ゆうゆうの教会便り

私の教会のこと、教会生活をボチボチと・・・・

讃美歌529番 「ああうれし、わが身も」

2014-11-12 16:48:21 | 讃美歌
讃美歌529番 「ああうれし、我が身も」 先週の礼拝で歌いました。

 1)ああうれし、我が身も 主のものとなりけり
   浮世だにさながら 天つ世の心地す
  Chorus:
   歌わでやあるべき 救われし身の幸(さち)
   たたえでやあるべき 御救いのかしこさ

 2)残りなく御旨(みむね)に 任せたる心に
   えも言えず妙なる 幻を見るかな
  Repeat Chorus.

 3)胸の波収まり 心いと静けし
   我もなく世もなく ただ主のみいませり
  Repeat Chorus.

この讃美歌は、アメリカの盲目詩人Frances Jane (Crosby)Van Alstyne(1820-1915 一般にファニー・クロスビーと呼ばれている)が
歌詞した。 彼は友人であり作曲家及び歌手として知られていた Phoebe Parlmer Knapp(1839-1908)がある曲を作り
これに合った歌詞を書いて欲しいと頼まれて、その曲の美しさに感動してこの歌詞を書いたという。
これは曲の方が先にでき、歌詞がそれに従った少数の場合の一つである。

ファニー・クロスビー:生涯に6000以上もの歌詞を作詞したが、その単純さと熱誠が人気をもたらした。
Phoebe Parlmer Knapp(1839-1908)は讃美歌の作曲者でありまたオルガニストでもあった。
彼女はW.C.Parlmerの娘としてニューヨーク市に生まれた。
結婚したJ.F.Knapp氏は保険会社の設立者で会社の副社長でもあり、家にはパイプオルガンが設置されていた。
彼女と夫はJohn Street Methodist Episcopal church の会員で、美歌作家のファニー・クロスビーは会員であり
彼らの友人でもあった。

彼女は500以上の讃美歌曲を書いた。
最も親しまれているのはクロスビーの詩“ASSERANCE” のために書いた“Blessed Assurance” であろう。
彼女は Poland, Mine in USA で亡くなった。 (以上、ネットからの引用です。)

ココをクリックすると讃美歌529番を聴くことができます。
女性8名、男性3名の奈良教会の聖歌隊、こんなにも力強い歌声が出せるんですね~
美竹教会では毎月第一主日の礼拝後、少人数ですが、讃美歌練習をしています。
大丈夫、大丈夫! 聖歌隊として十分活躍できますね! ファイッ!! 


冬鳥の<ツグミ>を今シーズン初めて見ました。
春に旅立つまで、公園で姿を見せてくれることでしょう。


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聖書の学びⅡ 共同体の信仰とは?(3)

2014-11-11 21:51:26 | 「聖書を学ぶ会」
9日(日)の礼拝前、10時~10時20分 聖書の学びの会でした。
聖書の勉強会は隔週に開かれます。 次回は11月23日です。
知らないことを知るのは楽しい、それが聖書についてだと更に楽しい。 (^-^)










  
  <ヒヨドリジョウゴ>の赤い実もそろそろ終わりですね。

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修養会で・・・・

2014-11-10 23:09:56 | 美竹教会
昨日は美竹教会の修養会でした。
修養会のテーマ「救いの喜びー受け、味わい、伝える」にそった説きあかしを礼拝説教でお聞きし、
昼食後、修養会です。 私は修養会に参加するのは初めてのことでした。

二名の教会員と一名の求道中の方が発題をされました。 どうやら発題に沿って話し合いがされるようでした。

求道中のNさんは「神に逆らう者とみなされた場合、自分だけでなく三代四代先の子孫に至るまで神は罰せられる」
という聖書の箇所(聖書のどの個所だったか忘れました m(_ _)m)をコピーして資料として参加者に配り、
そのような恐ろしいことがあるのだろうか、とご自分の疑問を私たちに問いかけました。 

そのほか、日本人にとって日常生活の一部となっているような仏教的しきたり(例えばお寺での葬儀のさいの作法)
神道的しきたり(例えば神式の結婚式での作法)、町内会の祭りへの参加、などにクリスチャンはどのように付き合えばよいか。 
神社仏閣、仏像鑑賞を含む旅行の際、クリスチャンはどうすればよいか、等々具体的な事柄への質問もあり、
Nさんの質問への答えから波及して話し合いは続きました。

話し合いの終わりの方で、教会員のOさんがNさんに「どうぞ真剣に慎重に考えられて聖書を読み礼拝に集われ、
いつの日か私たちの群れの仲間になられますことを祈っています」というような発言をされました。 
とても印象深く私は心動かされ「アーメン」と心の中で唱えました。 
神様はいつかそっとNさんの後押しをして必ず受洗の機会を与えてくださると思いました。

常々は礼拝の前後にあわただしく挨拶をする程度の教会員の方々とゆっくり食事をして色々なお話が聞け
充実した楽しいひと時でした。



携帯で撮った写真です。  
最小画像の設定だったのでボケボケ写真です。m(_ _)m


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「喜びを伝える」

2014-11-09 21:05:09 | 説教
11月9日、今日の説教 テキストは「申命記」7章6節~8節 と 「テモテへの手紙 二」1章3節~14節
タイトルは「喜びを伝える」でした。
今日は修養会ということで(多分特別に)説教のプリントが全教会員に配られました。 ラッキー!!
左近先生は、説教だけが特別ではなくて、説教は勿論、讃美歌、祈り、すべてをひっくるめての礼拝を
大切になさっています。
確かに、御堂で私たちが礼拝を捧げるとき、言葉には表せない化学反応(これはゆうゆうの勝手な解釈です)
が起きるような気がします。 説教だけをここに載せても礼拝の雰囲気は伝わりません。
讃美歌を歌い、皆で祈り説教を聴く、この礼拝にあなたも是非いらしてください。

 


 
  


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心温まる、修養会のご報告は明日にでもさせていただきます。



野鳥の背景も秋めいてきました。<オナガ>です。
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今週の日曜日は修養会

2014-11-07 21:39:32 | 美竹教会
約四年前に美竹教会に戻ってから修養会に出るのは初めてです。
礼拝のあと食事会、それからどんなことをするのでしょうね、楽しみです。

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初めて教会にいらした方も、修養会への参加、大歓迎です!
どうぞ扉を押して、東京は渋谷区の美竹教会におでかけください。
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メリバの泉

2014-11-06 22:22:39 | 今日の聖句
今日の聖句は「民数記」20章全部です。

「メリバの泉」
さて、そこには共同体に呑ませる水がなかったので、彼らは徒党を組んで、モーセとアロンに逆らった。
民はモーセに抗弁して言った。 「同胞が主の御前で死んだとき、我々も一緒に死に絶えていたらよかったのだ。
なぜ、こんな荒れ野に主の会衆を引き入れたのです。 我々と家畜をここで死なせるためですか。
なぜ、我々をエジプトから導き登らせて、こんなひどい所に引き入れたのです。
ここには種を蒔く土地も、いちじくも、ぶとうも、ざくろも、飲み水さえもないではありませんか。」

モーセとアロンが会衆から離れて臨在の幕屋の入り口に行き、そこにひれ伏すと、主の栄光が彼らに向かって現れた。
主モーセに仰せになった。「あなたは杖を取り、兄弟アロンと共に共同体を集め、彼らの目の前で岩に向かって、
水を出せと命じなさい。あなたはその岩から彼らのために水をだし、共同体と家畜に水を飲ませるがよい。」
 
モーセは命じられたとおり、主の御前から杖を取った。 そしてモーセとアロンは会衆を岩の前に集めて言った。
「反逆する者らよ、聞け。 この岩からあなたたちのために水を出さねばならないのか。」
モーセが手を上げ、その杖で岩を二度打つと、水がほとばしり出たので、共同体も家畜も飲んだ。

主はモーセとアロンに向かって言われた。「あなたたちは私を信じることをせず、イスラエルの人々の前に、
私の聖なることを示さなかった。 それゆえ、あなたたちはこの会衆を、私が彼らに与える土地に導きいれることはできない。」
これがメリバ(争い)の水であって、イスラエルの人々が主と争ったところであり、主がご自分の聖なることを示された所である。


なぜモーセは神に責められて、約束の地に入ることができないのか? 私にはその理由がいまだに頭に入っていません。
ここを読むのは何回目でしょう。 
ネットで「メリバの泉」と検索して、分かりやすい解説に当たりました・・・・・・・と、ここでフト、前回「民数記」を読んだ時は
どーだったのかな~?と気になって、自分のブログを検索してみました。
驚いたことに(私の物覚えの悪さに驚いたのです!)実は昨年の9月に「民数記」を読んだ際にも同じ疑問を持ち、
検索し同じサイトに行き当たり、リンクを張らせていただいていました


恐るべし! 私の貧弱な理解力と記憶力! 救いようが無いです。 (T__T)
しか~し! 今度こそ忘れないぞ~!! ということで、今回はその分かりやすい解説全文をここにアップさせていただきます。
いくら私でもモウ忘れないでしょう。


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メリバの水とは、これによってモーセが主の怒りを受け、約束の地に入ることを赦されなくなってしまった重要なできごとです。 
一見すると、モーセは主に命ぜられたとおりに行動しているだけであって、どこにも非がないように見えます。 
実を言うと私も、今回読むまでは、ずっとわからなかった次第です。 その意味もあって、ここは詳細に見ていくことにします。

まず、荒野にあって水が得られなくなった民が、モーセとアロンに迫るところから始まります。

20:2 そのころ会衆は水が得られなかったため、相集まってモーセとアロンに迫った。
20:3 すなわち民はモーセと争って言った、「さきにわれわれの兄弟たちが主の前に死んだ時、われわれも死んでいたらよかったものを。
20:4 なぜ、あなたがたは主の会衆をこの荒野に導いて、われわれと、われわれの家畜とを、ここで死なせようとするのですか。
20:5 どうしてあなたがたはわれわれをエジプトから上らせて、この悪い所に導き入れたのですか。
   ここには種をまく所もなく、いちじくもなく、ぶどうもなく、ざくろもなく、また飲む水もありません」。

聖書を読む私たちは、どうして、この民は何度も、「エジプトに居たほうがよかったのに」だの、
「あのとき一緒に死んでいればよかったのに」だのと、同じような不平を繰り返してばかりいるのかと思いがちです。 
性懲りもなく、不満をぶつけているという風に見えてしまうからです。 

しかし、彼らの置かれた過酷な状況を考えてみましょう。 荒野にあって、水が無いということは、即、死を意味するのです。
同じ死ぬなら、あっと言う間に地に呑み込まれたり、疫病にかかって苦しむ間もなく死ぬ方が楽だと思うのが人情でしょう。 
さんざん苦労してさ迷った挙句、じわじわ苦しみが増してくる中で、渇きによる死を迎えるぐらいなら、よほどましだと思うのも無理はありません。

モーセとアロンとは、例によって、という言い方はあまり敬虔ではありませんけど、主のみ声を仰ぎます。 
また、いつもの調子で・・・、という安易な姿勢があったのかもしれないのです。

20:6 そこでモーセとアロンは会衆の前を去り、会見の幕屋の入口へ行ってひれ伏した。すると主の栄光が彼らに現れ、
20:7 主はモーセに言われた、
20:8 「あなたは、つえをとり、あなたの兄弟アロンと共に会衆を集め、その目の前で岩に命じて水を出させなさい。
   こうしてあなたは彼らのために岩から水を出して、会衆とその家畜に飲ませなさい」。
20:9 モーセは命じられたように主の前にあるつえを取った。

主は、モーセに、「岩に命じて水を出させなさい」 と言われました。
岩に命じるのはモーセであっても、それは主の命によって、命じるのです。 
私たちがとりなしの祈りをするときも、必ず、主イエスの御名によって祈ります。
主の力が、願い求めて祈る人を通して働くのであって、祈る人がすごい力を持つからではありません。

この場合も同じです。主の力がモーセを通して働くのです。主の力は、必ず、油注がれた人を介してはたらきます。 
そして、その人は、主に栄光を返さなければなりません。 さて、モーセは、この場合、どうだったか?

20:10 モーセはアロンと共に会衆を岩の前に集めて彼らに言った、「そむく人たちよ、聞きなさい。
   われわれがあなたがたのためにこの岩から水を出さなければならないのであろうか」。
20:11 モーセは手をあげ、つえで岩を二度打つと、水がたくさんわき出たので、会衆とその家畜はともに飲んだ。

モーセの言う「われわれ」とは、自分とアロンとのことか、もしくは、自分が主の側に立っていることを踏まえて、
主をも含めて言っているのかのどちらかでしょう。 
つまり、自分を主と同じ立場に置いていることになります。 
また、「水を出すように主が命じられたのだ」という肝心なことも言っておりません。

「モーセは手をあげ、つえで岩を二度打つと、」 モーセが、つえで岩を二度打ったとあるのは、どう考えるべきか。
自分の力だけで水を出そうとしたのだとも考えられますし、主から自分に与えられたはずの力を信じていなかったから
二度も打ったのだ、というようにもとることができます。 
結局、ここでのモーセは、水を与えるわざを、主の御名によって行うこともなく、さらには、
主に栄光をお返しすることもしていないということになります。

20:12 そのとき主はモーセとアロンに言われた、「あなたがたはわたしを信じないで、イスラエルの人々の前に
   わたしの聖なることを現さなかったから、この会衆をわたしが彼らに与えた地に導き入れることができないであろう」。
20:13 これがメリバの水であって、イスラエルの人々はここで主と争ったが、主は自分の聖なることを彼らのうちに現された。

この出来事は、モーセに重くのしかかります。 
あれほど、謙遜で、主のみこころのまま歩もうとしつつ、同時に民の平安を求めた優れた指導者としての姿は、
ここでは全くみられません。 
この出来事だけのために、モーセはカナンの地を棒に振ることになってしまったのでした。
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冬鳥の<アオジ>が公園に入っていました。
いよいよ冬の鳥撮りシーズンが始まります。


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讃美歌21 81番 「主の食卓を囲み」

2014-11-05 13:03:20 | 讃美歌
讃美歌21 81番 「主の食卓を囲み」   作詞・作曲 新垣壬敏(あらがき つぐとし) 

美竹教会では毎月、第一主日礼拝には聖餐式があり、主の体をあらわすパンと主の血潮をあらわす
葡萄酒(ジュース?)を皆で味わい、主の食卓に招かれている平安を感謝します。
聖餐式で歌った讃美歌です。 
「マラナタ」とはアラマイ語で、主よ来てくださいと言う意味だそうです。

  1 主の食卓を囲み、いのちのパンをいただき、
    救いのさかずきを飲み、主にあってわれらはひとつ。
 (くりかえし)
     マラナ・タ、マラナ・タ、主のみ国がきますように。
     マラナ・タ、マラナ・タ、主のみ国がきますように。

  2 主の十字架をおもい、主の復活をたたえ、
    主のみ国を待ち望み、主にあってわれらは生きる。
   
  3 主の呼びかけにこたえ、主のみことぱに従い、
    愛のいぶきに満たされ、主にあってわれらは歩む。

作詞・作曲は、カトリックの信徒:新垣壬敏(あらかきつぐとし)さん(1938~)で、
現代日本の代表的な作曲家のお一人です。オペラ「26人の殉教」(田中澄江脚本)は
代表作として広く知られています。
新垣さんは、フィリピンで漁業組合長の仕事をしていた父とスペイン系フィリピン人の
母との間に生まれ、カトリックの信仰の中で育ちました。
戦争末期には6ヶ月も山の中で逃げ回り、1946年に沖縄に帰国しました。
敗戦後の混乱期であり、18歳になってピアノを沖縄の駐留米軍の中にいた
コーニー・ブラウン女史(ボストン音楽大学教授)から教わりました。
1964年に、パスポートを取得(沖縄が本土復帰以前)して、国立音楽大学で学びました。
カトリック教会では、第二ヴァチカン公会議(1962~66年)が開かれ、ミサが、
ラテン語から自国語に変わることになり、新垣さんにとって大きな転機となりました。
新垣さんの音楽は、母が歌ってくれた子守歌のスペインの響き、フィリピンの音楽、
琉球の旋律、幼少時代から身についたグレゴリオ聖歌などが影響されているようです。

マナラ・タは、1983年、カトリックの司祭が叙階されるときの贈る歌として生まれた讃美歌です。
カトリックだけではなく、超教派的に歌われ『讃美歌21』や『新生讃美歌』、『古今聖歌集』等に採用され、
フィリピンの『バンブー・ヒムナル』にも英訳され歌われています。

新垣さんは「ごらんよ空の鳥」や「マラナタ」、「キリストはぶどうの木」をはじめ、『典礼聖歌集』や
新しい『カトリック典礼聖歌集』の中の数々の聖歌の作曲をされています。
白百合女子大学教授で、長年、東京カトリック神学院でも神学生の典礼指導にあたっておられます。
イエズス・マリアの聖心会ともかかわりが深く、「指なき合掌」という福者ダミアン神父の歌も作曲なさり、
『カトリック典礼聖歌集』に入っています。    (以上、ネットのあちらこちらのサイトからの引用です。)

ココをクリックすると讃美歌21 81番のメロディを聴くことができます。



公園の池に鴨たちが渡ってきています。
<オナガガモ(♂)>です。

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渋谷の地にあって美竹教会が周囲の方々にとって燈台のようになったら嬉しいことです。
悩む人、重荷を負う方々が一人でも教会の扉を開けて神さまの御言葉に出会いますように!
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美竹教会でハンドベルコンサート

2014-11-04 10:08:38 | 美竹教会
    11月30日アドベント最初の日の礼拝後、12時から約1時間
    青山学院大学ハンドベルクワイアのメンバーによるミニコンサートが開かれます。 
    入場無料です、どなたでもご自由にお入りください。


   
      福嶋裕子(理工学部)准教授によるミニメッセージ(解説?)が付きます。
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「型破りな神」

2014-11-03 12:19:59 | 説教 十戒
11月2日 主日礼拝 説教
テキスト「申命記」5章6節~8節 「コリントの信徒への手紙 一」8章4節~6節
タイトルは「型破りな神」でした。

キリスト教が大事にしてきて、今もなお大事にしている「使徒信条」を8月から聞いてまいりました。 
先週からはモーセの十戒の教えを味わい信仰を確かめています。
十戒は戒律ではない、律法ではない、救われるために何々はしてはダメと人を縛るものではありません。
十戒を守ることが、また守らないことが救いの条件ではないのです。
神にとらわれると私たちは自由になる、特に十戒の前文には救いの喜びが示されていてこれが十戒の出発点にあります。
未だに罪を犯す私たちが何かへの自由に向かってどう道を整えるのか、というのが十戒です。 
救われた者の歩みのガイドライン、目的地を清かに示すのが十戒で、発想が逆なのです。
神は私たちの所に降ってきた、聖書の語る救いの始まりです。
人生を諦めていたモーセに神は現れ、6世紀にはバビロニアへの捕囚によって挫折の極みの弟子たち、
的外れな生き方をしている人々を解放するために神は降って来られました。 
そして神は私たちを見捨てることはない、その喜びを聖書は語っています。
私たちの人生は確かな礎(いしずえ)に繋がれることで自由に大胆に解き放たれている。 定点をもっている。 
すべての人に仕える喜びを支え続けている神、これに比べて、あなたに別の神があるなんてありえないでしょう・・・・・
ここまでが先週学んだ第一の戒めでした。

