マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

二条町の亀畑佐紀神社の砂モチ

2017年09月11日 08時37分00秒 | 奈良市へ
奈良市佐紀町に鎮座する二条町氏子の亀畑佐紀神社の境内に砂モチをしていると知ったのは随分前のことだ。

それから数年後の平成24年の大晦日。

12月31日に訪れた。

境内から階段下まで続く砂モチ。

量は少ないがその在り方を現認できた。

それから2年後の平成26年も訪れたが、簾型注連縄が架かっているだけだった。

その年の当番さんの都合で砂モチをすると聞いていたから、この年は遅いのであろう。

着いた時間には砂がまったくなかったが、待つわけにはいかない。

大晦日の行事や風習の取材は他所も行かなくてはならない。

諦めざるを得なかった。

この年に取材した二条町の亀畑佐紀神社の行事に宵宮祭がある。

そのときにお願いした大晦日の砂モチ。

是非とも記録に納めたい写真撮り。

3人の年番当役が予定される時間を教えてもらって伺った。

この年はこれまで何人かの年番当役に聞いていた時間からいえば最も早い時間帯。

家の正月迎えがあるから早く済ませて空き時間を確保するということである。

今回の取材は宵宮祭も同行した写真家Kさんの願いでもある。

落とせない砂モチ風習はここ佐紀町に2社もある。

西畑二条の佐紀神社門外の釣殿神社の砂モチである。

西畑二条も門外も前日の12月30日に砂モチ作業をしているはずだが、今回はどのような状態であるのか、取材時間・取材地の関係で見送る。

来られるまでの時間帯は前日に行われていた状況を知る。

12月30日は朝から大祓の祭典。

半年に一度の夏越しの大祓は県内事例に、そこそこ見られるが、ここ佐紀町にはされている様子はない。

ないが、とうぜんのごとく歳末の大祓はよほどのことがない限り、どの神社でもされているはずである。

亀畑佐紀神社の大祓は神事に先だって拝殿に掲げる前掛けと呼ぶ注連縄を作ってからだ。

二条町は西座・東座の両座があったが、現在は村座になっている。

簾型に縄結いをして大幣を垂らす。

村行事であるから氏子、座中が揃って神事をされる。

そのときに場を清めた痕跡がある。

清めに撒いた塩である。

お酒も撒いて清めたと思うが、痕跡はわからない。

大祓に清めた場は祓戸社。

いつもの行事に必ずやお清めされる場所であるが、ここにも砂モチをされる。

聞いていた時間ぴったしに来られた年番当役。

後継者育成のことも考えられて息子さんらとともに作業をする。

移動しやすい一輪車に砂を盛る。



かつては山にあった砂(山土)を採取して、それを盛っていた。

山には所有者が居る。

事情が発生してそこでは採ることができなくなった。

それからはいつでも売っているコーナンが販売する真砂土を買うようにした。

7年前までは門松を立てていた。



オン(雄)松にメン(雌)松も山に出かけて採取したが、これもまた採ることが不可能になってやめたという。

オン(雄)松にメン(雌)松が採れなくなって造園業者に注文するようになった地区はままある。

材料入手が困難になってきた時代。

採取が不可能であれば、購入しかない。

それもまた仕方のないことである。

そんな話しをしながら作業される代表の年番当役。

砂モチという表現はなく、家を出るときには神社へ行って砂盛りしてくる、という。

砂を盛る間隔は両肩の幅ぐらいだという。

人それぞれの両肩幅であるが大差はない。

形に決まりはないから、気にならんからかまへんでという。

息子さんもスコップをもって後ずさりしながら、少しずつ、少しずつ砂を盛っていく。

拝殿前から始めた砂盛り。

最初の一段目に合わせて次の段の砂を盛る。

一段、二段と下がっていくにつれ、一輪車も下げる。

社叢から差し込む木漏れの光。

樹木の間から差し込む光がなんともいえない。

もし、遮るものがなければ・・・砂盛りばかりが目立ってしまうことだろう。

そのころに突然現れたカメラマン。

なんと知り合いのNさんだった。

東にある水上池でカワセミなどの野鳥や朝の風景を撮っていたそうだ。

ふとざわめいた。

引き寄せられるように当地にやってきたら遭遇した、という。

なんという嗅覚であろうか。

Nさんが撮られた写真はいつも感心させられる。

感覚が優れているのだろう。

近年、特にそう思う。

同行するKさんもそうだが、真似のできない素晴らしい写真を撮る。

憧れる二人である。



それはともかく砂盛り作業は境内から階段を下っていく。

同じように後ずさりしながら砂を盛る。

スコップに何杯も掬ったことであろうか。

数を数えたくもなるが、先を急ごう。

鳥居を下って参道も。

そこは弁天社があるところだ。

ここへ下りてくるまでにしていた祓戸社も済ませば場を離れる。

ここから北に数百メートル歩いた場は「二条の宮さん」とも呼ばれている護摩堂がある所だ。



そこには「永禄十一(1568)」の刻印が見られる石碑がある。

中央に薄っすらと読める文字は「□行者金剛住」であろうか。

かつてあったとされる前期超昇寺の遺構でもある石碑はこれ以上の判読はできない。

護摩堂の前に砂盛り。



坂を下るようにここもまた後ずさりしながら砂を盛っていく。

これですべての砂盛りを終えた。

残す作業は今夜の夜中に始まる歳旦際の準備である。



下がり藤の紋がある幕を拝殿にかけてようやく終えた。

(H28.12.31 EOS40D撮影)
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米谷町のくるみ餅

2017年08月24日 09時06分12秒 | 奈良市へ
本来であれば、だいたいが12月22日にしている奈良市米谷町のイノコのくるみ餅。

前夜までに作っておくクルミモチは前日ぐらいに村神主が家で作る。

昔は石臼で青豆を挽いた。

作業がたいへんなので、この年は東北地方で名高い「ずんだ豆」を特別に注文して取り寄せた。

家に器械で搗いたモチをずんだ豆で包む。

包む前にしなければならないのがモチのオーブン焼き。

若干の焦げ目をつけるということである。

ミキサーで挽いたずんだ豆であってもクルミモチ。

包むようにするからクルミモチ。

砂糖を塗して少しは甘めにという作り方にする。

事前に立ち寄った村神主の奥さんがそう云っていた。

参考までに県内事例に亥の子のクルミモチを見かけることは多いが、たいがいが東山中である。

奈良市米谷町の白山比咩神社行事に宮座十一人衆が参集する座の四大行事がある。

2月22日の田楽飯、5月から6月にかけての筍飯、10月の松茸飯、12月22日のくるみ餅である。

安政六年に記された『宮本定式之事』によればくるみ餅の座行事は「例年霜月廿二日 算用ノ会一会なり 宮藪年貢才四郎より常の京舛に七升五合請取 その外ニ宮本よりつねのますニ壱升五合たし合九升拾壱人の飯代に神主江渡へし以上」とあることから、一年間を締めくくる決算日でもあった。

