ゆうゆうの教会便り

私の教会のこと、教会生活をボチボチと・・・・

「折々のことば」から

2019-08-24 11:51:08 | その他
防ぎようのない自然災害、病気、事故などの不条理、愚かな人間の作り出す
争い、虐待、差別、貧困、地球規模の汚染など不幸な出来事は後を絶ちません。

7月29日の「折々のことば」を大切にとってあります。

「存在は与えられているのであり、いつ奪われてもおかしくない。」
そうなのだ!と、この世の不条理を私なりに納得できる「ことば」でした。
私達は神様に命を与えられて今、ここにいます。私達は神様に造られた者です。
「わが生けるは主にこそよれ、憂いも悩みもまた主のため」(讃美歌337番)

H.S.クシュナーという人の「なぜ私だけが苦しむのかー現代のヨブ記―」という本のことを知りました。
彼はユダヤ教のラビで、彼の息子は3歳で難病が見つかり14歳で亡くなりました。
何故わたしが、何故罪のない息子が苦しむのか、神の救いをひたすら願い、神はどこにおられるのか
問い続けました。善良で神を信じている人々が何故不幸な目に合うのか、神が世の中を創ったとしたら、
なぜ善良な人々が苦しまなければならないのか。
クシュナーは神を信じるものとして神の存在を否定はできない、その中で、なぜ自分が苦しむのかを
真摯に考えた末「私は神の限界を認識している」と語るそうです。
彼は、不条理としか言いようのない天災、苦難、病気などの問題は人間の罪、赦し、贖いとの関わり
において解決できる問題ではない、神は自然界の法則に中に介入することはおできにならない、
つまり「無力」であられると結論します。
そして「神は病気も事故も天災も止める力はありません、しかし人に、その困難や辛さに耐えて生きる
勇気を与えてくださる。神は苦しみ悲しむ者とともにある」と語ります。

私達を、この世界を創造された神様の御心は那辺にあるのか、被造物である私たちがそれを知ることは
できるのでしょうか。私は、神様の本当の御心はなにか、御心に叶う行いとはどうすることなのか、
わかりません。神様と真摯に向き合ったことが無いかもしれない私、専門的なことを何も知らない私には
クシュナーのように神様が無力だと言うこともできません。ひょっとしたら、この温暖化も人心の荒廃も
自然災害も実は神様の本当の御心なのかもしれない、と思って(疑って?)しまう時もある程に、神様の
御心は私には計り知れないのです。

そんな私ですが、毎日一生懸命(時々は眠気に襲われながら)願い事や悩み苦しみを神様に祈っています。
神様はすべてを統治なさっている、私たちの望むものはすでに神様はご存知だ、と聖書に書かれていても、
同じようなことでも毎日神様に祈らずにはいられません。
それはなぜか、それはクシュナーの言われるように、神様は常に私と共にいてくださるからだと思います。
神様に祈ることによって与えられる平安、勇気、慰めは私には計り知れない恵みです。
私のそばにいつもいてくださるのは神様だけです。
これから先、自分の身に激しく厳しい試練や苦しい現実が襲った時、これを御心と受け入れ、祈りつつ
主に従って行けるのか、全く自信はありませんが、今はただただ聖書を読み、聖書に訊くこと、祈ることを
心がけて生きていきたいと願っています。

今、旧約聖書は「コヘレトの言葉」を読んでいます。
今日の聖句、これまた恐ろしいです。
「コヘレトの言葉」4章2節~3節

すでに死んだ人を、幸いだと言おう。
さらに生きて行かなければならない人よりは幸いだ。
いや、その両者よりも幸福なのは、生まれて来なかった者だ。
太陽の下に起こる悪い業を見ていないのだから。
   ウ~ム (-_-;) 

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青い<カラスウリ>の実を見るととても嬉しい・・・・
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