Credo, quia absurdum.

旧「Mani_Mani」。ちょっと改名気分でしたので。主に映画、音楽、本について。ときどき日記。

押井守「GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊」

2005-06-21 12:43:57 | cinema

 

懸案だったけれどやっと観た。

「イノセンス」は、「面白いけれどもうひとつ踏み込みが欲しい」
という欲張りな感想だったのだが、
こっちのほうは、詰め込みがすっきりしている分、
描く世界の肌触りをきめ細かく描いていて、ぞくぞくさせるし、わかりやすい。

ネット経由で会話しながらの戦闘シーン、ぼそぼそした事務的な会話、
生の感情のこもった会話、様々な音声が、シチュエーションに応じて変調させられ、
重層化する。
そんな肌触りがよく描かれている。
一つの近未来像としての「コミュニケーションの多重化」を
感覚的に表現している。

ただ、ネット経由の音声がなぜアナログ変調してしまうのか、
突き詰めるとやや疑問。
こういう細部を突き詰めるともっと風変わりな表現がありそう。
たとえばグレッグ・イーガンのように・・・

そういえば頭のなかに多様な声が響く様は、
これはグレッグ・イーガンが好んで描く、脳神経のツール化に伴う風景に似ている。

イーガンの世界は映画化が困難だろうと思っていた。
映画的に魅力的なガジェットは溢れんばかりに登場するくせに、
肝心の最大のキモはどう考えても可視化不可能、概念や認識の物語だからだ。
でも、攻殻機動隊の映像を見ていると、このチームなら間接的ながらも
イーガンのキモを「見せて」くれるかも知れない・・・などと夢想した。
草薙少佐が「人形遣い」にダイブしてからのシークエンスなんかに
その可能性を感じた。
香港の市街の描き方なんかもイメージぴったし。

イーガンの話になってしまったが、実際イーガンとは同時代展開しているこのシリーズ。
どうしても比べてしまうと、細部の徹底した「未来化」という点では
完全にイーガンに軍配。
あのレベルでこのアニメを作り込んでくれたら、もう言うことはありませ~ん。

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マイケル・チミノ「天国の門」あげいん

2005-06-21 09:18:56 | cinema

 

ぷち里帰りの際、蓮実重彦御大が「天国の門」について書いたものを読み返す。
御大はおそらく「短縮版」を観た上での執筆と思われるが、その主旨を乱暴にもまとめてしまうと以下のようなものだ。

天国の門はいかにも短い。
この欠如感は短縮されたという事実によるものというより、
この監督の資質によるものだ。
チミノには「フィルム的官能性」が徹底して欠落している。
高度に映画的と言える馬車も、戦闘地そばの川や湖も
まったく活用されていない。
こうした「映画的な」アイテムが活用されるにはもっと長さが必要であり、
この映画の欠如感はそうした点から来ている。


さて、私は逆にオリジナルの長尺版を観ており、短縮版は未見。
オリジナル長になった天国の門はこの欠如感を払拭しているか?

っていうとやっぱり「短い!」と感じざるを得ない。
いったいどれだけ長ければ満足するんだろう・・・

御大の言ってた馬車については、おそらく短縮版ではカットされたであろう、
無意味に集落を走り回るシーンで、それなりに運動性を映画的にアピールできたかもしれない。

けれど、せっかくのワイオミングの素敵な遠景は
まるで書き割りのように平坦な背景としてしか扱われないし、
移民の日常生活が実はほとんど描かれていないし。

そのくせ、狼の生け捕りの話など魅力ある細部をいっぱいつぎ込んでいるから、
もっともっと潤いのある描写があるんじゃないかと期待し、見続けてしまう。

でも細かい挿話は挿話としてそれっきりほっておかれる。
これはもう作品の長短の問題ではなく、御大の言うように監督の資質の問題なのだ。

で、この映画出来がいいか悪いかというと、やっぱり出来の悪い超大作だろう。

それでもこの作品、妙に忘れがたい味わいというか魅力があるなあ。
蓮実御大的にいうと凡庸な説話論的な構造をしっかりなぞりながらも、
ときおりそこから逸脱しそうな、抑圧された細部がこの作品にはいっぱいある。
その細部によい意味でもっと拘泥していれば、正しく超大作となり得た作品ではなかったか?

だから私的には、出来の悪い映画だけど好きな作品だなあ・・・
ということで~もう一度みたい・・
・・けどやっぱやめとくか(苦笑)

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