り方に「大魚の鯛を大皿に盛った器を掲げて宴の真ん中を歩く親戚筋。皿を持って左右にゆらりゆらりと振るように前に出る。要人たちは手を叩いて謡いをする」と書いた。

もしかとすれば、であるが、嵩のもてなし料理の辛子茄子は大皿盛り。

それを縁者が頭辺りにもって宴座で披露していたのかもしれない。

そう思ったのであるが・・・。

かつては大皿に盛った松茸もあったそうだ。

「松茸は上等の味やった。旨いもんは美味い。美味い松茸やけど、辛子醤油もサイコーやっ」とほうばって食べていた宴に謡いは続く。

一方、「料理だけじゃなく、ちょっと違うものももってきてくれんか」という声も出る。

お酒も随分飲んで酔いも謡いに発揮さるように聞こえる。

「これ、もう、謡いに廻してくれ」と云って指図したのが辛子醤油漬けの蒸し茄子であった。

そのときに発せられた言葉が「ダイビキ」を廻してくれであった。

実はと云ったのが辛子醤油漬けの蒸し茄子の味付け。

昔はどうやら素の味の蒸し茄子だったようだ。

宴もたけなわの時間帯に両当家が動き出した。

かつては当家家がもてなしの接待場。

現在は八柱神社下にある嵩のセンターに場を移した。

センターは会所でもあるが、玄関には提灯を吊るしていた。



その提灯を降ろして屋内に運ぶ。

提灯だけでなく「嵩八柱神社 祭用道具当家」の表示がある箱がある。

それらは次の当家に引き継がれる。

これより始まる当家渡しの儀式で受け継がれる道具は献立文書の『祭り帳』や提灯である。

道具は受け渡しする儀式そのものに作法もなく座敷に置いたままである。

作法は次の両当家と向かい合う下座で行われる。



下座の内側に座ったのが受け継ぐ両当家。

盃を手にして渡す当家が注ぐ。

盃は“謡い膳”にある塗りの盃である。

実はこの盃は武蔵野盃。

本来は大中小の五枚盃。

一番上にあった一番小さい盃であるが、かつては大盃で飲んでいた。

ところが、のん兵衛は少なくなり、やがて小盃になったという。



なみなみと盃に注いだ酒は口を三度つけて飲み干す。

そして、ジャコを摘まんで食べる。

そうして始まった謡いの曲は竹生島。

「緑樹かげしんで・・・」と謡えば一同揃って「魚木にのぼるけしきあり・・・」を謡う。

謡い終えるまでの受け当家は盃をもったままに静止する。

謡いが終われば盃の酒を一気に飲み干した。

ジャコを食べたら今度は継ぐ当家に移る。



盃を手にしたら受け当家が酒を注いで、口を三度つけて飲み干す。

ジャコも同じようにいただく。

そして、謡いが始まった。

竹生島の二番を続けて謡う。



「名所多き数々に・・」に続いて一同が謡う「浦山かけてながむれば・・・」である。

それもまた一曲終わって酒を飲む。

これを「ナガレ(お流れ)」と云って当家渡しは三献の儀で〆た。

こうした一連の儀式が終われば受け当家は再び“謡い膳”を抱えて上座に運んで順番に酒を注ぎ回る。

このときの盃も朱塗りの盃。

一同はこうして酒を飲み交わし、“契り”を交わした座を終えた。



数曲の謡いをしていたオトナ(老名)の一人は「ザザンダ(ザ)ー」と、云った。相当家を務めたⅠさんも、そういえば昔は・・・という。

総代の話しによればかつては〆のナガレに謡うのは「浜松の音はざざんざの高砂のキリ」だったそうだ。

嵩での詞章はわからないが、山添村春日で謡う高砂のキリの謡いに「千秋楽は民をなで 万才楽には命をのぶ 相生のまつ風さつさつの声ぞたの しむささつさつの声ぞ楽しむ 祭典お開き・・・謡  ざざんざ 浜松の音はざざんざ」であったことを付記しておく。

(H28.10.23 EOS40D撮影)
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桃香野八幡神社の御供

