ゆうゆうの教会便り

私の教会のこと、教会生活をボチボチと・・・・

まとまらない考え

2013-10-21 22:43:28 | その他
昨日の礼拝説教では、何を目標に生きればよいかを教えられて心満たされ感謝なことでした。
神の国を目指して走る、この究極の目標を与えられているという平安に心から感謝です。
為すべき目標が一つだということはシンプルで生きて行きやすい、本当に納得しました。

70歳の私の今の生活、その活動範囲はとても狭いものです。
連れ合いが病気ということもあって、働いてもいませんし、ボランティア活動もしていません。
交流する人の数も限られていて、トラブルも少ない毎日が過ごせています。
私には生活のぜい肉を落としてシンプルライフを生きることはそれほど難しくない、と思えました。

しかし、若者や働き盛りの人々、世の修羅場を生きている人たちにとってはどうなのでしょう。

心ならずも、管理職でリストラを断行しなくてはならない壮年の方、
徴兵制のある国で戦場で銃を持って人を殺さねばならない若者、
心ならずも、神を愛し隣人を愛することから程遠い行為をしなくてはならない人はたくさんいます。
殆どの人がそうであるかもしれません。

聖書を読み、御言葉に耳を傾け、真剣に神の導きを願い祈る、そうすることによって道は開け、
目標に向かった歩みが示されるのでしょう・・・きっと。

それにしても、今の私は、何もなしえず、
多くの人の苦しみから目をそむけている自分、
世の中の矛盾から目をそむけている自分、
本当に究極の目標を目指して走るなら、神の国を目指して生きるなら・・・・
安穏としている自分の毎日が許せないはずです・・・・よね。

今日は消化不良のまとまりのないことを書きました。
もう少し、考えをまとめることが必要ですね。 m(_ _)m
若いころのヒリヒリした感覚は馬齢を重ねて鈍麻したようです。


今日の野鳥は<ヨシ(葦)ゴイ>です。
葦のなかで、見つかりますか?


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「確かな目標をめざして」

2013-10-20 22:27:24 | 説教
今日は「神学校日礼拝」ということで、東京神学大学大学院2年生の山田詩郎神学生が礼拝説教をしてくださいました。
テキストは サムエル記上17:41~50 フィリピの信徒への手紙3:12~216 
タイトルは「確かな目標をめざして」でした。


私たちは自分の最期の時、後に残る人に何を伝えたいでしょうか?

「フィリピの信徒への手紙」は自らの死を意識したパウロがフィリピの信徒宛てに「最後にどうしても伝えたいこと」を書き送った手紙です。
どうしても伝えたいこと、パウロはそれを「為すべきことはただ一つ、目標を定めて走れ」だ、といっています。

私たちは忙しい毎日でなすべきことがたくさんあったり、目標が分からなかったり、その目標が正しいものかが分からなかったりすることが
ありますが、パウロは個々の目標を超えたただ一つの究極の目標を教えています。
為すべき目標が一つであれば、私たちの暮らしはシンプルで生きやすくなります。

このころ、フィリピ教会の中には、ただキリストを信じるだけでは駄目だと、律法に忠実にたくさんの目標を掲げる人や、
信者を完全な者と不完全な者に分ける人がいました。
自分の行いや自分の完成に目標があるのはおかしいことですが、現在の私たちも同じ過ちを犯しがちです。
ともすれば他者と自分を比べたり、良い行いに頼ろうとして、目に見えるものに目標を置いてしまい勝ちです。
そうであっては、自分の行いで神に認められるという思いや、完全な者にならねばという目標(縛り)から解き放されるための
イエスの十字架の救いの意味はなくなります。

パウロは立派な使徒であるのに、自分はそれをまだ得ていないと繰り返し言っています。
しかしここで、パウロのような人がしかも最期の時が近づいてもなお完全でないということに絶望することはありません。
何故なら、私たちはイエス・キリストに捉えられているという恵みに与っているからです。
私たちは自分がキリストを知り、捕らえていると思い勝ちですが、受洗の際の自らの決断にしても主の選びの内にあるものです。

そして、キリストが私たちを捉えていると言う場合、それは手のひらと手のひらを合わせた状態ではなく私たちの手首を
主がしっかり握った状態なのです。 たとえ私たちが手を放しても主は捕まえていて下さいます。

行いによって自分を大きく見せようとしたり、または自分を過小評価して謙虚にふるまうことは、どちらも行いにこだわっていることであり、
そのどちらも不安定なことですが、主イエスが私たちを捉えていて下さる、この確かさはイエスの側にあります。

過去の罪や栄光に囚われて主に従わないとしたらそれは本末転倒ですし、
また、今何を自分が持っているかということや自分の行いのスピードを問うことも間違っています。

私たちは、何を目標としているか、何を第一としているかが問われているのです。
「神の御国」こそが私たちの目標です。
私たちが方向を見失っても、暗闇の中の光のようにイエスは捕らえていてくださるので、私たちは目標に向かうことができます。
神の御国ではすべての人に賞が与えられます。 それは悩み、憂いの無い御国に迎えられるという賞です。

忙しい毎日でも究極の目標がわかっていれば平安が与えられます。
「フィリピの信徒への手紙」は「喜びの手紙」と言われますが、主に捉えられている喜びに満ちた手紙ということです。

それでは、私たちは毎日をどのように過ごしたらよいのでしょう。
主イエスに従い、神から与えられている召しに答えるという生き方をすることです。
神を愛し隣人を愛すること、神の祝福を周囲に伝える生き方をすることです。
死を前にして(その死はいつ私たちに訪れるか分からないものです)後に残る人々に伝えることはただ一つ
「確かな目標を目指して走りなさい」ということなのです。

                              (以上、文責はゆうゆうにあります。)




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いよいよ「サムエル記」

2013-10-19 20:26:04 | 今日の聖句
「サムエル記」読み始めました。

エフライムの山地ラマタイム・ツフィムにエルカナという男がいました。
彼との間に子供の生まれない妻のハンナは「男の子を与えたまえ。もし男の子を授けて下さったら、その子の一生は
主におささげします」と祈り、主は彼女を御心に留められハンナは無事男の子を産みました。
この子がサムエルです。サムエル記はこの預言者サムエルの物語で、サウル王やダビデ王も登場します。

ハンナはサムエルが乳離れすると「この子を主に委ねます」と告げて、神殿のあるシロの祭司エリに預けました。 

エリの二人の息子ホフニとピネハスはならず者で、主を知ろうとせず、主への供え物を軽んじたり、臨在の幕屋の
入り口で仕えている女たちと床を共にしたりしていました。
これらの悪い噂はエリの耳にも入り、エリは彼らを諭しましたが彼らは父の声に耳を貸そうとしませんでした。
一方、少年サムエルはすくすくと育ち、主にも人々にも喜ばれる者となりました。

サムエルは主の「エリの家をとこしえに裁く。エリの家の罪は生贄によっても献げ物によってもとこしえに贖われることはない」
という声を聞き、エリに質されてそのことを正直にエリに告げました。

今日の聖句はその時のやり取りです。 「サムエル記上3章16節~18節
エリはサムエルを呼んで言った。「わが子、サムエルよ。」サムエルは答えた。「ここにいます。」エリは言った。
「お前に何が語られたのか。わたしに隠してはいけない。お前に語られた言葉を一つでも隠すなら、神が幾重にもお前を
罰して下さるように。」
サムエルは一部始終を話し、隠し立てをしなかった。
えりは言った。「それを話されたのは主だ。主が御目にかなうとおりに行われるように。」



全ては神が決められること。
時を得ても得なくても、良い知らせも悪い知らせも、神の恵みも神の罰も、すべては神が決められること。
私もそういう気持ちですべてを神様にゆだねて信仰生活を送りたい・・・
時を得ても得なくても、失意の時も、すべては神様の御計画・・・・・・
主よ、最期の時までそのような信仰生活を全うさせてください。 アーメン。



ようやく渡り途中の<キビタキ(♂)>が撮れました。
ピンボケですが、私のカメラではこれが精一杯です。 (^-^)


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主よ、御心ならば一人でも多くの方が礼拝にいらしてあなたの救いに与る日が来ますように。
私でもできることがありましたら、どうぞ用いてください、と祈る毎日です。
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「ルツ記」

2013-10-18 20:15:54 | 今日の聖句
「ルツ記」を読みました。

異邦人女性の名を書名とした旧約聖書の中でも稀有な作品である。
主人公のモアブ人女性ルツは、ダビデ王の曾祖母となった。
本書は、異郷で夫と息子を失ったナオミが故国ユダに戻り、同行したモアブ人の嫁ルツをとおして
新たに息子を与えられ、将来のダビデ王朝の礎を築く物語である。
この書の主題については多様な見解が出されているが、民族の枠組みを超える神の救いの豊かさが全体の基調といえる。

内容
1章は、異郷で家族を失い帰郷を決心する姑ナオミの苦悩と彼女に心を通わせ、一緒にモアブの地を離れる
嫁ルツの決意を描く。
2章は、ルツが落穂ひろいによってナオミを養う姿を描く。それは、イスラエルの家父長制社会の底辺に生きる
寡婦たちの現実であったが、ルツは畑の持ち主ボアズから特別の配慮を受ける。
3章は、ナオミの勧めによって、収穫後の麦打ち場に大胆に接近しボアズに求婚するルツと、それを「真心」として
受け止めるボアズの出会いを記す。
4章は、ルツがボアズの妻となって待望の男児オベドを産み、その子をナオミが胸に抱く祝福の幕切れである。 
異民族共生の歩みをなした二人の寡婦の決断と行為が、ボアズの共感を得てダビデ王朝の道備えとなった。

ルツ記1:11-13の背後にあるレヴィラート婚とは、子供を残さず死んだ兄弟の妻をほかの兄弟が娶り、
彼女に子をもうけさせて生まれた子に亡き兄弟の名を継がせるものである。
またルツ記2:19-20の「家を絶やさないようにする責任のある人」とは、同族・近親の利益を守るために、
売却された財産の請け出しや身売りをした人の買い戻しをする者(ゴーエール)を指す。

↑ 以上は「聖書事典」からの抜書きです。 判りやすい説明で、勉強になりました!

ルツ記のボアズはナオミにとってゴーエールに相当する人だったのですね。

今日の聖句は「ルツ記」4章18節~22節 「ダビデの系図」です。
ペレツの系図は次のとおりである。
ペレツにはヘツロンが生まれた。ヘツロンにはラムが生まれ、ラムにはアミナダブが生まれた。
アミナダブにはナフションが生まれ、ナフションにはサルマが生まれた。
サルマにはボアズが生まれ、ボアズにはオベドが生まれた。
オベドにはエッサイが生まれ、エッサイにはダビデが生まれた。




赤くなった公園の<イイギリ>の実。

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教会員の何名かが10月付で地方の教会に移籍されました。美竹教会の中では比較的若い方々でした。 
移籍された先の教会でも神様の見守りのうちに健やかに過ごされます様にお祈りいたします。
美竹教会にもこれから新しい方が見えて、礼拝に通ってくださいますように!心から祈り願っています。
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讃美歌333番

2013-10-17 22:32:04 | 讃美歌
先週の礼拝で歌った讃美歌333番 「主よ我をば 捉え給え」です。

 1)主よ われをば とらえたまえ
   さらばわが霊(たま)は 解き放たれん
   わがやいばを くだきたまえ
   さらばわが仇に 打勝つをえん

 2)わがこころは さだかならず
   吹く風のごとく たえずかわる
   主よ 御手もて ひかせたまえ
   さらば直きみち ふみゆくをえん

 3)わがちからは よわく乏し
   暗きにさまよい 道になやむ
   あまつ風を おくりたまえ
   さらば愛の火は 内にぞ燃えん

 4)わがすべては 主のものなり
   主はわが喜び また幸なり
   主よ みたまを 満たしたまえ
   さらば永遠(とこしえ)の 安きを受けん

作詞者のGeorge Mathesonは1842年、スコットランドのグラスゴーに生まれ、1906年に死去しました。
生まれつき視力の弱かった彼の目は徐々悪化しについには完全な盲目になりました。
しかし、彼は学問的才能があり、彼の姉妹はギリシャ語、ラテン語、ヘブライ語を学び、彼の学問的才能を伸ばすべく彼を助けました。
彼はエジンバラ大学(MA 1862年)を卒業し、その後、スコットランド教会の牧師になりました。
彼は説教と聖書の全体を暗記する能力が非常に優れていたため、聞く人々はしばしば彼が盲目だとは気づかなかったそうです。
1886年、マシソンはエジンバラ、セントバーナードの教会の牧師になりました。
晩年は文学への取り組みに重きをおいて過ごしたそうです。

曲はGeorge William Martin が作曲したものを後に Arthur Seymour Sallivanがアレンジしたようです。

讃美歌333番はココをクリックすると聴かれます。
英語の歌詞で歌われていますので、↓に英語歌詞を載せますね。

   Make me a captive, Lord,
   And then I shall be free;
   Force me to render up my sword,
   And I shall conqueror be,
   I sink in life’s alarms
   When in myself I stand;
   Imprison me within Thine arms,
   And strong shall be my hand.

   My heart is weak and poor
   Until it master find;
   It has no spring of action sure----
   It varies with the wind.
   It cannot freely move
   Till Thou hast wrought its chain;
   Enslave it with Thy matchless love,
   And deathless it shall reign.

   My power is faint and low
   Till I have learned to serve;
   It wants the needed fire to glow,
   It wants the breeze to nerve;
   It cannot drive the world
   Until itself be driven;
   Its flag can only be unfurled
   When Thou shalt breathe from heaven.

   My will is not my own
   Till Thou has made it Thine;
   If it would reach a monarch’s throne
   It must its crown resign;
   It only stands unbent
   Amid the clashing strife,
   When on Thy bosom it has leant
   And found in Thee its life.

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一人でも多くの方が神さまの救いに与れますように、と祈る毎日ですが、私は何も伝道の働きをしていません。
東京は渋谷の地にある美竹教会の礼拝に来ていただくために、私は何をしたらよいでしょう・・・・
それだけではだめだと分かっていますが「主よ、導きたまえ」と祈るのみです。
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「ベニヤミン族の犯行」

2013-10-16 13:10:25 | 今日の聖句
「士師記」19章~最後の21章までは「ベニヤミン族の犯行」という中見出しで
カナン中央部に定着したエフライム族とベニヤミン族との兄弟同士の戦いに関するエピソードが記述されています。

戦いは、ベニヤミン族による蛮行が動機で始まり、最後はエフライム族の訴えを聞いたイスラエル部族連合軍が
ベニヤミン軍を打ち破って終結します。
そして、大半の兵士を失ったベニヤミン族を存亡の危機から救うため、再びイスラエル全体が協力するところで物語は終ります。

エピソード冒頭の「イスラエルに王がいなかったそのころ」(士師19:1)と結びの「そのころ、イスラエルには王が無く、
それぞれ自分の目に正しいをすることを行っていた」(士師21:25)が全体をまとめています。
同時にイスラエルが王制に踏み切るに至った背景には、他民族の攻撃という外部からの大きな危機があったからだけでなく、
イスラエル内においてもそれぞれの部族が勝手な行動をして民族の共通基盤が危うくなっていったという状況を示しています。
(↑ 以上は「聖書事典」より抜書きです。)

サラッと読んだ限りでは物語の流れや、中で語られる出来事が上手くつながらず理解できませんでした。
「聖書事典」を読んで、改めて聖書を読んで、ようやくよく分かりました、多分。

・エフライムの男性が側女の実家で受けるもてなしの様子、
・親切な老人の家に泊まったその男性へのベニヤミンのならず者の言いがかり(?)、
・老人が、自分の処女の娘や男性の側女を、辱め思い通りにしてよいとならず者たちに差し出したこと、
・イスラエル連合軍がペニヤミン族には自分たちの娘を嫁として与えない、と決めた代わりに、
 集会に参加しなかったギレアドのヤベシュの処女の娘400人をベニヤミンの人々に与えたこと、
・イスラエルから一つの部族も失われないようにということで、毎年のシロの主の祭りで踊りに出てきた娘を
 妻にするために捕まえることをベニヤミンの人々に許したこと、等など、