めいめいがいつもの通りに本社殿に向かって拝礼。

チンジサンの名で呼ばれている鎮守社に神武天皇遥拝所を参拝して参籠所に籠る。

くるみ餅座を始めるにあたって村神主が挨拶をされる。



座行事を手伝う佐多人(助侈人とも)は上座からの順にお神酒を注いでいく。

村神主から見て左の席についた一老、次に右の席の座中順に沿って注いでいく。

そして乾杯の音頭が発声されてお神酒をいただく。



各席にはパック詰め料理の膳が配られているが、座にパック膳以外の生蛸の造り、サバのキズシや三種盛りの漬物皿もある。



パック膳は給仕する佐多人にもあるが、給仕に忙しく、席につく時間もとれない。



ゆっくり食べることもできない座の給仕に務めていた。

炊事場ではモチ焼き器が稼動する。

モチ焼き器はオーブン。

前日に搗いた白餅は器械搗き。



真っ白な餅をオーブンに入れて数分間。

焦げ目をつける目的のオーブン焼きである。



焦げ目がついたところで停止して大鍋で炊いていたずんだ豆に漬け込んでできあがり。

できたてのクルミモチは早速、座に運ばれる。

はじめに1個のクルミモチ。



あまりの美味しさにおかわりを注文する座中も多い。

2回目は2個にしてくれと要望されるほどに美味しい。

一口食べてくださいと村神主の奥さんから云われて口にしたずんだ豆のクルミモチの味はとても旨い。



甘くて美味しいクルミモチはとろける味。

ずんだ豆だけに、食感は少しザラっとしているが、大鍋で炊きなおしたから豆も溶けるような感じであった。

なお、座の〆にハマグリの貝汁があったことを付記しておく。

(H28.12.20 EOS40D撮影)
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米谷町のチンジサン

2017年08月20日 09時11分30秒 | 奈良市へ
チンジサンの名で呼ばれている鎮守社の行事があると聞いたのはこの年の10月8日だった。

場所は奈良市米谷(まいたに)町に鎮座する白山比咩神社右に建つ社殿である。

鎮守社はかつて薬師堂傍にあった社であったそうだ。

薬師堂は「ムネの薬師」と呼ばれる薬師堂で、上の坊寿福寺境内より上にある墓地よりさらに階段を登ったところに建つ。

名阪国道の福住より下っていけば高峰SAがある。

そこよりさらに下れば左側に見える建物がある。

それが現在地の薬師堂。

名阪国道を計画されて工事が始まれば、古い堂をあらためて鉄骨製の堂を現在地に新築移設された。

元々あった地はもっと山の上。

「峯」にあったことから「ミネの薬師」。

いつしか訛って「ムネの薬師」と呼ばれたようだ。

平成2年9月9日に白山比咩神社、庵山石仏、寿福寺などを調査したと平成6年7月、五ケ谷村史編集委員会が発刊した『五ケ谷村史』に書いてある。

そのなかに書いてあった事跡を原文のまま書き写す。

『多聞山日記』 天正十七年(1589)九月十七日条に「今朝夢ニ米谷ノ宮弁才天東向立像ノ天女ニ舎利殿二ツアリ、前立ニ毘沙門ノ姿ニテ手ニ弓ヲ持、名ヲ富有留(ふうる)ト云ト見テ夜明了、不思議事也」とあり、同白山神社に弁才天を祀っていた。寿福寺の鎮守ともいわれる白山神社の所以である。

さらに頁をくれば、白山比咩神社の項に境内社は大山祇神を祀る山王神社とある。

チンジサンの名で呼ばれている鎮守社は山王神社であった。

チンジサンの祭りは12月15日と聞いていた。

先にあげた『五ケ谷村史』も12月15日が祭事日であると書いていた。

聞いていた時間に訪れた白山比咩神社には誰一人といなかった。

村神主にお聞きすれば都合で急遽、翌日の16日になったということからの再訪である。

この日に神職は登場しない。

神社行事を司る十一人衆の行事である。

特に祝詞もなく一人一人が参拝される。

まずは本社殿に参る。

その次に参るのが鎮守社。

その右に建つ神武天皇遥拝所の立石にも手を合わせる。

参拝した十一人衆は参籠所に移る。

行事手伝いの佐多人(助侈人とも)が差し出すお茶で一服。

この日は冷たい風が吹き抜ける日。

山間部は特に寒さを感じる日である。

今朝は霰(アラレ)が降ったというだけに特に寒さを感じる。

神社鎮座地の標高は海抜350m。

さほど高くはないが、風の冷たさが頬を撫でる。

お参りしていた男性は五老のYさん。

お爺さんは村の大工さんだった。

そのお爺さんが20年前に建替えたのが鎮守社。

ずいぶん前であるが、今でも鮮やかさをとどめる朱塗りである。

チンジサンに参拝したら参籠所に籠る。

行事を下支えする佐多人はこの日の料理を机に運ぶ。

料理は大鍋で炊いた煮物。



ダイコン、サトイモ、ニンジンにゴボテン(牛蒡の天ぷら)を煮込んだ料理を皿に盛って配膳する。

この日はゴボテンであるが、ヒラ天の場合もあるらしい。

ダイコンはダイコと呼ぶ。

イモとダイコンの煮込みであれば、その料理を「イモダイコ」の煮つけと呼ぶ。

田舎の料理やというが、だし味が利いていて美味しい。

自宅で栽培した野菜は、土が良いから特に柔らかくなる。

そう云ってくれたのは村神主の奥さんだ。

料理は家庭の味。

それが美味いのである

ところ、である。

十一人衆からお呼びがかかった。

特に一老を務めるKさんからである。

「写真撮りのあんたが、何度かここ米谷町に来ているが、なぜに来ているのか、この場で話してくれ」、と云われたのである。

希望されて断る理由はない。

米谷町の伝統行事を記録、取材するようになった経緯を話させてもらう。

始まりのきっかけは隣村の北椿尾町・稲荷講の寒施行行事である。

平成19年1月21日に行われた寒施行行事取材に上がらせてもらった講中の一人が自宅に保管していた『五ケ谷村史』を見せてくださった。

村史は伝統的行事がほぼ網羅されていた。

許可を得て貸し出し。

誌面をスキャンコピーさせてもらった。

その村史に書いてあったのが「ムネの薬師」で行われているオコナイ行事である。

所在地並びに行事取材の許可を得るために訪れたのが米谷町の第一歩だった。

訪れたのは平成27年の5月6日である。

上ノ坊寿福寺の住職の了解をいただいたが、オコナイのお札は寺と神社の2枚(米谷町は苗代と田植えに分けている)があると教えてくださった。

住職は白山比咩神社行事のいくつかに参列していることも聞いた。

いずれは神社行事も拝見してみたいと思っていた。

白山比咩神社をはじめて訪れた日は平成27年の10月10日だった。

予めに伺うべきところ間に合わずに訪れた。

神社の所在地がわかればそれでいいと思っていた。

行事は始まっていた時間帯。

代表者のコンタクトはとれるような雰囲気はなかったが、だいたいの行事状況は理解できた。

それから一年後のマツリの宵宮。

唐屋の承諾は得てはいたものの十一人衆や宮総代とはその日の行事中になってしまった。

いや、その前にお会いしていた人がおられる。

八老さんに九老さんである。

九老さんは村神主でもある。

また、行事を手伝っていた助侈人のSさんである。

ところが肝心かなめの一老さんとはご挨拶ができていなかった。

マツリの日にあらためてご挨拶させてもらって了解をとったが気まずかったことを思い出す。

それらあれやこれやであるが、『五ケ谷村史』を読めば読むほど米谷町の年中行事の現況を記録したいと思ってやってきたと話させてもらった。

村史によれば旧五ケ谷の各村の伝統行事はあるが、米谷町の行事だけは今もなお昔から続けてきた在り方が継承されてきたと思っている。

村人の何人かとお話しする機会があった。

その話しによれば唐屋が一通りあたれば村行事を大改正するような動きがあるそうだ。

変革があればかつて務めてきた行事の在り方が消えてしまう。

この場を借りて現況を撮らせていただきたいと申し出たわけである。

自己紹介も兼ねて経緯並びにこれまで拝見した行事の類似例なども話させてもらったら、米谷町のオコナイは珍しいと思うからテレビ局の取材に来てもらって取り上げて欲しいとも云われる。

また、稲荷講は米谷町にもあるが、伊勢講との関係は、講の行事は仏事、それとも神事なのかなども質問される。

ここで米谷町に稲荷講があることを知った。

そのことについては村史にはない。

村史に記載されていない行事はどこともそうであるが埋もれているのである。

米谷町の稲荷講もこの場におられたのも二人。

その講中でなければわからないのである。

こういう機会は逃したくない。

二人の講中に聞いた行事日は3月あたまの初午の日。

場は八丁坂と呼ばれる急な坂道にある白山神社とは別の神さんだという。

別の神さんは10軒の稲荷講が信仰する稲荷社であろう。

会所から下る道がある。

下った三ツ辻近くにあるらしい。

行事の概要は講中が集まっての般若心経。

供えたお菓子などの御供は下げて子どもたちに配るという。

(H28.12.16 EOS40D撮影)
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佐紀町の筵敷きダイコン干し

2017年08月19日 09時29分28秒 | 奈良市へ
山上八幡神社の板注連縄を拝見して平城京大極殿北集落を抜ける。

八幡神社がある山陵町からはそれほど遠くない地に神社が三社も並んでいる。

並んでいると云ってもやや離れている。

祭祀する地区それぞれの氏神さんである。

そこも通り抜けて帰ろうとしたら刈り取りを済ませた稲作地の向こう側にキラキラ光る白いものがあった。

何かをそこで干している。

モチなのかそれとも・・・。

それを拝見したく車を停めた。

その場は民家の真ん前。

つまりは敷地内である。

門屋の方から男性が現われた。

天日干しをされている状況が美しく写真を撮らせてもらいたいと伝えたらどうぞ、である。

昨日までは雨が降っていた。

曇り空が続く12月。

収穫したダイコンを何時干していいやら困っていたそうだ。

この日の朝は氷点下。

五ケ谷辺りは畑に溜まっていた水が凍っていた。

たぶんここらもそうであったろう。

朝は寒かったが晴れ間が射し込んだ。

天気が良ければと待っていた日がやってきた。

そう判断されてダイコン切り作業。

輪切りしたダイコンを1/4に切る。



それを敷いた筵の上に広げる。

筵は風に飛ばされないように両端に紐を結んで固定している。

ご主人がいうには天日干しには風が吹かないと・・という。

ダイコンは水分がある。

筵であれば乾いたダイコンは難なく剥がれる。

カンピョウ干しの場合も同じだ。

水分があるカンピョウは竹竿であっても金属ポールであって、そのまま巻いたらへばりついて剥がれなくなる。

そのために工夫したのは竿に稲藁を巻くことである。

特に麦わらであれば難なく剥がれる。

筵を敷かれたのは賢明な措置なのだが、乾くには相応しくない。

つまりそこに必要なのが「風」である。



昔は柿の木の枝にぶら下げて天日干しをしていたという。

ダイコンは切ることもなく葉っぱを付けたそのままの形のダイコンの首に藁紐で括る。

輪っかにした藁紐を枝に引っかけて天日干し。

その形態のほうが風に当たりやすいから乾きが早いのである。

昔からダイコン干しは横にある柿の木を使ってきたというご主人の話しだった。

そういえば私の頭の中の記憶が蘇ってきた。

そんな方法論を話してくれたご主人はどの神社が氏神さんになるのか聞いてみた。

ここは佐紀町。

旧村の景観をみせる村で育った。

ここより東は歌姫街道。

その街道沿いの東はかつて畑だった。

今では新しい家が建っているが、昔はなかったという。

で、氏神さんと云えば釣殿神社

そうだったのか、である。

で、あれば名前を知りたくなって質問した。

質問したのは前掛けと呼ぶ注連縄である。

ご主人が云うにはその注連縄は歌姫街道沿いに建つ集会所で結うそうだ。

30日の大晦日の朝、大祓いをしてから拝殿前に運んできた注連縄を架けているはずだという。

拝殿に架けるということは奥が社殿である。

つまりは前に架けるから前掛けというのであるが、かつては「ゾウガイ」と呼んでいた。

その表現は間違いないと思う。

県内各地事例によれば簾型の注連縄は「ドウガイ」若しくは訛った「ゾウガイ」である。

地域によってはもっと訛った呼び名もあるが、民俗語彙からしても間違いない。

そんな言い方を覚えておられた昭和9年生まれのご主人に出会ったことに感謝する。

(H28.12.15 EOS40D撮影)
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山陵町山上八幡神社の板注連縄

2017年08月18日 09時17分15秒 | 奈良市へ
山上八幡神社の年中行事表によれば12月18日の日曜日に板注連縄を結っていそうだった。

それは第三日曜日。

2年前に伺ったその注連縄の材となる稲刈りを拝見したことがある。

10月1日の月次祭のときと思っていたがそうでもなく六人衆が揃って作業できる日であった。

都合を確認されて集まる日を決めた。

そんなことがあったからもしかとすれば予定していた日を繰り上げるかも、と思って出かけたら案の定だった。

奇麗な縄結いに惚れ惚れする。

そこへ歩いてきた朱雀の観光ボランテイアガイドの人たち。

板注連縄が新しくなっていることには気がつかずに参拝されていた。

(H28.12.15 EOS40D撮影)
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米谷町白山比咩神社の新嘗祭

2017年08月05日 08時48分56秒 | 奈良市へ
旧五ケ谷村の一村。奈良市米谷(まいたに)町に鎮座する神社は白山比咩神社。

この日の村行事は収穫した新穀に感謝する新嘗祭である。

時間ともなれば村の人たちは風呂敷に包んだお重を持ってくる。



お重に詰めているのは今年に収穫した新米初穂の玄米である。

一戸ごとに持ってくる新米は二合枡で軽量した5杯。

つまりは一升の新米である。

参拝する際に拝殿に供える。

そして手を合わせたら拝殿にいる世話人の佐多人(さたにん)に手渡す。



受け取った佐多人(助侈人とも)は風呂敷の紐を解いてお重の蓋を開ける。

そして米袋に入れる。空になったお重に餅米で作った赤飯を盛る。



アカメシと呼ぶ人もいる赤飯である。

赤飯は予め手配していた和菓子屋さんが炊いて作ったもの。

次々と訪れる参拝者は参拝するときに風呂敷包のお重を供える。

供えたお重は拝殿前の回廊に置く。



徐々に増えだす風呂敷包。

包みは並んで順番待ち。

行事を世話する佐多人は並んでいるお重を取っては米袋に入れて赤飯に詰め替えて参拝者に返す。



返す場合もあれば、直会後に持ち帰る人もいる。

さまざまな柄の風呂敷は赤い模様が多いことに気づく。

そのうち僧侶も村の人と同様に風呂敷に包んだお重を持ってお見えになられた。

参拝してお重を手渡す。

なかなか見られない情景に思わずシャッターを押させてもらった僧侶は村にある上ノ坊寿福寺のご住職。



翌年の年明け2月4日に行われる寺行事のオコナイに誘われる。

実はご住職とお会いするのはこの日が初めてではなく、平成27年の5月6日だった。

平成6年7月、五ケ谷村史編集委員会が発刊した『五ケ谷村史』に「通称ムネの薬師と呼ばれる薬師堂に集まった十一人衆、氏子総代、檀徒総代に町役員がダンジョウをする」とあった。