2017年06月22日 09時07分27秒 | 奈良市(旧月ヶ瀬村)へ
この日の取材メインは奈良市月ヶ瀬の嵩の行事である。

それが始まるまでの時間帯に訪れた地域は嵩よりすぐ近くの桃香野である。

桃香野の八幡神社の祭礼は平成15年の11月23日に取材したことがある。

かれこれ14年前のことである。

下見もせずに訪れた地の状況もわからず、お渡りに出発される当家の場を求めて歩いていた。

急な坂道にこれから当家の家に集まろうとしていた紺色素襖着用烏帽子衆に遭遇したことを覚えている。

お家はあそこだと云われて急行した。

しばらくすればお渡りが始まった。

行列の中でひと際目立った御供担ぎ。

先頭は紅葉を差したイモガシラ(芋頭)。

その次は白餅を差して放射状に仕立てたハナモチ。

その次は餅ではなく平たく切ったイモガシラ(芋頭)だった。

お稚児さんに出会った烏帽子衆に神輿がついていく。

撮った写真の映像は今でも鮮明に覚えているが渡り並びに祭礼の行程はあやふやだ。

2年前のことだ。

撮った風景写真をFBで紹介している写真家がとらえた茶摘み景観を拝見していた。

その画像に映っている男性のお顔ははっきりと覚えている。

FBをされていると知って当時の祭礼写真を送らせてもらったら喜んでいただいた。

男性はそのときの祭礼当家だったことをあらためて知ったのである。

男性はまた、氏神祭礼に奉納する芸能能狂言保存会の一員でもあった。

また、桃香野には写真家のKさんもおられる。

例祭前日は当家御供の調製や能狂言舞台の設営作業もある。

例祭渡御は午前11時半ころ。

それまでの時間帯であれば調整された御供を拝見できると思って出かけた。

平成15年の氏神祭礼は11月23日だった。

平成2年11月に月ヶ瀬村(現奈良市月ヶ瀬)が発刊した『月ヶ瀬村史』に記載されている祭りの日は10月20日である。

それが11月に移った。

取材日以降の数年後に10月になったと聞いている。

いつしか10月半ばに移った。

移ってからは固定日でもなくなった変則日。

その後は10月20日に近い日曜日に移ったことは風の便りに聞いていたが、もしかとすれば前週であるかもと思って出かけたが、やはりであった。

掲示してあったポスターにタイムスケジュールが書いてあった。

前日は午後3時から子供餅つき。

本日は朝10時半から出発する子供神輿の巡行。

神事が行われる直前、お渡り衆に続いてやってくる。

午後0時半からはバザーである。

バザーに無料のおでん振る舞いもあればフランクフルト、駄菓子、ビールなどの販売もある。

神事を終えた午後2時半から桃香野自治会が主宰する奉納能楽もある。

早めに着いてできる限りご挨拶と思ってやってきた。

時間帯は午前9時半。

神事の準備に忙しく動き回る村神主代表のUさんにお礼だ。

バザーの振る舞いおでんはもう出来上がっているから食べていってやと云われるご相伴に預かる。

大釜で煮込んだおでんの香りが境内まで漂っている。

桃香野の若い女性たちが心を込めて作ったおでんはたっぷり盛ってくれた。



朝ご飯は家で食べてきたのにお腹が欲しがる旨そうなおでん。

カラシも付けてもらって口にほうばる。

出汁が浸みこんだおでんはとにくかく美味しい。

そのことを伝えたら満足げな笑顔で返してくれた。

早い時間帯に訪れたのは渡りの人たちが抱える当家御供を見るためだ。

前日に調整し終わった当家御供は地区の集落センター(自治会館)の和室に保管している。

村神主や集落センターにおられた人たちの了解を得て御供を拝見する。

屋内の座敷に整然と置いているわけでないのでありのままの状態で撮らせていただく。



一つは緑色の紅葉を添えた芯芽がにょきっと突き出したオカシラと呼ぶカシライモ(頭芋)である。

二つ目は長めの竹串に白餅を挿したハナモチ(花餅)。



上から見ればぱっと花びらが開いたように見えるからハナモチの名がついたのだろう。

そのハナモチは太い藁棒に刺してある。



倒れないようにしているのか、それとも担ぎやすいようにしているのかわからないが、竹で編んだ籠に納めている。

三つ目は平たく切ったカシライモ。



これもハナモチと同じように花が咲き誇ったような形であることからハナイモ(花芋)の名がある。

室内に置かれた御供はそれだけであるが、他にも数々の品物がある。

それらは渡りの人たちがそれぞれの御供を担いで渡るのである。

順番が決まっている役とともに列挙しておく。

お渡りの先頭は当家身内の兄息子が抱えるオカシラ。

皿に盛ったオカシラである。

2番手は一升五合の青豆大豆を盛った籠を担ぐ中息子。

3番手は弟息子が担ぐハナモチ。

4番手は中与力が担ぐハナイモ。

5番手は弟与力が担ぐハナモチ。

それぞれのハナモチ、ハナイモの竹串は122本ずつ。

三つ合わせて360本の御供は一年間を表しているという。

大量の本数を準備しなくてはならない作業の中で一番に挙げたい手間のかかる道具作りである。

ここまでの登場人物の衣装は紋付き着物に袴。

足は白足袋で下駄を履く。

6番手は濃紺色の素襖を着て烏帽子を被る「烏帽子」。

「ヨボサ」の別名がある烏帽子は12人。



この日に参集された烏帽子役がそう云っていた。

ラストの7番手は締め手の一升酒樽を抱える兄与力。

烏帽子を役目する人たちが定刻の集合時間に衣装を身に纏ってやってきた。

これより始まるのが御札渡しと呼ぶ儀式であるが、隣村の嵩の調理具合を取材するために一旦は桃香野を離れる。

戻ってきた時間帯は午前12時20分ころ。

お渡りの一行はすでに出発していた。



その様子を道中で拝見したのか、村の人たちは祭りの場にやってくる。

その時間帯ともなれば大勢のカメラマンが集まっていた。

その中には知人のカメラマンが5人も。

うち一人は村のカメラマン。

行事の進行役を務めるそうで裃姿になっていた

そろそろお渡りの一行が神社に戻ってくる。

お渡り行列はまだ着いていなかったが、神事が始まろうとしていた。



嵩の行事が始まる時間帯に最も近づいたころを見計らって桃香野を離れたから祭りの一部始終は翌年廻しにするが、平成2年11月に月ヶ瀬村(現奈良市月ヶ瀬)が発刊した『月ヶ瀬村史』に大字桃香野の宮役のことが詳しく書かれているので参考にされたい。

なお、お渡りは雨天であっても決行する。

その場合は番傘をさしてのお渡りになるようだ。

(H28.10.16 SB932SH撮影)
(H28.10.23 EOS40D撮影)
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月ヶ瀬嵩八柱神社の宵宮

2017年06月19日 08時57分48秒 | 奈良市(旧月ヶ瀬村)へ
平成2年11月に月ヶ瀬村(現奈良市月ヶ瀬)が発刊した『月ヶ瀬村史』がある。

村史によれば大字の嵩(だけ)の八柱神社の例祭は10月27日だった。

「例祭の当屋は家並み順。かつては子どもが当屋であって大まつり、小まつりの名称で呼ばれていた。大きい子どものうちから一人。小さい子どものうちからも一人。座衆、非衆の区別があった・・・。秋茄子が一番のご馳走というほど質素な料理。村中の人たちが寄ってきて、野菜のご馳走を食べて謡いをする。その場でお箱渡しが行われる。昔は宵宮(大正3年、4年は夜宮表記)の晩に当屋の家に集まってカシの木で作った千本杵と木臼で餅を搗いた。当屋の家では寿司や刺身、松茸などのご馳走を作り村各戸に配った。謡いの式には三角に切った焼豆腐とコンニャク、ジャコがある。昭和十二年、戦争の影響で招待者は遠慮、節約体制となり、以降は寂しくなった」と書いてあった。

奈良市月ヶ瀬嵩(だけ)の八柱神社で夜宮やマツリがあると知ったのは2カ月前。

8月27日に行われた風の祈祷の日である。

その日の取材のときに宮総代が話してくれた嵩のマツリ。

「直会に謡いがある。武蔵野の名がある大きな酒盃で酒を飲む。謡いは朗々と謡う四海波。座でよばれる酒の肴はナスビの田楽にトーフ、コンニャクに煮しめ。青豆のクルミはサトイモに塗して食べる」と話していた。

座の料理はどのようにして作られるのか。

興味は謡いの盃もある。

取材したいと申し出てこの日も訪れた。

村史では当屋表記であったが、現在は当家の漢字を充てている。

当家は2軒。

本当家(ホントーヤ)と相当家(アイトーヤ)の2軒がマツリによばれる料理を作り、座の接待をする役に就く。

かつては4人の男の年齢順で務める当家であったが、現在は家の廻りになった。

4人ということは村史にある座衆、非衆のそれぞれから2人ずつの当家であったろう。

昔の嵩の戸数は30戸。

今では16戸になったが、昭和25年当時は子どもが50人も居たというから団塊世代の子どもたちで溢れていたようだ。

当時の当家は子どもが任に就いたのも理解できるが、現在は2軒の大人が務めている。

戸数が16戸であるから6年に一度の廻りである。

この日の出仕もあるが、明日の祭りは「奉鎮祭」の名がある御幣を捧ぐ神事がある。

与力制度がある嵩の村組織。

明治29年までは旧波多野村に属していた嵩。

旧波多野村は現在の山添村の春日、大西、菅生、西波多(上津・下津)、遅瀬、中峯山、広代、中之庄、吉田、鵜山、片平、葛尾、広瀬に現奈良市の嵩である。

旧波多野村のすべてではないがほとんどの村が、村の運営に関わっている与力制度で組織化している。

制度を詳しく述べる文字数を持ち合わせていないからここでは省かせていただく。

この日の行事にも参列されるオトナ(村史では老名とあるが、現在は翁戸那の漢字を充てる)は四人。

長老は神主と呼ばれ祭事を務めたと村史に書いてあったが、現在の斎主は大字尾山の岡本和生宮司である。



神事は風の祈祷のときも同じように4人のオトナと3人の宮総代が参列する。

まずは大祓詞の唱和。

そして、祝詞奏上に玉串奉奠である。

大祭の宵宮に直会膳がある。

この日の午前中から作っていた膳の料理。

神職をはじめとしてオトナや宮総代が酒を飲み干す直会膳に差し出される料理は三品。



一品に正月の味と同じにした酢牛蒡。



二品にオタフクマメの甘煮。



三品がサトイモやニンジン、コンニャク、ダイコン、シイタケに竹輪を炊いた煮しめである。

この三品を肴にお神酒をよばれる。

座が終わってからよばれた三品のお味。

薄味であるがとても美味しい。

サトイモはとろとろで私の口によく合う家庭の味だった。



まずは二人の当家が並んで下座に正座。

挨拶、口上を述べて直会が始まる。

「本日はありがとうございます。例年通りの料理でございますが、時間許す限り、どうぞごゆっくりいただきますようよろしくお願いします」と述べてから席を立って給仕の酒注ぎ。