なんとも奇想天外に思える出来事がたくさん書かれていました。 ふ~、ヤレヤレ。


今日の聖句は「士師記」19章27節30節です。
彼女(側女)の主人(エフライム人)が朝起きて、旅を続けようと戸を開け、外に出て見ると、自分の側女が
家の入口で手を敷居にかけて倒れていたので、「起きなさい。出かけよう」と言った。
しかし、答えはなかった。
(側女は死んだようです。) 彼は彼女をろばに乗せ、自分の郷里に向かって旅立った。
家に着くと、彼は刃物をとって側女をつかみ、その体を十二の部分に切り離し、イスラエルの全土に送りつけた。
これを見た者は皆言った。「イスラエルの人々がエジプトの地から上って来た日から今日に至るまで、
このようなことは決して起こらず、目にしたこともなかった。このことを心に留め、よく考えて語れ。」





百日草から吸蜜<アオスジアゲハ>です。


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士師ギデオン

2013-10-15 20:49:41 | 今日の聖句
今日の聖句は「士師記」6章1節~6節と6章33節~35節です。

6章1節~6節
イスラエルの人々は、主の目に悪とされることを行った。
主は彼らを七年間、ミディアン人の手に渡された。
ミディアン人の手がイスラエルに脅威となったので、イスラエルの人々は彼らを避けるために山の洞窟や、
洞穴、要塞を利用した。
イスラエルが種を蒔くと、決まってミディアン人はアマレク人や東方の諸民族と共に上って来て責めたてた。
彼らはイスラエルの人々に対して陣を敷き、この地の産物をガザに至るまで嵐、命の糧となる者は羊も牛もろばも
何も残さなかった。 
彼らは家畜と共に、天幕を携えて上った北が、それはいなごの大群のようで、人もラクダも数知れなかった。
彼らは来て、この地を荒らしまわった。
イスラエルはミディアン人のために甚だしく衰えたので、イスラエルの人々は主に助けを求めて叫んだ。



イスラエルの叫びに応えて主はギデオンを士師として召命しました。
主はミディアン人をギデオンの手に渡され、ギデオンはミディアン人からイスラエルを守りました。
しか~し! ギデオンが死ぬとイスラエルの人々はまたも主に背くようになるのです。


6章 33節~35節
ギデオンが死ぬと、イスラエルの人々はまたもバアルに従って姦淫し、バアル・ベリトを自分たちの神とした。
イスラエルの人々は、周囲のあらゆる敵の手から救い出してくださった彼らの神、主を心に留めなくなった。
彼らはまた、イスラエルのために尽くしてくれたエルバアル、すなわちギデオンの全ての功績にふさわしい誠意を、
その一族に示すこともしなかった。



救いがたきはイスラエルの民、ではありますが、すべからく人間は神様に従って生きてゆくと言うことは
できないのでしょう・・・・・弱く愚かで、そのくせ傲慢な私も神様に示された道を歩むことはできていません。 
赦しと恵みを祈るばかりです。 



公園の哲学者?<アオサギ>です。
アオサギやゴイサギの佇まいはどこか重々しくて考え深そうです。 (^-^)


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教会の扉はいつもあなたに向かって開いています、どうぞいつでもお訪ねください。
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再び、お知らせデス。

2013-10-14 22:59:16 | 美竹教会
しつこく、お知らせを繰り返します。 m(_ _)m


  美竹教会の今年の“キリスト教講演会”のお知らせ

  **********************************************
  日時 2013年11月10日(日曜日) 午後1時~2時半
  場所 日本基督教団 美竹教会
  講師 左近 豊(とむ)牧師
  **********************************************

  左近先生は旧約聖書の「哀歌」の研究で有名な牧師です。

  左近先生についてのネット情報はココで見ることができます。


一人でも多くの方にいらしていただきたいものです。
11月10日、美竹教会でお会いしましょう!!