今日は第二の言葉「いかなる偶像も作ってはならない」という偶像礼拝についての話です。
この第二の言葉は第一の言葉の後半部分として、両方を合わせて第一の言葉と数える場合もあります。
十戒の数え方は色々ありますが、カトリックやルター派は第一と第二を一緒にして一つととらえています。
カトリックの教会に行くと聖人の像やマリア像、また十字架にかかるイエスの像などがありますが、
これは「他の神々の像はあってはならない、聖書の神の像ならばよい」と十戒を読んでいるからです。 
聖書の神々以外の像はあり得ない、こう読むことによってこれまで素晴らしい芸術、音楽などが産み出されてきたのは事実です。
しかし改革派はこの二つを別々のものとして独立させて聞くという伝統があります。 
聖書の神の像ですら刻んではならないと言う決断になります。 まず私たちの神様を偶像化しない、
この信仰にたって美竹教会の会堂には十字架もありません。 
私も十戒の第二の言葉をそのように思い大事にしてきました。
み言葉に集中することを学びそれは恵みでした。 
説教と聖餐を通して、神のみ言葉を通してのみ神の居ますことを知り、神を礼拝する者の恵みを味わい知りました。

「ハイデルベルクの信仰問答」問96に「十戒の第二の戒めで神は何を望んでおられますか?」とありますが、それに対する答えは
「私たちがどのような方法であれ、神の形を作ることによって、この方のみ言葉が命じられた以外の理解をすることがない」
神はみ言葉の生きた説教によって教えようとなさっているのです。 
今この会堂で持たれている礼拝と説教に深く関わっています。 真っすぐに神に向き合う様に整えられています。

英語では偶像は graven image(thou shalt not make unto thee any graven image 汝いかなる偶像も作るなかれ)
「刻まれたイメージ」と翻訳されていますが、イメージによってこうあるべき、と勝手に作り上げてしまうのではない、
私たちの心の中に、頭に魂の中にイメージが浮かぶとしたらそれはすでに神の像を刻んでいるのではないか?と思わせる訳です。 
神を自分の都合に合わせたり、御業を値踏みすることにならないだろうか。 いかなるイメージを作ってはならない。 
人はいつか自分のイメージの神の名によって語り、過ちを犯すようになることは聖書の歴史が証明しています。
過った神のイメージを各々が描いて、共に礼拝を守っていながらも共同体が破たんしていったことは数知れません。 
各々のイメージを刻みあってバラバラになって良いでしょうか。

あなたのイメージを“あなた自身のために”作って良いはずはないでしょう。
大きな神をあなた自身のために小さく閉じ込めてはならない。
一人一人の人生をはるかに超えた、出エジプトの出来事、バビロン捕囚からの解放など、歴史のなかで縦横無尽に働く神。
「イザヤ書」46章には「(私たちを)持ち運ぶ神」が記されています。 
それは新約聖書に展開され、イエス・キリストにおいてはっきりと啓示されました。
人の抱く神のイメージをかなぐり捨て、、自らを無にし、恥多き十字架の死に至るまで絶望の極みにまで自らを投げ出され、
人間の究極の敵、死を死に切って復活の命の初穂となられた。 
この型破りの神に出会った者は、もはや人間の思い描くことの出来る神を刻むことなどありえないでしょう。 
と十戒の第二の言葉は語っているのです。
み言葉と聖餐によって聖霊の助けをいただきながら今日も主の食卓を囲みたいと思います。    (以上、文責はゆうゆうにあります。)


説教の後、聖餐式がもたれました。
分かりやすく(私にとってです。勝手な解釈をしているかも知れません。)迫力のあるお説教でした。
カソリック教会の様々な像についての疑問も解けました。(なぜ偶像を飾っているのか?とずっと思っていました。)
説教の最後の方で「では、私たちは神の姿を何に見れば良いのか? それはイザヤ書46章から新約聖書のイエスが示されている」と
左近先生は仰ったような気がするのですが、私の心の声カナ? 聞き漏らしたのかはっきり覚えていません。 (^^;)

各人が頭の中にせよ graven image を持ってそれに執着することによって起こる様々なトラブルや闘争、
歴史の中に数知れません。
大きな大きな存在を小さな存在の人間の中に入れようとする間違い、愚かさ・・・・・納得です。



