ゆうゆうの教会便り

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「御心に適った悲しみ」

2014-01-26 20:22:06 | 説教
今日の礼拝説教 テキストは「列王記下」20章1節~7節 と 「コリントの信徒への手紙二」7章10節
タイトルは「御心に適った悲しみ」でした。

物語は、死の病にかかり預言者イザヤを通して「あなたは死ぬことになっているから家族に遺言をしなさい」
という主の御言葉を告げられたユダの王ヒゼキヤの話です。

ヒゼキヤは顔を壁に向けて涙を流して「わたしがまことを尽くし、ひたむきな心を持って御前を歩み御目にかなう
善いことを行ってきたことを思い起こしてください。」と主に祈りました。
「わたしはあなたの祈りを聞き、涙を見た。 わたしはあなたをいやし、あなたは三日目に主の神殿に上れるだろう。
あなたの寿命を十五年延ばし、アッシリアの王の手からあなたとこの都を救い出す。
わたしはわたし自身のために、わが僕ダビデのために、この都を守り抜く」と主の言葉がすぐにイザヤに臨みました。
イザヤの言葉に従って干しいちじくを患部にあてるとヒゼキヤ王は回復しました。


ヒゼキヤはユダの王の中でも特別高く見られた王でした。
この物語を単なる奇跡物語ととることなく、ヒゼキヤの流した涙は悔い改めの涙であったことに注目したいと思います。

20章1節の「そのころ」とは、イスラエルがアッシリアから激しい攻撃を受けている時でした。
アッシリアは難攻不落と言われるエルサレムを取り囲んでいました。
それを目にしてヒゼキアは神に頼り切ることができずにシリアに貢物を運んだり、エジプトに援軍を頼んだりします。
アッシリア軍を前にしたヒゼキヤは神に祈りますが、その祈りは神に頼り切ることができないヒゼキヤの祈りでした。
ヒゼキヤの言葉、バビロンの使者への対応は弱い人間の限界でもありました。


しかし、死の病に侵された一人の弱い人間ヒゼキヤは泣きながらの祈りを通して、神の御心に沿うものに変えられ
永遠の救いにいれられました。
今日のテキストのポイントです。

神仏に頼ることは己の力を強めないものと日本の侍は思っていましたが、しかし、自分の力で何とかすることで
我々は思い上がってしまいます。
自分の力を過信し周囲への感謝も心に思うことがなくなります。

人間に悲しみはつきもので、そのことに泣くこともありますが、ヒゼキヤのように神に祈ること、それは神を信じることです。
一日一日を与えられているのは神の賜物で、人間(自分)の力だと思うのは間違いです。
自分が強いか弱いかは問題ではありません。 大切なのは神を主としているかどうかです。

哀しみも神の御心に沿ったものと考え祈り続けると、いつか神への感謝となります。
神はわたしたちを愛し、どんな祈りにも耳を傾けてくださいます。
限りなく憐み深く、十字架によって私たちの罪を贖ってくださった主イエスの御名によって祈る、その祈りを
神は心を込めて聞いてくださいます。

「ヒゼキヤは祈り、変えられた」のです。             (以上、文責はゆうゆうにあります。)



公園の<シジュウカラ> 
今シーズンははこんな普通種の野鳥も数少く、ちょっと不・気・味です。


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