一旦は下がって座中は乾杯して料理を肴に酒を飲む。



空になる前に席を廻って酒を注ぎまわるのは二人の当家だ。

明日の大祭には辛子醤油漬けの蒸し茄子田楽とか青豆クルミイモ・マメ・三角切りの豆腐・コンニャクなどを配膳する。

実は直会の時間中も奥の調理場では料理の下ごしらえの真っ最中だった。



宵宮の神事には誰一人の参拝は見られなかったが、直会中には黙々と手を合わせる村人がいた。

宵宮の座は一時間ばかり。



座中は解散されて戻っていかれたが両当家の家族は居残って下ごしらえの続きである。



枝豆は茎から外して大釜で茹でる。

茹でた枝豆は莢から出して豆だけにする。



明日は朝から豆を潰してクルミにする。

クルミはクルミという実ではない。

当村では青豆を潰してイモにのせる。

のせるというよりもイモを包み込むことから「包む」である。

「包む」は「包み」。

こうしてクルミのイモ料理にするが、東山間では亥の日に食べるクルミモチがある。

字のごとく青豆を潰して包むのは餅である。

潰したクルミに砂糖を塗して餅を包む。

味は砂糖があるから甘いが、青豆の香りがとても美味しい郷土料理。

嵩では亥の日にクルミモチは登場しない。

村史によれば、嵩の亥の日は鬼子母神を祭る日。

赤飯のおにぎりをたくさん作って重箱に盛る。

弾けたザクロとともに部屋内の暗い処に祭る。

縁結びの神さんとされる鬼子母神が恥ずかしがるからそうしているとあった。

おとなしくしなければ嫁のもらい手がなくなると信じられ、子供が泣いたり、或は喋らないように注意したそうだ。

月ヶ瀬各大字であった亥の日の習俗の今は月瀬だけがしていると書いてあった。



三角切りコンニャクは明日に最終調理。

もっともこのコンニャクは別料理の味付け煮込みの方であるが・・

豆腐も同じ大きさ形の三角に切って挟む。

ちなみに宮総代やオトナが云うには大祭のお供えに山ノ鳥とか川魚があったそうだ。

昭和3年の初期のころの『祭り帳』にその記載があった。

(H28.10.22 EOS40D撮影)
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月ヶ瀬嵩の風の祈祷

2017年04月21日 08時14分18秒 | 奈良市(旧月ヶ瀬村)へ
月ヶ瀬の嵩(だけ)で風の祈祷行事をしていると知ったのは平成24年8月28日に訪れた近隣大字の月瀬である。

その日は月瀬の八柱神社でも風の祈祷行事をしていた。

大祓詞を唱えて祈祷したお札を村境の4カ所に立てた。

においても同じような形式で行っていると話していた。

それから4年も経った。

行事がある日は8月27日。

月瀬よりも一日早い。

その日に伺えば関係者がおられるだろうと思って訪れた。

着いた時間は行事が始まる少し前の時間帯。

八柱神社の拝殿にお供えを揃えている宮総代にお声をかけた。

その場で本日の行事を取材のお願いを申し出た。

月瀬の十人衆や大字尾山の岡本和生宮司から聞いていた風の祈祷との違いなどを取材したいとお願いしたら承諾された。

ありがたいことである。

嵩では3人の宮総代がおられる。

宮総代は神社行事のお手伝い。

お供えの調達や調整ごともあるし行事の進行やオトナの接待もある。

なにかと忙しく駆け回っているようだ。

宮総代のうち代表を務めるⅠさんは社務所、参籠の座の場でもある嵩総合センターにオトナの人たちがおられるからと云われて挨拶をさせていただく。

オトナを充てる漢字は「翁戸那」。

宮オトナとも呼ぶ長老四人衆である。

オトナは亡くなるまで嵩の年中行事を支える長老衆。

最近は自らの意思をもって引退する場合もあるらしい。

嵩のマツリは10月26日がヨミヤで27日が大祭だった。

今では月末の土曜日、日曜日に移した。

大名が支配していた嵩のかつての時代は藤堂藩。

他の大字は郡山藩だったという。

当時、殿さんのために新しい道を造った。

大祭以外に本日の風の祈祷、祈年祭、新穀感謝祭などの中祭もあるが、毎月初めの一日は小祭の一日座(朔座)がある。

また、八柱神社傍に建つ薬師寺の行事もある。

寺行事は薬師講に大般若、薬師会式などがある。

嵩の薬師寺は長谷寺真言宗派。

京都の南山城村の田山も出仕されている住職が来られるそうだ。

また、旧波多野村に属している月ヶ瀬嵩が参列される山添村中峯山(ちゅうむざん)神波多(かんはた)神社の秋季例祭行事がある。

旧波多野村は春日村、大西村、菅生村、西波多村(上津・下津)、遅瀬村、中峯山村、広代村、中之庄村、吉田村、鵜山村、片平村、葛尾村、広瀬村に嵩村である。

明治22年に町村合併、その後の明治30年に嵩村を編入されて波多野村になった。

その関係をもって今では奈良市に編入された月ヶ瀬嵩は、現在の山添村の各大字とともに一同が揃うお渡りに一番役を務めている月ヶ瀬嵩が中心的役割を担っているという。

そうした月ヶ瀬嵩に関わる件を話してくださったオトナも宮総代も拝殿に登って神事が行われる。

祓の詞、祓えの儀に一同揃って唱える大祓詞。

尾山の宮司が斎主されるここら辺りの地域はどこも同じように大祓詞を唱和する。

そして始まる祝詞奏上に玉串奉奠である。



神饌は洗米や塩、お酒もあるが、この日のための「奉祈祷悪風雨除大麻」の版で刷った祈祷札もある。

神饌棚にはサバ缶詰やジャコの盛りにセキハンもある。

二百十日の大風に祈祷札は3枚。

昔の道にあたる村境の3カ所の入口に立てる。

昔は悪病除けに風雨順調を願ったようだ。

嵩総合センターに戻ったオトナは早速作業に移る。



伐りとってきためろう竹と乾かして作っておいた昨年もんの竹の皮が要る。

めろう竹はススンボの竹ではなく竹箕の原材料になる竹である。

フジの木で叩いて柔らかくしためろう竹を編んで箕にするという。

祈祷札は二つ折りにした竹の皮の内側に納める。

何故にそうするのか。

祈祷札は先を三つに割いためろう竹に直に挟む状態であれば風雨に晒されて破損してしまう。

祈祷札は何時までも保ってもらいたいから竹の皮で包む。

隣村の月瀬も同じ形態だった。

まるで逆三角形になった竹の皮は外れないように上部は白い紐のようなもので縛っておく。

3本とも調整できれば直会に移る。



注文したオードブルもあるが神饌を下げたジャコ、昆布、海苔とセキハンを肴にお神酒をよばれる。



およそ1時間の直会を済ませたオトナや宮総代は手分けして村境にでかける。

村境といってもすぐ近くだ。



一本は八柱神社や薬師寺を下りた山添村遅瀬に繋がる道傍である。

もう一本はそこよりさらに下った山添村大塩へ行く道傍だ。

もう一本は西の村入口。

月瀬寄りの処になるが、場所は特定できなかった。

ちなみに嵩には明治時代なのか、それとも云十年前なのかわからないが、何代か前の爺さん時代に能面があったそうだ。



その能面は見ることはできないが10月に行われるマツリについて話される宮総代も一カ所に立てた。

マツリの直会に謡いがある。

武蔵野の名がある大きな酒盃で酒を飲む。

謡いは四海波。

朗々と謡うそうだ。

座でよばれる酒の肴はナスビの田楽にトーフ、コンニャクに煮しめ、青豆のクルミがある。

クルミはサトイモに塗して食べる料理である。

この内容を聞いて是非とも今年に取材したいと願ったのは言うまでもない。

ところで嵩にもトンド行事がある。

各戸の注連縄を子供が集めて縄にする。

それをどうするかは聞いていないが、たぶんにトンド組みに使う括りであろう。

朝6時に点火するという。

(H28. 8.27 EOS40D撮影)
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桃香野の豊作願いの神符

2016年11月16日 19時02分10秒 | 奈良市(旧月ヶ瀬村)へ
枡型・弁天の言い伝えを座の場で紹介されたオトナ衆の長老は昭和4年生まれの87歳。

元気で達者な声。

この日に参列していた子どもたちにもわかるように解説される。

参拝者名簿の横に置いてあったお札を木の棒は見覚えがあっても当地ではなく他所である。

木の棒はウルシのように思えたがそうではなかった。

オトナ衆がいうにはハゼノキ。

つまりはハゼウルシの木である。

ウルシほどかぶれることはないが、弱い人はこの木でもかぶれるそうだ。

お札は八幡大明神と書いてあることから神符であるが、あきらかにオコナイのごーさん札だと思った。

そのことを口にするまでもなく、長老らはこれを「ごーさん」と呼んでいた。

ごーさんが登場するのは八幡神社の年中行事にある祈年祭。

ここでは2月17日に行っているという。

かつては100本も準備したが、今では20本から30本にした。

村の戸数は105軒。

その戸数分を作っていたが、農の営みをする家が減ったのであろう。

長老が云うにはこれは苗代作りをしたときに水口に立てる祈祷札。

稲苗がすくすく育つように豊作を願うモノである。

ごーさん札を立てた場には洗い米をパラパラと落としていたらしい。

ちなみに田植えの際にはフキの葉とカヤの茎葉が登場する。

苗取りをする田植え始めの場に12枚のフキの葉を並べる。

その場はその年に始めて田植え作業をする処である。

風に飛ばされないように12本のカヤの茎葉を挿す。

軸は硬いからフキの葉を突き通して田んぼに突き刺さる。

フキの葉に洗い米とコガシの豆を落とす。

コガシの豆はキナコのことだ。

この在り方は、一般的に植え初めと呼ばれる農家の暮らし方。

長老は「植え初め」ということなく「サブラケ」と呼んでいたが、現状ではそういう行為をする家はまずないだろうと云う。

(H28. 5. 5 EOS40D撮影)
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桃香野の枡型弁天一万度祭

