ゆうゆうの教会便り

私の教会のこと、教会生活をボチボチと・・・・

「ロトを救う神」

2013-05-26 22:07:34 | 説教
今日の説教、テキストは「創世記」19章15節~26節 でした。

夜が明けるころ、御使いたちはロトをせきたてて言った。「さあ早く、あなたの妻とここにいる二人の娘を連れて行きなさい。
さもないと、この町に下る罰の巻き添えになって滅ぼされてしまう。」ロトはためらっていた。
主は憐れんで、二人の客にロト、妻、二人の娘の手をとらせて町の外へ避難するようにされた。
彼らがロトたちを町はずれへ連れ出したとき、主は言われた。「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない。
低地のどこにもとどまるな。 山へ逃げなさい。さもないと、滅びることになる。」
ロトは言った。「主よ、できません。あなたは僕に目を留め、慈しみを豊かに示し、命を救おうとしてくださいます。
しかし、わたしは山までは逃げ延びることはできません。おそらく、災害に巻き込まれて、死んでしまうでしょう。
御覧ください、あの町を。 あそこなら近いので、逃げて行けるとおもいます 。あれは小さな町です。 あそこへ逃げさせてください。
あれはほんの小さな町です。 どうか、そこでわたしの命を救ってください。」

主は言われた。「よろしい。 そのこともあなたの願いを聞き届け、あなたの言うその町は滅ぼさないことにしよう。 急いで逃げなさい。
あなたがあの町に着くまでは、わたしは何も行わないから。」
そこで、その町はツォアル(小さい)と名付けられた。
太陽が地上に昇ったとき、ロトはツォアルに着いた。主はソドムとゴモラの上に天から、主のもとから硫黄の火を降らせ、
これらの町と低地一帯を、町の全住民、地の草木もろとも滅ぼした。ロトの妻は後ろを振り向いたので、塩の柱になった。



当時の繁栄の町、ソドムとゴモラの住民たちは神の目に悪とみられる行為を行い、神を神とせず、被造物を礼拝し悔い改めませんでした。
そこではロト一人が神の目に善しとされる義人でした。
(被造物の礼拝とは偶像崇拝だけでなく、人、物、金、地位、病、死などに心奪われることを意味しています。)

二つの町に罰を下すことを決めた神は、ロトの家族だけは救おうとロトに夜明けまで山に逃れるように言います。
ロトは中途半端というか、優柔不断というか、あれこれ言ってなかなか逃げようとしませんでした。
(聖句の下線部分はゆうゆうが引きました。 ロトの我が儘ぶり、思わず笑ってしまいました。)

自分の思いを優先するロトの姿は私たちの信仰の手本にはならず、反省材料となります。

ソドムのような享楽の町で信仰を全うするのは困難なことでした。
しかし、今の日本でも私たちの神を神としない中途半端な生活は、ロトと自分を当てはめて考えることができます。

今日のテキストはロトではなく神がどのように手を尽くしてロトを救おうとなさったかが主題です。
神の罰ではなく救いと憐みがテーマです。

聖書にはこの後、アブラハムが煙のくすぶるソドム、ゴモラをみるシーンが続きます。
この時はまだ子もなく、貧しい天幕暮らしの老人アブラハムは滅ぼされた町をみて何を思ったでしょうか。
彼は神と共に生きる幸せを感謝したのではないでしょうか。
アブラハムの気持ちは決して「天罰が下った!」と勝ち誇るものではなかったはずです。
私達もソドム、ゴモラを見て、今、十字架のゆえに奇跡的に救われている自分を感謝いたしましょう。
                                                          (以上、文責はゆうゆうにあります。)




オモチャのようなカルガモの赤ちゃん


今日の美竹教会の礼拝では、献金の祈りに感激しました。
献金の祈りは「恵みへの感謝と献身の証しとして献金をささげます」と祈ります。
今日の当番の方はそれに加えて、今週手術を控えている方と、悲しみに打たれている方への
神さまからの慰めと励ましを祈りました。 兄弟姉妹が互いに思い合い祈りあう、嬉しいことです。
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