その行事は紛れもない村の初祈祷。

場を探してご住職に取材願いをいたしたく探訪した。

そのとき寺前で散歩中のご住職に出合えた。

行事取材を申し出て承諾を得て翌年の平成28年にお伺いするつもりだった。

ところが発症した心臓病で車の運転もままならない状態に家から一歩もでることはなかった。

あっても心臓リハビリの歩行運動だけの毎日の療養生活だった。

この日にお会いしたご住職が云った。

「来られるかと思って待っていたが・・・」のお言葉が嬉しかった。

来年こそは間違いなく行かせていただきたいと申し出たら笑顔で返してくれた。

そんな出会いもあってお重包みを差し出すご住職の姿に反応したシャッターである。

ところで、米谷町の玄米御供はこの日の新嘗祭と7月1日に行われる農休みの麦初穂にも登場する。

かつては麦秋に収穫した新麦初穂を供えることから行事名を麦初穂と呼んでいた。

いつしか二毛作はしなくなり新麦初穂は消えたが、お米に切り替えた。

量は同じ米一升。

氏神さんに供えたお重が空になったところに詰めるのは茶碗一杯の赤飯に1個のキナコモチになるという。

そのキナコモチは麦ではない。

二毛作時代であれば小麦で作ったサナブリモチであったが、今はお米で作るキナコモチに変移したものと考えられる。

県内事例は数々あれど、麦と新米を一年に2度の初穂に供える村行事はおそらく米谷町だけではないだろうか。

麦初穂から米に替わってはいるものの、新穀に感謝する気持ちは不変のようである。

米谷町は全戸で48戸。

新嘗祭に初穂する新米は合わせて4斗にもなる。

神さんに供えた初穂は神社行事を務める村神主にお礼として神主落ちとして奉げられる。

7月の麦初穂に神職は登場しないが、この日の新嘗祭には奈良市丹生町にお住まいの新谷宮司が斎主される。



十一人衆に氏子総代、自治会役員は拝殿に登って斎主とともに斎行される。



境内に広がって進行を見守る村の人たちに祓えをされる神職。

神事を終えて直会も取材したかったが、次の取材地の時間が気になり失礼させてもらった。

平成6年7月、五ケ谷村史編集委員会が発刊した『五ケ谷村史』がある。

史料によれば米谷町は上、中、下、茶屋、横手、清水、門口、出、西などの垣内からなる堂ケ谷街道-旧伊勢街道間の谷間に面する村落であるそうだ。

さらに史料が伝える米谷の地名。

米谷は渓谷から発想される前谷。

前原、前川、前田、前山、前岡、前畑、前久保、前坂、前中などの地名(小字名であろうか)もあるようだ。

その前谷地名が見られる文書があるらしい。

弘安八年(1285)三月の春日大社文書に「福住前谷教信房」の名が記されているようだ。

また、『大乗院寺社雑事記』、文明十三年(1481)の条に「昨日、興福寺自焼了、舞谷同自焼了」とあり、米谷には米谷太郎入道宗慶の山城があった(「国民風土記」)。

「前谷」から「舞谷」。

そして、良質の米が産出され酒造りにも使われていたことから「米谷」村名に好字化されたと考えられるようだ。

氏神社は白山比咩神社。

かつて正暦寺成身院末寺だった上ノ坊寿福院の鎮守白山大権現であった。

そのころかどうかわからないが、現在地より東の方の少し高い小字山中やヤクシノムカイが元の鎮座地。

江戸時代に発生した大地震の影響を受けて被災したことから現在地に遷された。

平成四年にゾーク(造営事業)があった際に拝殿中央の石階段が新しくなった。

実はそこにあった古い石階段耳石に刻印があった。

「永正十五年戊(1518)二月十八日施主定禪」であるが、貴重な年代記を示す元石階段は本社殿を囲む瑞垣に移されたと史料に書いてあった。

ちなみに五ケ谷村史に村ごとの神社行事一覧がある。

そのなかに興味深い記事がある。

この日の行事名は新嘗祭。

カッコ書きに「米初穂」に「あから頭」の文字がある。

「米初穂」に関しては前述した通りであるが、「あから頭」とは何であるか、である。

詳細記事に「稲の初穂を供えて収穫を感謝する。氏子は新米初穂をとして玄米を供える。この時も昔はカンヌシが舛で分量をはかった。ミヤモリは酒肴として里芋、大根の煮込みを八寸の重箱に詰めて用意する。また赤飯四升を神前に供えて、初穂供えた者に配る。アカラガシラの名称の由来は不明」と書いてあった。

名称が不明であることしか書かれていない「あから頭」。

かつてこの日の行事は新嘗祭と呼ばずに「霜月朔日覚」と書き記していたのは安政六年(1859)の『宮本定式之事』である。

この文書においても「あから頭」の表記は見られない。

尤も翻刻ではあるが、この文書には「あから頭」は見当たらない。

私が調べた範囲内であるが、行事名に「アカラガシラ」が見られる地域行事がある。

天理市荒蒔町に鎮座する勝手神社の年中行事の一つに「アカラガシラ」がある。

行事日も米谷町とまったく同じの12月1日である。

今まで聞いたことのない奇妙で不思議な名称の行事はどのようなものだったのか。

荒蒔町では大豆をすり潰したものをサトイモに載せる御供がある。

それが「アカラガシラ」御供と推定した。

詳しくは私が記したブログ記事を参照していただければ幸いだが、サトイモをカシライモと呼ばれる地域は多い。

頭のような大きさの芋をそう呼ぶ。

そのカシライモは赤ズイキ芋。

赤い頭芋がそうではないかと推定したのであるが、どうだろうか。

尤も現在の米谷町の御供に赤い頭芋は見られない。

見落としていたかもしれないが、かつて三角に切った芋御供があり、その由来にアカラガシラがあると推定したのであるが、断定できる要素が見つからない。

(H28.12. 1 EOS40D撮影)
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切干ダイコンの天日干し

2017年07月14日 08時41分36秒 | 奈良市へ
天気が良い。

明るい日差しを浴びる朝。

杏町からラ・ムー京終店に向かう道は岩井川の川筋沿い。

ならまちへ向かうとき、最短にある道はよく利用する。

ここを通るたびに意識する白いもの。

平成19年の2月3日のことだった。

北側にあるお家の塀の前。

戸板を並べて干していた。

車を停めて撮らせてもらった白いものは切干ダイコンだった。

細く短冊状に切ったダイコンを並べて天日干し。

燦々と照る太陽の恵みを浴びて色もつく。

こうして作った切干大根は売り物だった。

作っていた男性に話を伺ってわかった切干大根は奈良の三条通りにアンテナショップに出していた。

わざわざ買いに行ったこともある。

ずいぶん前のことであるが、ここを通るたびにそのことを思い出す。

当然ながら夏場は見られない天日干し。

寒風が吹く晴天の日に干す。

たしかそう話していたと思う。

いつしかその光景は再び見ることはなかった。

あれからほぼ10年も経つ。

畑作もやめはった。

そう思っていたこの日。

思わず急ブレーキを踏み込んで停車した。

再び目にした切干大根に感動する。

戸板は当時と違って桟のある蚊除けの網戸のように思える。

風が吹けば通り抜ける網戸。

さらしに天日。

滅多に見ることのない光景にシャッターを押した。

※HPに掲載していた当時のコメントは「光り輝く白い絨毯。自家栽培ダイコンを天日干しにして切干ダイコンを作っている。ダイコンを細く切り短冊状に仕立てあげ、二日間寒風に干したのち、蒸してさらに四日間(晴天時は三日間)天日で干す」と書いていた。