2016年11月16日 07時49分09秒 | 奈良市(旧月ヶ瀬村)へ
実に11年ぶり(平成17年)に訪れる奈良市月ヶ瀬桃香野の枡型弁天一万度祭行事。

民俗写真家のKさんご希望の行事である。

平成21年、京都淡交社より発刊した著書の『奈良大和路の年中行事』にも紹介している行事である。

ちなみに月ヶ瀬の行事は7月1日に行われる「龍王祭」も紹介している。

Kさんは両行事とも行ってみたいと話していた。

桃香野の行事は両行事の他に、平成15年10月に行われた八幡神社・秋の例祭や平成17年1月の八幡神社・的打ち、平成21年9月の八幡神社・風の祈祷、平成22年3月の善法寺・彼岸座、同年5月の善法寺・仏生会もある。

神社行事は三人の村神主にオトナ衆(充てる漢字は老名)が。

寺行事は檀家たちによって行われているが、何年も離れているうちにすっかり顔ぶれが替わっていた。

境内にどこかで見たような男性がいた。

知人のFBでたびたび見かける男性は写真関係に携わる人。

何故にここにおられるのか話しを聞いて納得した。

これを機会にFB申請させていただいた。

男性が紹介する若い男性。月ヶ瀬に入り込んだ地域協力隊の一人。

月ヶ瀬の行事を取材して地域誌に載せるという。

行事を誌面で紹介する写真はこう撮ればいいのでは・・とアドバイスしたが・・・。

それはともかく拝殿前にあった階段に目が行く。

階段の側面に刻印があった。

右側は「第五十六回 正遷宮」。

左は「造営 平成十一年十一月吉日」とある。

今より17年前に斎行された証しである。

オナト衆が云うには八幡神社のゾーク(造営事業)は20年単位でなく。

7年周期。

3度の7年目に当たる年が大遷宮(だいせんぐう)と呼び、造営祭典が行われる21年ごとのゾーク事業(造営事業)である。

次のゾークは平成32年。

社務所を建て直すらしい。

昭和32年にゾークが行われたときの写真を掲示している参籠所をじっくり拝見している時間はない。

時間ともなれば行事は進行する。

社務所の回廊に座っているのは長老のオトナ衆や婦人たち。

鳥居より後方にいるのは子供会の子たち。

数年の間に子供が増えたようだ。

手水で清めた3人の村神主が拝殿に向けて参進する。

威風堂々した村神主の姿に思わずシャッターを押す。

神主やオトナ衆や婦人たちは拝殿の出入り口から入室するが、子供たちは拝殿の扉を開けて上がる。

綺麗に揃えた靴で育ちの良さがわかるが、上がるのは上級生。



まだ若い子供は拝殿前で待つ。

3人の村神主のうち一人が斎主を務める。

祓え戸社に向かって祓え詞を奏上する。

幣で祓って献饌。そして祝詞奏上ではなく参拝者とともに大祓詞を奏上する。

神饌を下げて参籠所に移る。

直会の場に子どもたちも並んでいた。

お酒を注ぐのは当番の大人。

神主やオトナ衆や婦人たちに子供会の親までも注いで廻る。

お神酒の肴は御供下げの煮豆と小片のコンブ。

箸やスプーンでよそって半紙に移す。

半紙はいわゆるお皿。

昔からこうしている。

お神酒を継いだ塗り椀をもって乾杯。

ぐぐっと飲む。

肴は他にもジャコがある。

県内事例で最も多く見られると思っているジャコ喰いもある直会はおよそ20分間。

「さあ、やろか」の一声がかかって始まった。



棚に採取していた何枚かの葉があるツバキの枝を持つオトナ衆。



参拝に来た長老、婦人らに子供会の子どもたちも選んだツバキの木をもって鳥居横にある手水鉢に葉ごと浸ける。

オトナ衆を先頭に石参道を歩いて本殿へ向かう。



本堂には3人の村神主が待っている。



一人は拝殿、二人は賽銭箱の左右に分かれて座った。

二人の前には厚めの折敷を置いている。

そこに差し出す一枚のツバキ葉。



参拝の人が手にした枝の中でも最良と判断して選んだ葉である。

参拝者の一人、一人が差し出す葉の形状や破損、汚れなどを検証する二人は目がきょろきょろする。

参道はまるで行列のように次から次へと参進する。

その間に聞こえてきた楽曲はお伊勢参り。

「あれはいせ これはいせ いんとせー」など聞き覚えのある楽曲はかつて収録された長老たちが唄うお伊勢参りだった。

当時はカセットテープで収録。

その音源からCD化されたものだけにノイズとともに境内に響き渡る。

村人たちの行為によって最良の一枚が選ばれた。



その一枚を献上して神事を終えた。

その一枚は直会の場でお披露目される。

みなで選んだ一枚がここにある。



自然と笑顔がこぼれた。

今回拝見したのは若干の変化が認められたので、敢えてではあるが、著書『奈良大和路の年中行事』に執筆した「桃香野の枡型弁天一万度祭」を紹介した一文は言い回しなど加筆修正した上で再掲載することにした。