<美竹教会の地図>

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「王が与えられる」

2013-10-13 20:43:01 | 説教
今日の礼拝説教 テキストは「サムエル記上」10章17節~24節 タイトルは「王が与えられる」でした。 

19節
「しかし、あなたたちは今日、あらゆる災難や苦難からあなたたちを救われたあなたたちの神を退け、
『われらの上に王を立てて下さい』と主に願っている。よろしい、部族ごと、氏族ごとに主の御前に出なさい。」


20節~21節
サムエルはイスラエルの全部族を呼び寄せた。ベニヤミン族がクジで選び出された。そこでベニヤミン族を
氏族ごとに呼び寄せた。マトリの氏族がくじで選び出され、次にキシュの息子サウルがくじで選び出された


23節~24節
サウルが民の真ん中に立つと、民のだれよりも肩から上の分だけ背が高かった。サムエルは民全体に言った。
「見るがいい、主が選ばれたこの人を。民の内で彼に及ぶものはいない。」
民は全員、喜び叫んで言った。「王様万歳」



幸福と祝福は別のものです。
幸福とは人間が追い求める物、祝福は神が与えて下さるもので、キリストを信じる信仰によって与えられるものです。

今から3000年前、イエス生誕の1000年前のイスラエルは強い信仰に立ってすべては良い方向に働き周囲の国からも
敬われていましたが、信仰が弱まるにつれ、国力は弱り、周囲からも蔑まれ掠奪されるようにもなりました。
人々は国力を上げるために(自分たちの幸福を求めて)イスラエルに王を立てるよう預言者サムエルに求めました。
サムエルは神以外の者を立てることを拒否したのですが、神はこれを薦めました。

今日の聖句の個所は、神の選びによりサウルが王となる場面です。
最初の二年間は神の御旨に従って謙虚だったサウルですが、その後は神を蔑にし、その結果惨めな死を迎えます。

神のみを信仰してその祝福を受けていた時は周囲からも尊敬されていたイスラエルは、自分たちの幸福、富を
目当てにして願った王制を手にしたものの、それによって幸福になったとは言えませんでした。

では、神は何故民の求めを受け入れたのでしょうか・・・・・
神の思いは私達人間の思いをはるかに超えていますから、それを推し量ることはできません。
人類全体の救いへの御計画(イエスをこの世に遣わされ、人類を救う)のうちにあったことなのでしょう。

聖書のこの箇所を何度も読みました。
神の祝福を退け自分たちの幸福のみを求めたイスラエルを、神は悲しみを持って御覧になったのではないでしょうか。
しかし、こうなっても神はイスラエルを見捨てることはしませんでした。

神は、暴走する車を運転するイスラエルの民(私達、人間)の隣に座り、人間の全ての苦しみを、
私たちと共に味わうべく滅びに向かう車に同乗されたのではないかと考えました。

神は私たちを説得し続け、私たちを安全な場所に降ろし、御自分は壁に激突されたのではないでしょうか。 
(イエスの十字架の死)

新約のマリアとマルタ姉妹の話でも分かりますが、私たちにとって必要なことはただ一つ、
神を神としその御言葉に耳を傾けること、神からの祝福のみが大切だと知ることです。
                                          (以上、文責はゆうゆうにあります。)



公園のカイツブリが今頃卵を産み始めました。
寒さに向かう(であろう)これから抱卵、子育てでしょうか。


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「魂を注ぎ出す祈り」

2013-10-12 17:27:25 | 「先週の講壇より」
  9月29日の礼拝説教の一部が「先週の講壇より」として週報に載りました。
  テキストは「サムエル記」1章9節~20節 タイトルは「魂を注ぎ出す祈り」でした。

  

私は毎週礼拝説教をお聴きすると、なるべくその日に要約をこのブログに載せるようにしています。
上田先生の説教は、この「先週の講壇より」に載っている説教の一部を読むだけでもわかりますが、
力強くて格調高く、一言一言に神様の御旨(みむね)が込められています。

読むたびに、未熟で消化不良な私の説教要約、メッセージをきちんと聞き取れていない要約を削除したくなります。
ご勘弁ください。 m(_ _)m

上田先生の説教の全文が美竹教会のホームページ「9.説教集」に載っています。
是非是非、お読みください。



タイワンホトトギスの花蜜を吸う<ホシホウジャク>
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