防ぎようのない自然災害、病気、事故などの不条理、愚かな人間の作り出す
争い、虐待、差別、貧困、地球規模の汚染など不幸な出来事は後を絶ちません。
7月29日の「折々のことば」を大切にとってあります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/75/b1/3ec7f62c84a737472c4388aa02dc1d55.jpg)
「存在は与えられているのであり、いつ奪われてもおかしくない。」
そうなのだ!と、この世の不条理を私なりに納得できる「ことば」でした。
私達は神様に命を与えられて今、ここにいます。私達は神様に造られた者です。
「わが生けるは主にこそよれ、憂いも悩みもまた主のため」(讃美歌337番)
H.S.クシュナーという人の「なぜ私だけが苦しむのかー現代のヨブ記―」という本のことを知りました。
彼はユダヤ教のラビで、彼の息子は3歳で難病が見つかり14歳で亡くなりました。
何故わたしが、何故罪のない息子が苦しむのか、神の救いをひたすら願い、神はどこにおられるのか
問い続けました。善良で神を信じている人々が何故不幸な目に合うのか、神が世の中を創ったとしたら、
なぜ善良な人々が苦しまなければならないのか。
クシュナーは神を信じるものとして神の存在を否定はできない、その中で、なぜ自分が苦しむのかを
真摯に考えた末「私は神の限界を認識している」と語るそうです。
彼は、不条理としか言いようのない天災、苦難、病気などの問題は人間の罪、赦し、贖いとの関わり
において解決できる問題ではない、神は自然界の法則に中に介入することはおできにならない、
つまり「無力」であられると結論します。
そして「神は病気も事故も天災も止める力はありません、しかし人に、その困難や辛さに耐えて生きる
勇気を与えてくださる。神は苦しみ悲しむ者とともにある」と語ります。
私達を、この世界を創造された神様の御心は那辺にあるのか、被造物である私たちがそれを知ることは
できるのでしょうか。私は、神様の本当の御心はなにか、御心に叶う行いとはどうすることなのか、
わかりません。神様と真摯に向き合ったことが無いかもしれない私、専門的なことを何も知らない私には
クシュナーのように神様が無力だと言うこともできません。ひょっとしたら、この温暖化も人心の荒廃も
自然災害も実は神様の本当の御心なのかもしれない、と思って(疑って?)しまう時もある程に、神様の
御心は私には計り知れないのです。
そんな私ですが、毎日一生懸命(時々は眠気に襲われながら)願い事や悩み苦しみを神様に祈っています。
神様はすべてを統治なさっている、私たちの望むものはすでに神様はご存知だ、と聖書に書かれていても、
同じようなことでも毎日神様に祈らずにはいられません。
それはなぜか、それはクシュナーの言われるように、神様は常に私と共にいてくださるからだと思います。
神様に祈ることによって与えられる平安、勇気、慰めは私には計り知れない恵みです。
私のそばにいつもいてくださるのは神様だけです。
これから先、自分の身に激しく厳しい試練や苦しい現実が襲った時、これを御心と受け入れ、祈りつつ
主に従って行けるのか、全く自信はありませんが、今はただただ聖書を読み、聖書に訊くこと、祈ることを
心がけて生きていきたいと願っています。
今、旧約聖書は「コヘレトの言葉」を読んでいます。
今日の聖句、これまた恐ろしいです。
「コヘレトの言葉」4章2節~3節
すでに死んだ人を、幸いだと言おう。
さらに生きて行かなければならない人よりは幸いだ。
いや、その両者よりも幸福なのは、生まれて来なかった者だ。
太陽の下に起こる悪い業を見ていないのだから。 ウ~ム (-_-;)
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0c/16/fed1f5d931a5f1f8871e5ca60cb47ad5.jpg)
青い<カラスウリ>の実を見るととても嬉しい・・・・
争い、虐待、差別、貧困、地球規模の汚染など不幸な出来事は後を絶ちません。
7月29日の「折々のことば」を大切にとってあります。
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「存在は与えられているのであり、いつ奪われてもおかしくない。」
そうなのだ!と、この世の不条理を私なりに納得できる「ことば」でした。
私達は神様に命を与えられて今、ここにいます。私達は神様に造られた者です。
「わが生けるは主にこそよれ、憂いも悩みもまた主のため」(讃美歌337番)
H.S.クシュナーという人の「なぜ私だけが苦しむのかー現代のヨブ記―」という本のことを知りました。
彼はユダヤ教のラビで、彼の息子は3歳で難病が見つかり14歳で亡くなりました。
何故わたしが、何故罪のない息子が苦しむのか、神の救いをひたすら願い、神はどこにおられるのか
問い続けました。善良で神を信じている人々が何故不幸な目に合うのか、神が世の中を創ったとしたら、
なぜ善良な人々が苦しまなければならないのか。
クシュナーは神を信じるものとして神の存在を否定はできない、その中で、なぜ自分が苦しむのかを
真摯に考えた末「私は神の限界を認識している」と語るそうです。
彼は、不条理としか言いようのない天災、苦難、病気などの問題は人間の罪、赦し、贖いとの関わり
において解決できる問題ではない、神は自然界の法則に中に介入することはおできにならない、
つまり「無力」であられると結論します。
そして「神は病気も事故も天災も止める力はありません、しかし人に、その困難や辛さに耐えて生きる
勇気を与えてくださる。神は苦しみ悲しむ者とともにある」と語ります。
私達を、この世界を創造された神様の御心は那辺にあるのか、被造物である私たちがそれを知ることは
できるのでしょうか。私は、神様の本当の御心はなにか、御心に叶う行いとはどうすることなのか、
わかりません。神様と真摯に向き合ったことが無いかもしれない私、専門的なことを何も知らない私には
クシュナーのように神様が無力だと言うこともできません。ひょっとしたら、この温暖化も人心の荒廃も
自然災害も実は神様の本当の御心なのかもしれない、と思って(疑って?)しまう時もある程に、神様の
御心は私には計り知れないのです。
そんな私ですが、毎日一生懸命(時々は眠気に襲われながら)願い事や悩み苦しみを神様に祈っています。
神様はすべてを統治なさっている、私たちの望むものはすでに神様はご存知だ、と聖書に書かれていても、
同じようなことでも毎日神様に祈らずにはいられません。
それはなぜか、それはクシュナーの言われるように、神様は常に私と共にいてくださるからだと思います。
神様に祈ることによって与えられる平安、勇気、慰めは私には計り知れない恵みです。
私のそばにいつもいてくださるのは神様だけです。
これから先、自分の身に激しく厳しい試練や苦しい現実が襲った時、これを御心と受け入れ、祈りつつ
主に従って行けるのか、全く自信はありませんが、今はただただ聖書を読み、聖書に訊くこと、祈ることを
心がけて生きていきたいと願っています。
今、旧約聖書は「コヘレトの言葉」を読んでいます。
今日の聖句、これまた恐ろしいです。
「コヘレトの言葉」4章2節~3節
すでに死んだ人を、幸いだと言おう。
さらに生きて行かなければならない人よりは幸いだ。
いや、その両者よりも幸福なのは、生まれて来なかった者だ。
太陽の下に起こる悪い業を見ていないのだから。 ウ~ム (-_-;)
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青い<カラスウリ>の実を見るととても嬉しい・・・・
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