「奈良市に統合された旧月ヶ瀬村。桃香野の八幡神社では椿の葉を1万枚数えて神さんに奉納し、五穀豊穣を願う珍しい神事の弁天一万度祭が行なわれる。いつ始まったのか、なぜ一万枚なのか古老たちも知らないといい現在も続けられている。昼過ぎに神社に集まった大人衆、奈良の万成と言われる梅寿会、いわゆる老人会と子ども会。一万度祭はオトナ衆(老名)たちがとり仕切って行われる行事である。役員すべては拝殿に登って大祓詞を唱和する。そのあと、場を替えて神楽殿で直会が行なわれる。皿に見立てた半紙に豆、昆布、雑魚、カマボコ、テンプラを配膳。当番の人はお神酒を注ぎまわる。箸を使わずに口に添えていただく。やがて参加者たちは用意された椿の枝を一本ずつ手に持ってお伊勢参りの囃子が響くなか、鳥居と本殿間をお百度参りのようにぐるぐるまわる。手水鉢の水で清めた綺麗な葉を一枚ずつ枝からむしり取っては本殿前に置かれた箱に入れる。置かれた葉はその中からさらに綺麗なものを宮守が選ぶ。選んでは本殿に置く一の位、十の位、百の位、千の位を示す箱へ順に送っていく。これを繰り返し最奥の葉が十枚集まると一万枚が数えられたことになる。その中から選ばれた葉が最も美しい葉。そのあとの奉告祭で神さんに献上される。お年寄りと子どもたちが選んだ一万度の行事は、微笑ましくも楽しさが伝わってくる。」

(H28. 5. 5 EOS40D撮影)
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月瀬大神神社風の祈祷

2012年11月06日 08時35分14秒 | 奈良市(旧月ヶ瀬村)へ
8月から9月にかけて行われている風の祈祷行事は県内各地で見られる。

この日に訪れたのは奈良市月ヶ瀬月瀬に鎮座する大神(おおが)神社。

一年間に亘る神社祭祀を勤める長老十人衆も健在だが、数年間の間には欠員も生じた。

そういうことになれば次の年長者が新たに加わって十人の大人衆組織を維持してきた。

十人衆は黒紋付の和装姿。

夏の季節は涼しさを感じる白和装の身姿になる人もいる。

尾山の宮司が到着すれば始まる風の祈祷。

拝殿に登って本殿石棺型の神前に御供を供える。

先に石棺祠の御簾を上げていた本殿だ。

三方に置いたお札は「奉祈祷悪風雨除大麻」の祈祷札。

宮司の話によれば「大麻」の文字は「お札」の意味であるという。

始めに当番の施主(一年神主)が祓戸社で祝詞を奏上する。

当番の施主(一年神主)は欠員が生じた2週間後に加わったそうだ。

年功序列の決まりで平成23年の9月に「まわり講」の入講儀式を経て就いたという。

祓えの神事を終えれば尾山の宮司に替る。

神前に神饌やお札を供えての神事は一同が揃って唱える大祓詞。



神事を終えれば参籠所に場を移して祈祷したお札を青竹に挿す。

祈祷札は風雨に曝されても崩れないように竹の皮に包んでおく。



そのお札は4本。

月瀬の周囲の4か所に挿しておく。

その作業は直会が終わってからだ。

この日は稲荷会式も行われる。

それからになるというから数時間後である。

風の祈祷の直会はめいめいが持参した缶詰を肴に酒杯する。

サバ缶、焼き鳥缶などさまざまだ。

昔からこうしているという。

「昭和の初めころやったら最高のごちそうやった」と口々に云う。

風の祈祷は二百十日、二百二十日の大風に合わないようにと祈る行事。

祈祷の札は集落四隅にそれぞれに挿す。

神事や直会を終えた4時間後。

施主(一年神主)はそれぞれの場に足を運んで札を挿す。

そこには前年に挿した札がある。

一年間も村を守ってきたお札だ。



交換して新しいお札を挿して次の場に向かっていった。

お札は集落の北、南、東、西の4か所。

疫病や大風が村に入ってこないようにと願いを込めて集落の外に向けて挿した。

尾山の宮司や十人衆の話によれば、月ヶ瀬辺りの神社ではそれぞれが風の祈祷を行っているという。

前日の27日には嵩の八柱神社で、29日には尾山の八王神社で行われるそうだ。

嵩は3か所にお札を挿す。

尾山では風雨除けをせずにお札を竹に挿すだけだという。

このように風の祈祷札を挿す地域は近隣の山添村の大塩春日地区でも行われている。

(H24. 8.28 EOS40D撮影)
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桃香野善法寺仏生会の花まつり