水面を低空飛行する<カワウ>です。
高く飛ぶカワウを見たことが無いのですが、
長距離移動の場合は空高く飛ぶのでしょうね。


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ホームページの「お知らせのページ」には「美竹教会のこれからの予定」が載っていますが。
これから、写真を中心にした、終わったイベントのページも作りたいと思っています。
様々なシーンを写真に撮ってくださっているSさんに画像をお借りして作る予定です、お楽しみに!
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怒る神(民数記より)

2014-11-01 15:18:11 | 今日の聖句
今日の聖句は「民数記」からです。

14章26節~35節
主はモーセとアロンに仰せになった。「この悪い共同体は、いつまで、わたしに対して不平を言うのか。
わたしは、イスラエルの人々がわたしに対して言う不平を十分聞いた。彼らに言うがよい。
『主は言われる。わたしは生きている。わたしは、お前たちが言っていることを耳にしたが、
そのとおり、お前たちに対して必ず行う。お前たちは死体となってこの荒れ野に倒れるであろう。
わたしに対して不平を言った者、つまり戸籍に登録をされた二十歳以上の者はだれ一人、
わたしが手を挙げて誓い、あなたたちを住まわせると言った土地に入ることはない。
ただし、エフネの子カレブとヌンの子ヨシュアな別だ。
お前たちは、子どもたちが奪われると言ったが、わたしは彼らを導き入れ、彼らは、お前たちの拒んだ
土地を知るようになる。しかし、お前たちは死体となってこの荒れ野で倒れる。
お前たちの子供は、荒れ野で四十年の間羊飼いとなり、お前たちの最後の一人が荒れ野で死体となるまで、
お前たちの背信の罪を負う。
あの土地を偵察した四十日と言う日数に応じて、一日を一年とする四十年間、お前たちの罪を負わねばならない。
お前たちは、わたしに抵抗するとどうなるかを知るであろう。主であるわたしは断言する。
わたしに逆らって集まったこの悪い共同体全体に対して、わたしはこのことを行う。彼らはこの荒れ野で死に絶える。』」


主はイスラエルの人々に与える土地の偵察に12部族から選んだ者を遣わしました。
ヌンの子ヨシュアとエフネの子カレブ以外の者は、主の示された道を進むことに強く反対します。
その報告を聞いたイスラエルの民は泣き言を言い、不平を言います。
それがの聖句です。

14章1節~8節
共同体全体は声をあげて叫び、民は夜通し泣き言を言った。
イスラエルの人々は一斉にモーセとアロンに対して不平を言い、共同体全体で彼らに言った。
「エジプトの国で死ぬか、この荒れ野で死ぬ方がよほどましだった。どうして、主は我々をこの土地に連れてきて、
剣で殺そうとされるのか。妻子は奪われてしまうだろう。それくらいなら、エジプトに引き返した方がましだ。」
そして、互いに言い合った。「さあ、一人の頭を立てて、エジプトへ帰ろう。」
モーセとアロンは、イスラエルの人々の共同体の全会衆の前でひれ伏していた。
土地を偵察してきた者のうち、ヌンの子ヨシュアとエフネの子カレブは衣を引き裂き、イスラエルの人々の共同体全体に訴えた。
「我々が偵察してきた土地は、とてもすばらしい土地だった。もし、我々が主の御心に適うなら、主は我々をあの土地に導き入れ、
あの乳と蜜の流れる土地を与えて下さるであろう。」


主は怒り、共同体全体の二十歳以上の者はだれ一人約束の土地には入れないと断言します。
(今日の聖句、冒頭に書いた部分です。)
イスラエルの人々は40年間荒れ野をさまよい、その子供の世代になってようやく約束の地カナンの土を踏むことができたのです。

「民数記」を読んでいます。 
エジプトから脱出したイスラエル人は神に守られ(それでも神に不平を呟きながら)荒れ野での旅を続けます。



秋の日差しの中の蝶<ヒメアカタテハ>です。

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明日は日曜日、主日礼拝の日です。 礼拝は午前10時半から12時までです。
どうぞ、扉を押して礼拝にお出かけください。
この世の虚しさに、苦しみに、死にすら打ち勝つ救いに、あなたも与かれますように!
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