(H28.11.11 EOS40D撮影)
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米谷町白山比咩神社の祭り

2017年06月05日 10時00分26秒 | 奈良市へ
前日に">宵宮を祭事された奈良市米谷町・白山比咩神社の行事はこの日がマツリになる。

白山比咩神社の年中行事は実に多彩で行事数は他の地区と比べてとにかく多い。

毎月1日は宮座十一人衆が寄り合う例祭がある。

1月2日は歳旦祭・四方拝も兼ねる新年祭(◇・☆)。

2月1日は小正月(☆)、3日は節分、4日は寺行事の薬師の行い(☆)、8日は神主渡し、9日は百座(☆)、22日は田楽飯(※)、3月1日は祈年祭(◇・☆)、5月は筍飯(※)、7月1日は農休みの麦初穂(◇・☆)、8月18日は風の祈祷(☆)、9月1日は八朔籠り、7日はトウヤ受けの唐指し、10月1日は龍田垢離、第二土曜日は宵宮祭り、第二日曜日は祭りや松茸飯(※)がある。

11月1日は例祭、12月1日はあから頭の名もある新嘗祭(◇)、15日はチンジサンの呼び名がある鎮守祭、22日はくるみ餅(※)である。

うち、田楽飯、筍飯、松茸飯、くるみ餅は宮座の四大行事(※)。

また、新年祭、祈年祭、麦初穂、新嘗祭は四大節(◇)。

麦初穂を除く三行事は宮司の参詣を得て式典を斎行される。

また、寺行事の薬師の行いはもとより、上ノ坊寿福寺住職(☆)は五穀豊穣、家内安全の祈祷のため一年に6回の神社行事に参列される。

その行事は新年祭、小正月、百座、祈年祭、麦初穂、風の祈祷である。

これら行事について詳しく調査・報告された史料がある。

平成6年7月、五ケ谷村史編集委員会が発刊した『五ケ谷村史』である。

村史によればかつては4月3日の神武祭、6月5日の節句にチマキ、8月7日は七月七日之事とする七日盆もあったそうだ。

前日の宵宮はお渡りの出発直後からの取材であったが、本祭はお渡りに間に合った。

集会所でお渡り前によばれていた数々の食事料理を拝見する。

ズイキの煮ものにサバのキズシ、タコの酢もの。

ダイコンとニンジンにドロイモと牛蒡のさつま揚げを煮たもの。

ほうれん草の和え物に豆の甘煮や香物である。

出発直前に記念の写真を撮ってから白山比咩神社に向かうお渡り。

宵宮は大唐屋のトウニンゴ(唐人子)が先頭に就いていたが、本祭は小唐屋が大きな御幣を抱えて神社に向かう。



後続に村神主、十一人衆、氏子総代が就いて平服の氏子たちも村道を下っていく。

出発食後に発声した「トウニン トウニン ワハハイ(ワーイ)」の唱和。

その1回だけであったような気がするが、どうやら数回は発声したようで声が聞こえなかったようだ。

大、小の両唐屋は舟形侍烏帽子を被り黒色の素襖を身にまとう。

村神主は立烏帽子被りの狩衣姿。

宮座十一人衆も烏帽子を被るが服装は紋付き袴にそれぞれ風合いのある和装姿。

下駄を履く人もあれば雪駄草履の人も。

うちお一人がイネイナイ(稲担い)である。

イネイナイ(稲担い)が担ぐ稲束は前方が一束で後方は二束だった。

鳥居は2カ所。



石の鳥居に朱塗りの鳥居を潜って神社に着く。

着いたら直ちに御幣とイネイナイを供える。



鎮守さんの名がある社殿や遥拝所に神饌を供えるのは村神主の役目。

サイラのサンマや小豆入り洗米、栗の実、コーヤドーフ、梨、パンに別皿に盛った3個のサトイモもある。



本祭の神事に神職は登場しない。

参拝を済ませて十一人衆は宵宮同様に拝殿に着座、ではなく、本祭は村神主に両唐屋が座る。

十一人衆のこの日は参籠所の間である。

隣の間に座ったのは氏子たち。

宵宮と同様に男性も女性も並んで座っている。

これより始まるのは七献である。

供えたお神酒を下げて酒を飲む。

宵宮同様に酒を注ぐのは佐多人だ。



まずは拝殿に居る村神主と唐屋に注ぐ。

給仕の佐多人が「一献 まいりまーす」の声を揚げる。



その声が届いたら参籠所に居る十一人衆に酒を注いで飲む。



それを済ましてから氏子に酒を注ぐ。



そのときに食べる肴が味付けした半切り牛蒡と煮物のカシライモ。

形は三角形である。

『五ケ谷村史』によれば米谷では宵宮に枝豆を。

本祭はドロイモに牛蒡のクルミ和えや里芋の子芋を楊枝で3個つないだものを供えるとある。

直会にはいずれもこれらを食することから宵宮をマメドウヤ、本祭をイモドウヤと呼んでいると書いてあったが、直会の場に出された料理は若干の変化があったように思える。

しばらくしてから二献目。

またもや大声で「二献 まいりまーす」が参籠所に届く。

「献」が届けば肴をアテに酒を飲む。

そのころだったか時間を氏子総代が動いた。



たくさんの子芋を盛ったお重を抱えていた。

神さんに供えた御供を下げて参籠所に運ぶ。

見てはいないが先に拝殿に居る村神主と唐屋が食べる分は取り分けていたと思う。

三献、四献・・・とだいたいが5分おきに注がれるようだ。

献は七献で終える。

さて、七献の七つはどういう意味であろうか。

話しによれば米谷の神さんは七柱であるからという。

その間はずっと献の接待に忙しく動き回っていたのが世話人の佐多人。

休む間もなく動き回る重要な役割を担っていた。

「あんたも食べてみやんと味がわからんだろう。座に上がって食べてください」と氏子総代に云われて七献の肴をよばれる。



牛蒡はクルミ和えでなく煮物。

楊枝でつなぐこともない三角形に包丁を入れたカシライモ。

別皿に盛ったのが丸い3個の子芋である。

形はどうであれ、カシライモはやや甘。

シンプルな味付けだと思った。

一方の牛蒡は薄味醤油で煮たもの。

柔らかく煮ているので食べやすい。

牛蒡そのもの味がする。

別皿の子芋はぬるぬる。

柔らかくてとろけるような舌触り。

モチっとした食感にお味は好みの味。

懐かしいではなく我が家で食べている味と同じようだと思った。

『五ケ谷村史』に安政六年(1859)十一月、それ以前の宝暦六年(1756)書写本があると書いている。

上之坊の僧の荻英記す「宮本定式之事 米谷村 社入中」の翻刻はたいへん貴重な史料となるだけに以下に記しておく。

当時の行事日は旧暦九月九日と十日。

宵宮に本祭であるが、当時は三日間。

八日の調達より始まっていた。

一.九月八日之定、頭屋買物覚

先上延紙壱束 上半紙壱帖赤土器大六まい 小五拾まい 

杉箸百膳白箸三拾膳 酒宮樽壱荷石の買物両頭屋立会調べし

一.八日 三社の御供餅米京ばんに三升つき壱升の御膳に 小餅八ツ大餅壱ツかさ餅と云て壱ツ上二おく 大小合九ツ也又水神の餅壱膳二七ツヅヽ添備べし 合小餅四拾五大餅三ツ調 都合よし但シ 豆粉少々入用