2010年06月27日 08時59分16秒 | 奈良市(旧月ヶ瀬村)へ
忍辱山(にんにくせん)円成寺から住職を迎えて仏生会が営まれる月ヶ瀬桃香野の善法寺。

檀家総代や当人は花御堂にお花を飾り付けていく。

御堂の内側にはお釈迦さまの立ち姿。

甘茶の産湯は湯気が流れる。

桃香野の仏生会は一ヶ月遅れの花まつり。

今日は日曜日。

親と共にやってきた子どもたちは手に花束を持っている。

それを花御堂の傍らに供えて座布団に座る。

子どもたちと同席したのは大人衆(おとなしゅう)だ。

平日の場合は学校があるから、子どもたちは帰宅後の時間に行われている花まつり。

灯明に火が点されて始まった法要。

「ナムダイシ ヘンジョー コンゴー」のお念仏はお堂から抜けて月ヶ瀬ダムまで聞こえてきそうだ。

その間、花御堂の前に座ってお釈迦さまに向かって手を合わせ、産湯の甘茶をかけていく。



甘茶は湯飲み椀に入れて飲み干す。

まったりとした甘いお味は創業1184年の菊岡漢方薬店(奈良市内)で購入されたもの。

アマチャの葉で作っとんのと違うやろかと話す檀家衆。

飲み干したあとは焼香に移る。



子どもたちのあとは大人衆。

親に檀家総代ら役員が続いた。

「花御堂はの真ん中はお釈迦さま。今からキリストさまが生まれたときよりもさらに400年前。インドの北のほうの小さな国に生まれた王子さま。名前はシッタルダイシと呼ばれた。生まれたとき甘い雨が降ってきた。たいへん嬉しいということだ。だから甘茶をかけて仏生会式に手を合わせる。お釈迦さまが教えたお経を唱える。花は嬉しいという表現。花を飾って祝う。本来は4月。桃香野では一ヶ月遅れの会式です。お友達通し、かなわんことはしないようにという教え。仲良うしなさいということです。」を語られた説法で会式を終えた。

(H22. 5. 8 EOS40D撮影)
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桃香野善法寺彼岸座

2010年04月24日 07時15分02秒 | 奈良市(旧月ヶ瀬村)へ
月ヶ瀬桃香野八幡神社の祭礼には和服姿の大人衆が常に参列されている。

奈良の万成とも言われている梅寿会の長老衆だ。

神社の祭式を勤める三人の神社総代と共に祭典される。

その大人衆はお寺の行事にも参列される。

昼すぎ、善法寺に集まってきた大人衆は本堂に参ってから庫裏にあがる。

トーヤが差し出すお茶をいただいてみなが揃うのを待つ。

ではお堂にあがろうかと腰をあげた。

長老たちは平均年齢なら80歳を越えるのではないかといって、膝は悪るうなるし、お堂に上がるのも辛いのだと話される。

本尊の弘法大師の前に座って般若心経を唱えられる。

その間、一人ずつ焼香をする。



本来ならば住職が法要を唱えるのだが一年前から入院中。

寺総代がカセットテープのお経をながす。

法要を終えたら再び庫裡へ。

机を囲んで座ればトーヤが差し出すお茶とお菓子をいただく。

「本日はお疲れさま。彼岸の座に際してそしゅう、そしゅうですがゆっくりとご歓談ください」とトーヤの挨拶。

御供の披露のあとパック詰め料理が配られる。

住職代わりの寺総代が挨拶され、トーヤは忙しく酒を注いでいく。



サトイモ、ダイコン、ニンジン、エンドマメ、テンプラなどが煮込まれたにしめ料理の大皿をテーブルに回す。

一人ずつ皿によそって料理膳とよばれる。

酒はすすみお酌に忙しく回るトーヤ。

庫裏で行われている座は彼岸座と呼ばれている大人衆の行事で、お寺の年中行事には記されていない。

(H22. 3.21 EOS40D撮影)
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桃香野八幡神社風の祈祷

2009年09月22日 08時15分15秒 | 奈良市(旧月ヶ瀬村)へ
山間部で数多く行われている風の祈祷。

奈良市月ヶ瀬の桃香野に鎮座する八幡神社では長老のおとな衆が集まって祭礼を営んでいる。

末社などをお参りした羽織姿の長老は、暑い日差しを避けて軒下の陰を求めて待っている。

神事を営むのは総代の三人。

村神主となって並ぶ。



任期は三年で、ようやく役目を終えることになったという総代が祝詞を奏上する。

祓えの儀、神饌の献饌のあとは大祓詞を全員が唱和する。

元々が八月三十日だった風の祈祷は月初めに営む月並祭の中に組み込まれた。

所作はなくとも、風が吹いて荒れないよう、災害が起きないようにと祈る。



神事を終えれば、献じた洗米、マメ、四角く切ったトロロコンブにジャコをお下がりして直会で饗される。



(H21. 9. 1 Kiss Digtal N撮影)
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