Credo, quia absurdum.

旧「Mani_Mani」。ちょっと改名気分でしたので。主に映画、音楽、本について。ときどき日記。

「無理心中日本の夏」大島渚

2007-06-10 23:53:39 | cinema
無理心中 日本の夏

松竹

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1967日本
監督:大島渚
脚本:田村孟、大島渚、佐々木守
音楽:林光
出演:桜井啓子、佐藤慶、殿山泰司、戸浦六宏、田村正和、小松方正


不思議な話。
「太陽の墓場」にあったようなギラギラした庶民性は薄れ、シュルレアリスム風な感覚をほのかに臭わせる。

***

ねじの一本抜けたフーテン娘ネジ子は、男探しの放浪の途中で、高速道路に描かれた人形(ひとがた)に覆いかぶさり横たわる男に出会う。男は人形にはまり込むということになにか特別な思いがある。
ネジ子とともに干涸びた海岸に人形を描き、またもやそこに横たわる。
するとどこからともなく戦闘服すがたの男が数人、その人形のある部分を掘り返す。と、なにやら大きな箱が・・・

箱の中が武器と知った男はネジ子とともに戦闘服たちについてゆく。
着いたさきは廃墟の一室。そこには、みさかいなく人を刺し殺す刃物男、拳銃をふところにしのばせるあやしいオヤジ、テレビを持ち込んだテレビ男、などなど、怪しげな連中が。
そこへ武器を盗もうと忍び込んだ高校生はライフルフェチ。

なんだいこの展開は?と思っていると、テレビで白昼ライフル通り魔のニュースが。人形男はこの通り魔に会いにいこう。会って殺されようと思う。

結局みんなでわらわらと、警察の包囲網を突破し通り魔の潜んでいる一角に潜入。通り魔と仲良くなってしまう。(なんでだ?)で警官隊と銃撃戦。
さてどうなってしまうのか?????

***

人形(ひとがた)に入っていこうとする男は、自分が殺される時、相手の人見に自分が映り、そのとき自分のなすべきことがわかるんだ、みたいな、ちょっとハイデガーみたいなことを考えてる。
何度も銃口の前に立ってみるが、誰も殺してはくれず、瞳に真実が映ったか?といえば「ぼんやりしている」とかいうし。

ネジ子はネジ子で、彼女の戦いは満足のいく男探しなのだ。そのためならアブナイ殺人集団もすこしも怖くない。そいつらの何人かと関係をもつけれど、満足しない。

この満足しない日本の若者にあてがうべきものは何か??とおそらく脚本家は考えた。
アメリカではブラックパワー旋風吹き荒れるこの夏。
日本の夏にはなにを対置しよう・・・・
・・・・
その答えが通り魔+ライフルフェチ→無理心中なのだ??

無目的な銃撃戦のさなかに身を投じ、銃弾飛び交う下交じり合い「無理心中だ」とつぶやく男。ようやく「最高ね」とささやくネジ子。
すでに70年万博にむけて三波春夫の歌声がながれていた日本。
表向きの高揚の影で、心性の底はここまで根を失いやさぐれていたのか?
私の歩きはじめた地点はこんなところだったのか?


それでもまだ「最高」を求める心が残っていたと評すべきなのかしら。
そんな地点から出発して、じゃあ今はどうなったのか?というと・・・
例によって複雑化/深化しているんだろうなあ・・・なにしろ今や通り魔、めずらしくないし

***

ひとりだけ毛色の違うライフルフェチを田村正和が怪演。

前年に大島は「白昼の通り魔」を撮っている。通り魔になにがしかの「現代性」を感じ取っていただろう。

同じ年に「日本春歌考」「忍者武芸帳」を撮っている。多作である。



好き度:ちょっとハテナ


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