一.白餅 馬草いね大たば三把 肴の枝 なずび 豆用意有べし右ハ大頭屋の仕立なり

一.幣ふぐり京ばん壱升 みゆの布施七合三升 生初穂 京ばんに六升両頭屋添備べし 但し片頭屋二三升ヅヽ也 右之三口ハ両頭屋より出すべし

一.八日 朝飯献立之事

△汁二 いも たうふ(※豆腐) 大根

△坪(※ひら)二 八切のたうふ二切もり

△壺二 いも ごぼう こんにやく

△生酢 だいこん にんじん こんにやく はす しやうが

引たり はす ごうぼう こんにやく

右の三重の肴出置べし

一.夕飯献立の事

△汁 ざくざくに たうふ入べし

△菜ハ 大根葉のあゑ(※え)もの斗

三重の肴あるべし 以上

一.九月九日之事

三社鎮守御供赤飯斗り備べし神主仕立にて候

一.十日神事之事

先三社の御供二うる米三升白餅 豆五合<こんにやく三丁> かます四枚 生ノいも拾五つぼ

馬草いね大たば三把右小頭屋の仕立なり

又三社江牛蒡のくる(※みは加筆)あゑ(※え)三ばい此たけ四寸二切高さも四寸二盛べし

いものくるみあゑ(※え)三ばいも是も高さ四寸二もるべし

次二下座ノ人之立候ハヽ社人拾壱人の衆江酒二献出へし

三重肴出すべし外二やき物壱ツ引出す

一.次夕食之献立之事

△箸ハ 壱尺二寸の白はしなり

△汁ハ 鯛のしる

△焼物ハ 壱尺弐寸の鮧(※えそ)なり

△壺ハ 五色此内へ魚るい壱色入べし

△引たり牛蒡 たうふ たこ也

△酒三献三重の肴有べし 以上

△次二平座茶のミ飯汁わん二一杯」茶斗

一.入酒之定
  先頭人壱人の時ハ味噌代ハ其時の相場にて宮本評儀二任出べき事

  但シ頭人弐人是有年ハ座衆壱人前に黒米宮本の京ばん五合飯の会大頭人の所にて勤申べき事五合ヅヽの都合二たらず候ヘバ宮本方 たし可申候頭人数多ある時ハ その出シ米残りし年ハ宮本江請取社人預り置べき事

  次に献立之事

  △汁ハ ざくざくに たうふ入べし

  <菜ハ ねりみそ いわし一引 しゃうじん人二こんにゃく半丁こうのもの二切そゑ(※え)べし>

  <一 社僧座人の定>

  <先 座衆壱人に三合飯壱杯>

  <汁ハ ざくざくにたうふ入べし>

  △菜ハ ねりみそ こんにやく半丁 こう物二切そゑ(※え)る 酒なし

  次二平茶のミ汁わん二飯一杯茶斗也 以上   であった。

宝暦、安政年間における米谷の社僧や社人こと十一人衆が食事する献立がよくわかる史料である。

(H28.10. 9 EOS40D撮影)
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米谷町白山比咩神社の宵宮祭

2017年05月31日 02時19分48秒 | 奈良市へ
旧五ケ谷村の一つに米谷町がある。

明治22年に成立した五ケ谷村は先に挙げた先に挙げた米谷町の他、中畑町、興隆寺町、高樋町、虚空蔵町、菩提山町、北椿尾町、南椿尾町の8町からなる。

現町名の奈良市編入は昭和30年の戦後間もないころ。

平成6年7月、五ケ谷村史編集委員会が発刊した『五ケ谷村史』がある。

その村史を初めて拝見したのは平成26年1月26日である。

その日の取材地は北椿尾町。

大寒のころに北椿尾稲荷講の講中が山の獣に食べ物を施行する寒施行行事を取材していた。

講中のお一人は大久保垣内に住んでいるⅠさん。

お礼に立ち寄ったお家に村史があると見せてくださった。

その村史はしばらく借りてスキャンコピーしておいた。

旧五ケ谷村のそれぞれの地区ごとで行われている伝統行事を詳細に調査され纏めた記事が載っている。

執筆者は奈良市教育委員会の岩坂七雄氏だけに内容は詳しい。

秋祭りは各大字のトウヤ制度や神饌、座、千本搗きを中心にした報告がある。

中でも年中行事の詳細が書かれている大字は古文書などの紹介もある高樋町と米谷町である。

年中行事の一覧表も参考になる。

また、菩提山町民家の薬師寺花会式の花造りや北椿尾の六斎念仏、米谷町などかつてあった雨乞い行事の太鼓踊り、北椿尾の御陰萬覚帳・米谷町のおかげ踊歌詞章、弘仁寺十三参りのレンゾ、中畑町の勧請縄掛けなども大いに参照できる村史である。

その村史の調査・編纂に関わった人が今年度に村神主として斎主されている九老のNさんであった。

初めてお会いしたのは麦初穂の日。

行事は終わっていたが当月村神主手伝いの佐多人(助侈人とも)のNさんとともにマツリの件を聞かせてもらっていた。

佐多人(さたにん)は毎月に交替する当番の二人。

神社行事に供え物の準備や搬出入、給仕などをお世話する役目をもつ。

米谷町に鎮座する白山比咩神社を訪ねた日は平成27年の10月10日だった。

斎主を務める神職の新谷宮司に聞いて訪れたが、宵宮祭の最中であったことから挨拶は出来ずじまいだった。

だが、先に自宅へ戻られるO婦人に宵宮祭のマメドーヤなどを教えてもらっていた。

宵宮行事のお渡りが出発する場がある。

米谷町精米所利用もある米谷町協同出荷場(郷倉)の2階にある公民館である。

宵宮祭のお渡りは午後4時であるが、午前中にその公民館に立ち寄った。

1階に数人の方がおられた。

挨拶をすれば大唐屋家の方だった。

宵宮祭に明日のお渡りを務めるのは大唐屋家の孫男児。

跡取りである長男児はトウニンゴ(唐人子若しくは唐人御とも)を務める。

小唐屋の人とともに先頭を行くそうだ。

村史によれば、昭和初期までの唐屋務めは15歳以上。

村神主より各戸の長男が生まれた順に大唐屋・小唐屋を言い渡したとある。

現在は3月1日の祈年祭の際に行われるフリアゲ(振り上げ)によって大唐屋(年長)・小唐屋(若年)の二人を選んでいるそうだ。

唐屋を務めるのは村で生まれ育った人たちであるが、養子の場合はイリクを認められた人である。

9月7日は唐指し(とうさし)の名がある唐屋受け(とうやうけ)。

十一人衆、3人の氏子総代、トウニンゴ(唐人子若しくは唐人御とも)、トウニンゴヒカエ(控え)が神社に参拝される。

両唐屋は10月1日に龍田川に出かけて精進潔斎する龍田垢離(たつたこうり)をする。

昔は斑鳩の龍田川に出かけて潔斎をしていたが、現在は地区の上流にある不動山の清流に、である。

その川で水垢離をされたようだ。

旧五ケ谷村の米谷、北椿尾、高樋のトウニンンゴは菩提山川に出かけて潔斎に水垢離をしていた。

高樋では川の小石を拾って帰ることになっている。

そう書いていたのが『五ケ谷村史』である。

代理でも構わないが予め村神主に伝えて承諾を得ておくらしい。

10月4日はマツリの一週間前。

長老の十一人衆、氏子総代、佐多人(助侈人とも)らの呼び遣いがある。

そのような話しをしてくれた場にこの日に作ったと思われるマツリの道具がある。

伐採した青竹中央に白い布を巻いている。

厚みがあることから肩当てであろう。

両端に裾をカマで伐ったと思われる新穀がある。

稔りの穂がある稲を収穫して氏神さんに奉納するこの名は何であるか、とお聞きしたがわからないようだ。

県内事例の多くにあるこの形。

収穫した稲穂を担ぐことからイネカツギとかイネニナイの呼び名が見られる。

村史にお渡りの行列順が書いてあった。

先頭は村神主、次が御幣持ちの大唐屋。

次に続く小唐屋、前年村神主が担うイネイ(ニ)ナイ(稲担い)、十一人衆、氏子総代。お渡り道中の途中に「トウニン トウニン ワハハイ(ワーイ)」と叫びながら行くとあった。

イネニナイを置いてある所に2本の葉付きのトウノイモ(唐ノ芋)があった。

これもまた氏神さんへのお供えであろう。

その場には根洗いしたたくさんのゴボウがある。

また、トウノイモに軸のズイキも大量にある。

これらは翌日のマツリに料理されるもの。

収穫したトウノイモはカシライモ(頭芋)と呼んでいた。

それらはニンジンやダイコンとともに煮る。

イモダイコンと呼ばれる料理は2階の公民館で行われる接待招きに来られる宮座十一人衆がよばれる。

接待料理の内容は多いらしい。

大唐屋の親戚も来てもらって料理を作ると話していた。

マツリの日の料理は小唐屋が担うが、宵宮祭は大唐屋。

この日は大量のエダマメを調達・調理される。

氏神さんにも供えるエダマメがあることからマメドウヤの呼び名がある。

それに対してマツリはイモドウヤの名がある。

こうした話を聞いて午後4時から行われる宵宮祭に到着する。

お渡りまでは公民館で宮座を招待した接待料理をいただいていたそうだ。

焼き物は焼鯛。料理は寿司盛り合わせにサトイモ、ダイコン味付け煮込み、サバのキズシ、タコス。

突き出しにブリの照り焼きに野菜類等の三品。

汁椀は豆腐にチクワ若しくはカマボコである。

この場で搗いた粳米四升の鏡餅に手祝餅があるが、拝見はしていない。

到着した時間は午後4時過ぎ。

お渡りはすでに始まっていたが、「トウニン トウニン ワハハイ」の唱和は聞こえない。

発声はしていないように思えた。

この「トウニン トウニン ワハハイ」の唱和をする県内事例はままある。

私が取材した範囲内の行事であるが、18事例もある。

地域によってはやや詞章が異なるところもあるが、まだまだ知られていない地域もあるように思えてならない。

村神主は立烏帽子被りの狩衣姿。

両唐屋は舟形侍烏帽子を被り黒色の素襖を身に纏う。

大御幣を持つのは大唐屋であるが、事情によってトウニンゴ(唐人子)代わりの親が持つ。

宮座十一人衆も烏帽子を被るが服装はそれぞれの和装姿である。

下駄を履く人もあれば雪駄草履の人も・・。

うちお一人がイネイナイ(稲担い)である。

かつては十一人衆を接待していた大唐屋家から出発していたが、現在は公民館から出発する。

そこからは下り道。



道路いっぱいに広がって渡っていた。

その形態は参道に入っても崩さずに渡っていた。



到着すると同時に神社に参拝する。

そのころには予め出仕されていた丹生町在住の新谷宮司と出会う。

祭り始めに一枚の祈年写真を撮って本社殿、拝殿に上がる。

宮司、両唐屋は社殿前。

十一人衆は拝殿の左で右は3人の氏子総代と自治会長役員が就く。

米谷町の戸数は47戸。

後続についていた村の人たちもやってきて参拝する。

本社殿に向かって拝礼。



そして右奥のチンジサンと呼ばれている鎮守社に遥拝所も参拝する。

その間に神饌を供える村神主は忙しく動き回る。

神事は宮司一拝より始まって修祓。



社殿前に並んだ村人に祓いをする。

幼児にとっては感心のないことである。



大唐屋の大御幣は社殿に立てかける。

担いできたイネニナイや3本の葉付きトウノイモも奉納していた社殿前に座る宮司。



祝詞を奏上される。



拝殿中央におられるのは和装大島に袴姿の責任氏子総代。

神事の進行役を務める。

先に玉串を奉奠する宮司。

続いて両唐屋も奉奠される。

その際には十一人衆は頭を下げる。

右にちらりと見えるモノがある。

両唐屋と村神主が座る位置であるが隠れて見えない。

続いての玉串奉奠は氏子代表の村役である。



神事の進行を見守る婦人たちは参籠所でもある直会殿前に座って拝観していた。

直会殿には大量のエダマメが置いてある。

テーブルいっぱいに広げたエダマメは収穫時期を考慮して2カ所で栽培した。



場所も違うし時期も異なるから二種類の味わいがあったようだ。

そのエダマメを食べ始めるのは拝殿におられた十一人衆である。

佐多人は酒の給仕をする。



酒の肴のエダマメを喰う。

これを一献と呼ぶ。

酒はお神酒。

神さんの前で神さんとともに食するのである。

氏子たちは一献が始まる前に直会殿に座っていた。

十一人衆の一献が終われば氏子たちも一献。

給仕の佐多人が「一献 いきまーす」の声が聞こえたら直会殿に居る佐多人が給仕をする。



そして肴のエダマメを食べる。

村人一人、一人に酒を注ぎ回っていく佐多人。

注いでもらってエダマメを食べる。

人数が多いから酒の廻りも時間がかかる。

そのうち「ニ献 いきまーす」の声が聞こえる。



そうすれば佐多人が動いて酒を注ぎ回る。

これを7回も繰り返す呼びつけ七献の酒杯エダマメ喰い。

社殿側も給仕が忙しく七献する。

神主、唐屋、十一人衆の廻りで白いカワラケに酒を注ぐ佐多人は休む間もなく動き回る重要な役割を担う。



午後7時過ぎの3献目のころ、宮司は次の斎主に就く村へ急がねばならない。

頭を下げて先に退席された宮司は「また、山の方へも来てください」と伝えてくれた。

山の方とは山添村の何カ所かである。

何カ所かで行事取材をさせてもらっている。

5時20分は五献。

「五献 いきまーす」の声が聞こえたら「ハーイ」の返事で返す。

それから5分後の25分は六献。

「オーイ」と声があがる。

30分は七献。

「へーい」と応えた。

その間はずっと座していた両唐屋と村神主。

まるで神の遣いのように思えた。

これでやっと終わった米谷町の宵宮祭。

『五ケ谷村史』に、終わりは十一人衆が「「トウニン トウニン ワハハイ」を叫んで終えると書いてあったが、私の耳には届かなかったようだ。



こうして解散した時間帯は午後5時半。



村の人たちは残ったエダマメを手にして帰路につくが、十一人衆は拝殿で歓談していた。



まだまだ飲み足らないように思えた宵宮祭に提灯を掲げる家もある。

(H28.10. 8 EOS40D撮影)
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佐紀町亀畑佐紀神社二条町座中の宵宮祭

2017年05月30日 09時16分55秒 | 奈良市へ
バランの葉にシトギを載せて供える行事がある奈良市佐紀町の亀畑佐紀神社。

氏子たちは鎮座地の佐紀町ではなく二条町になる。

シトギを供える年中行事は一年に3回。

十月の宵宮に翌日のマツリや11月に行われる新嘗祭である。

供えたシトギを御供下げして座小屋でよばれる。

氏子座中はそのシトギをヒトギと呼んでいる。

県内事例においては数少ないシトギを供えると知った写真家Kさんに是非見ていただきたく誘っていた。

年中行事を務める年番当役のトーヤは3軒。

二条町は30戸であることから6~7年に一度の廻りのトーヤ勤めになる。

座小屋に掛けた幕は昭和拾年一月に新調されたもの。

白抜き染めの紋は下がり藤。

春日大社と同じような形式をもつ紋であるが、一昨年の平成27年11月23日に行われていた新嘗祭のときに聞いていた幕の新調。

この日の宵宮祭に初張りをすることから3人のトーヤが参集してお祓いをしてもらっていた。

そのつもりで朝にお祓いをしてもらっていたが、今夜の天候は危ぶまれる予報。

折角新調したのに汚れては申しわけないとやむなく復活出番。

それこそ最後のお役目に幕を張った。

その旧幕に「式内佐紀神社 氏子婦人一同」の白抜き文字がある。



寄進者は氏子のご婦人方だった。

氏子一同とか座中、或は大人衆などのようにたいがいは男性であるが、当地では婦人方。

あまり見ることのない、珍しい寄進者である。

亀畑佐紀神社行事のお供えを調えるのは神職である。

材などはトーヤが準備しておく。

それらの御供は座小屋で調整する。

高坏に載せた神饌のなかにシトギがある。



バランの葉の上に乗せて供えるシトギはお店で購入した上新粉をトーヤが加工したもの。

ボールに入れた上新粉に沸かしたお湯を注ぐ。

温度はお風呂と同じぐらい。

かき混ぜた上新粉は手でこねる。

耳たぶ程度の柔らかさになれば小判型に調えてバランに乗せる。

長老たちが話したかつて作り方は「家で米を挽いて粉にする。水に浸して塗りの椀に盛って供える」である。



秋のマツリは宵宮、本祭の両日に亘って拝殿前に屋根付き提灯立てを設える。

屋根付き提灯立てを倒れないように土中に埋め込んだ支柱で支える。

固定するのはボルト・ナットではなく木片である。

ホゾ穴に木片を通して固定する。

四つの提灯を吊るす枠は紐を操作して上下に稼動できる仕組みだ。

神職に祓ってもらったトーヤの御幣と神酒口をそこに揚げる。

そのために一旦は紐を降ろして下げる。

梯子を遣えばいいものだと思ったが当地ではこうした作業で調えていた。

神酒口もそうするのかと思えば違った。

神酒口は載せる台がある。



背を伸ばせばそこに届く範囲内。

いとも簡単に載せていく。



丁度、調えたころに参られる人もいる。

正装のスーツ姿の氏子たち。

座入りした男性は拝殿に上がることができるが、トーヤ家の婦人であっても拝殿下で見守る。

いつもそうされている。

かつては一老と呼ぶ長老を筆頭に、二老、三老・・・八老までの八人衆と下に六人衆からなる宮座があった。

座小屋に一枚の記念写真がある。

「昭和13年4月神社八人衆連名祈念」とあるから80年余り前の様相を示す記録写真である。

当時は、一老が村神主を勤めていたと話していたことも判る写真である。

神事は修祓、献饌、祝詞奏上、長老の玉串奉奠などである。

始めに神職が幣をもって移動した。



座小屋の裏にある祓戸社に参って修祓をされる。

その場は清めの塩を撒いていた。

神聖な場であるが、氏子たちはその場に並ばない。

戻ってきて社殿前の境内に集まっていた氏子に修祓。



神々しくも祓えの幣に光があたる場であった。

次が献饌。座小屋に納めていた神饌を手渡しで本殿に移していく。



シトギの杯もこうして渡される。



祝詞奏上、長老の玉串奉奠に撤饌などを見守る婦人たちは座小屋の扉辺りに並んで見ていた。



亀畑佐紀神社の神事はこれで終わりではない。

一同は揃って場を移すのである。



神饌ものを抱える氏子たちの先頭を行くのは神職。

向かう先は階段を下りた鳥居の真ん前。



弁財天社に於いても神事が行われる。

神饌を献じて祝詞奏上、玉串奉奠。

そして、神社に戻るかと思えば、そうではなく。

北に数百メートルを歩く。



隊列を組むことなく歩く。

その場は森の中。

内部に佇む場に社殿がある。

その社殿は「ゴマンドウ」。

充てる漢字は護摩堂である。

平成14年9月28日に屋形を新築した護摩堂は「二条の宮さん」とも呼ばれている。

境内にある石碑は永禄十一年(1568)の建之。

前期超昇寺(後期は廃佐紀幼稚園南側)の遺構の護摩堂であるが、社殿造りで建てられた。



この場に於いても神饌を供えて神事を行う。

こうした一連の参拝を済ませて直会の座小屋に場を移す。

場を調えるまでの間である。

拝殿に置いてあったお供え物に目がいった。

相当古いと思える年代物の桶にいっぱいのリンゴがある。

桶には蓋もないし、年代を示す文字も見当たらないが、黒光りから想定するに相当な年代物だと推定する。



担ぐようなこともなかった桶に盛っている真っ赤なリンゴである。

重さがあったことからなのか聞いていないが、先に本殿に供えていたのである。

シトギなどの神饌ものは手渡しの献饌、撤饌であったが、このリンゴは扱いが違った。

現在はリンゴであるが、かつては柿であったと云う。

その時代は二老のKさんの親父さんのころにあったという。

マツリが終われば1軒に2個ずつ配るリンゴは座受けのリンゴ。

昔は男の数だけ貰っていたという。

男の子ができたときは「子酒料(こしゅりょう)」を納める。

納めることで座受けされる。

神事を終えた氏子たちは昭和41年10月12日に竣工した座小屋にあがる。

座は西の座、東の座に分かれて座る。

初めに年番の人が折敷を席に置く。

お神酒は上座の神職、次に東の座の長老、西の座の長老の年齢順についた氏子一人ずつにお神酒を注ぐ。



乾杯をすることなく、注がれた順にお神酒を飲み干す。

まずは一献ということである。

熱燗の二献、ヒトギ(シトギ)喰い、お重詰めの酒の肴などの作法もあるが、次の取材に間に合わせなくてはならない。



申しわけないが、この時点で失礼させてもらった。

(H28.10. 8 EOS40D撮影)
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