ゆうゆうの教会便り

私の教会のこと、教会生活をボチボチと・・・・

「型破りな神」

2014-11-03 12:19:59 | 説教 十戒
11月2日 主日礼拝 説教
テキスト「申命記」5章6節~8節 「コリントの信徒への手紙 一」8章4節~6節
タイトルは「型破りな神」でした。

キリスト教が大事にしてきて、今もなお大事にしている「使徒信条」を8月から聞いてまいりました。 
先週からはモーセの十戒の教えを味わい信仰を確かめています。
十戒は戒律ではない、律法ではない、救われるために何々はしてはダメと人を縛るものではありません。
十戒を守ることが、また守らないことが救いの条件ではないのです。
神にとらわれると私たちは自由になる、特に十戒の前文には救いの喜びが示されていてこれが十戒の出発点にあります。
未だに罪を犯す私たちが何かへの自由に向かってどう道を整えるのか、というのが十戒です。 
救われた者の歩みのガイドライン、目的地を清かに示すのが十戒で、発想が逆なのです。
神は私たちの所に降ってきた、聖書の語る救いの始まりです。
人生を諦めていたモーセに神は現れ、6世紀にはバビロニアへの捕囚によって挫折の極みの弟子たち、
的外れな生き方をしている人々を解放するために神は降って来られました。 
そして神は私たちを見捨てることはない、その喜びを聖書は語っています。
私たちの人生は確かな礎(いしずえ)に繋がれることで自由に大胆に解き放たれている。 定点をもっている。 
すべての人に仕える喜びを支え続けている神、これに比べて、あなたに別の神があるなんてありえないでしょう・・・・・
ここまでが先週学んだ第一の戒めでした。

今日は第二の言葉「いかなる偶像も作ってはならない」という偶像礼拝についての話です。
この第二の言葉は第一の言葉の後半部分として、両方を合わせて第一の言葉と数える場合もあります。
十戒の数え方は色々ありますが、カトリックやルター派は第一と第二を一緒にして一つととらえています。
カトリックの教会に行くと聖人の像やマリア像、また十字架にかかるイエスの像などがありますが、
これは「他の神々の像はあってはならない、聖書の神の像ならばよい」と十戒を読んでいるからです。 
聖書の神々以外の像はあり得ない、こう読むことによってこれまで素晴らしい芸術、音楽などが産み出されてきたのは事実です。
しかし改革派はこの二つを別々のものとして独立させて聞くという伝統があります。 
聖書の神の像ですら刻んではならないと言う決断になります。 まず私たちの神様を偶像化しない、
この信仰にたって美竹教会の会堂には十字架もありません。 
私も十戒の第二の言葉をそのように思い大事にしてきました。
み言葉に集中することを学びそれは恵みでした。 
説教と聖餐を通して、神のみ言葉を通してのみ神の居ますことを知り、神を礼拝する者の恵みを味わい知りました。

「ハイデルベルクの信仰問答」問96に「十戒の第二の戒めで神は何を望んでおられますか?」とありますが、それに対する答えは
「私たちがどのような方法であれ、神の形を作ることによって、この方のみ言葉が命じられた以外の理解をすることがない」
神はみ言葉の生きた説教によって教えようとなさっているのです。 
今この会堂で持たれている礼拝と説教に深く関わっています。 真っすぐに神に向き合う様に整えられています。

英語では偶像は graven image(thou shalt not make unto thee any graven image 汝いかなる偶像も作るなかれ)
「刻まれたイメージ」と翻訳されていますが、イメージによってこうあるべき、と勝手に作り上げてしまうのではない、
私たちの心の中に、頭に魂の中にイメージが浮かぶとしたらそれはすでに神の像を刻んでいるのではないか?と思わせる訳です。 
神を自分の都合に合わせたり、御業を値踏みすることにならないだろうか。 いかなるイメージを作ってはならない。 
人はいつか自分のイメージの神の名によって語り、過ちを犯すようになることは聖書の歴史が証明しています。
過った神のイメージを各々が描いて、共に礼拝を守っていながらも共同体が破たんしていったことは数知れません。 
各々のイメージを刻みあってバラバラになって良いでしょうか。

あなたのイメージを“あなた自身のために”作って良いはずはないでしょう。
大きな神をあなた自身のために小さく閉じ込めてはならない。
一人一人の人生をはるかに超えた、出エジプトの出来事、バビロン捕囚からの解放など、歴史のなかで縦横無尽に働く神。
「イザヤ書」46章には「(私たちを)持ち運ぶ神」が記されています。 
それは新約聖書に展開され、イエス・キリストにおいてはっきりと啓示されました。
人の抱く神のイメージをかなぐり捨て、、自らを無にし、恥多き十字架の死に至るまで絶望の極みにまで自らを投げ出され、
人間の究極の敵、死を死に切って復活の命の初穂となられた。 
この型破りの神に出会った者は、もはや人間の思い描くことの出来る神を刻むことなどありえないでしょう。 
と十戒の第二の言葉は語っているのです。
み言葉と聖餐によって聖霊の助けをいただきながら今日も主の食卓を囲みたいと思います。    (以上、文責はゆうゆうにあります。)


説教の後、聖餐式がもたれました。
分かりやすく(私にとってです。勝手な解釈をしているかも知れません。)迫力のあるお説教でした。
カソリック教会の様々な像についての疑問も解けました。(なぜ偶像を飾っているのか?とずっと思っていました。)
説教の最後の方で「では、私たちは神の姿を何に見れば良いのか? それはイザヤ書46章から新約聖書のイエスが示されている」と
左近先生は仰ったような気がするのですが、私の心の声カナ? 聞き漏らしたのかはっきり覚えていません。 (^^;)

各人が頭の中にせよ graven image を持ってそれに執着することによって起こる様々なトラブルや闘争、
歴史の中に数知れません。
大きな大きな存在を小さな存在の人間の中に入れようとする間違い、愚かさ・・・・・納得です。



水面を低空飛行する<カワウ>です。
高く飛ぶカワウを見たことが無いのですが、
長距離移動の場合は空高く飛ぶのでしょうね。


美竹教会のホームページです、クリックしてお訪ねください。
ホームページの「お知らせのページ」には「美竹教会のこれからの予定」が載っていますが。
これから、写真を中心にした、終わったイベントのページも作りたいと思っています。
様々なシーンを写真に撮ってくださっているSさんに画像をお借りして作る予定です、お楽しみに!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする