6月8日(日) ペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝の説教は
テキストは「イザヤ書」42章5節~7節 「使徒言行録」9章1節~9節 タイトルは「回心」でした。
他の二つに比べるとあまり騒がれませんが、ペンテコステはクリスマス、イースターとともにキリスト教の三大祭です。
ペンテコステは聖霊が下った日、教会の誕生日です。
では、聖霊とは何か、どう受け止めればよいのか、聖霊降臨とは私たちにとってどういう事なのか、今一つ、
分かり難いものがあるかもしれません。
今日のテキストで、シリアのダマスコにキリスト教徒迫害に勇んで向かっていたパウロは、信仰の中核を
フィーリングや捉えどころの無い感情ではなく、言葉で明確に伝えることの出来た人でした。
例えば、パウロによって明確な言葉として表わされたキリスト教の本意「信仰義認」もそうです。
反対の言葉「行為義認」は、聖書で認められた義を行うことによって救われるというものです。
しかし「信仰義認」はキリストを主と信じることでのみ救われる、救いは自らの手で獲得するものでは決してなく、
罪の深み、死の深みまで下って復活されたイエスを信じ、告白する人が救われるというのです。
そしてその告白は聖霊の働きなしには為し得ません。 (「ローマの信徒への手紙」3:21~ )
聖霊とはなんでしょう。 聖霊には「風」という意味があります。 聖なる風です。
私たちには風はみえませんが、風が通ったあと、木の葉が散ったり水面が波だったりする、風のもたらす作用を
見ることはできます。
聖霊も定義は難しいですが、それがもたらしたものを後付けで見ることができます、
聖霊に依らなければ誰もイエスを救い主であるとは言えません。
私たちの魂に響くのは聖霊に依るしかありえません。
パウロはたくさんの手紙を残していますが、パウロの経験に基づくパウロの言葉は、
真実に基づいた言葉であると、私は確信しています。
ダマスコに向かうこの時まで、パウロは自らの信じる神を一途に信じ、確信を持って自信を持って
イエスの弟子たちを迫害してきました。
2節の「この道に従う者」とはイエスをキリストと信じる人々のことです。
「道」という言葉は、「剣道、茶道、華道」と言われますが、極め、極めてその人の人格を形成するまでに至るものです。
パウロもまた、自分の信念を貫き守り続けた「道」をしっかりと持っていました。
ダマスコへの途上でパウロの道と「この道に従う者」の道が激しく行き逢いました。
私たちの今にも、二つの道がせめぎ合うことがあると思います。
日本キリスト教団「駒場エデン教会」の牧師であり、剣道家で小野派一刀流第17代宗家でもある笹森建美氏はその著書
「武士道とキリスト教」の中で、この二つの道は矛盾するものではなく、どちらも人の生き方、死に方を極める道である。
いかに生きるかによって死を、いかに死ぬかによって生を問うていると書いています。
“日本キリスト教”を主張した内村鑑三は「接ぎ木」と表現し、武士道にキリスト教を接ぎ木すると言いました。
AにBを接ぎ木することにより、Bは一人の人間のなかでより強く立派に育ちます。
パウロも「接ぎ木」の考え方を持っていましたが、キリストを元の木、Aと表しました。
異邦人が接ぎ木され、信仰の芽を吹き、生き返らされると言いました。
キリストと言う根を持つ幹に接ぎ木され枝を張る私たち。
私たちの道がいったん断ち切られ、キリストに接ぎ木され、その根から養分を受けて新しい枝となり、
新しい生き方を通して豊かな実りを結ぶ、一度私たちの生は途切れさせられているのです。
テキストでイエスが応えられた「わたしは○○○である。」という言い方は
パウロの生きてきた聖書の中では神のみが使う特別な言い方でした。
パウロは自らが知っている神「わたしは○○○である」と語る真実の神から、おのれの過ちを知らされました。
わたしはイエスである・・・・・
この時、パウロの生きてきた道が破たんし、パウロはこれまで信じて来た道が根底から覆される衝撃を味わったのです。
しかも、神はパウロを糾弾するのではなく、罰するのでもなく「起きて町に入れ。
そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」とキリストを伝える道に向かわされたのです。
ダマスコのイエスの弟子たちは最初は迫害者パウロを疑ったかもしれませんが、
主の呼びかけに従ってパウロに「兄弟サウル・・・」と話しかけました。
パウロは「イエスは我が救い主」と告白して洗礼を受け、この人こそ神!としました。
キリストの根に接ぎ木され、新たに豊かにされたパウロの働きは大きなものでした。
聖霊の働きは具体的なものです。
感情や直観的なものではなく(勿論、そういうものもあるかもしれませんが)見えなかったものが見えてくる、
理解できなかったことが分かってくるという具体的なものなのです。
聖霊は使徒信条の中にあるように「聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、体の甦り、永遠の命を信じる」所に生きていて、
固まっていた塊が少しずつ溶けて命の泉があふれてきます。
絶望の向こうにキリストの希望が見えてくる、それが聖霊の働きで、今もここに、この教会にも働いています。
(以上、文責は“ゆうゆう”にあります。)
左近先生の説教は、お聞きしていると、目の前にその情景が映し出されるような気持ちになります。
「サウル(パウロのこと)、サウル、なぜわたしを迫害するのか。」と呼びかけるイエス、
パウロを疑いながらも主に従って「兄弟、サウル・・・・」とパウロに呼びかけるアナニヤ・・・・・
2000年昔の出来事が眼前に見えるような気分がしてきます、何なのでしょうね~
楽しい(言葉使い、間違ってますね(^^;) というか、心が引き込まれます。
どうぞ、ぜひ、美竹教会にいらして、左近先生のお説教を聴いてみてください!
私の要約は的も外れているかも知れないし、引用や解釈が間違っているかもしれません。 m(_ _)m
それを確かめるためにも(笑)ぜひ、ライブで左近先生の説教を聴きにいらしてくださりませ。
コゲラの(♂)です。
(♂)は興奮したり、風が吹くと頭頂の赤い羽毛が見えることがあります。
美竹教会のホームページです、クリックしてお訪ねください
テキストは「イザヤ書」42章5節~7節 「使徒言行録」9章1節~9節 タイトルは「回心」でした。
他の二つに比べるとあまり騒がれませんが、ペンテコステはクリスマス、イースターとともにキリスト教の三大祭です。
ペンテコステは聖霊が下った日、教会の誕生日です。
では、聖霊とは何か、どう受け止めればよいのか、聖霊降臨とは私たちにとってどういう事なのか、今一つ、
分かり難いものがあるかもしれません。
今日のテキストで、シリアのダマスコにキリスト教徒迫害に勇んで向かっていたパウロは、信仰の中核を
フィーリングや捉えどころの無い感情ではなく、言葉で明確に伝えることの出来た人でした。
例えば、パウロによって明確な言葉として表わされたキリスト教の本意「信仰義認」もそうです。
反対の言葉「行為義認」は、聖書で認められた義を行うことによって救われるというものです。
しかし「信仰義認」はキリストを主と信じることでのみ救われる、救いは自らの手で獲得するものでは決してなく、
罪の深み、死の深みまで下って復活されたイエスを信じ、告白する人が救われるというのです。
そしてその告白は聖霊の働きなしには為し得ません。 (「ローマの信徒への手紙」3:21~ )
聖霊とはなんでしょう。 聖霊には「風」という意味があります。 聖なる風です。
私たちには風はみえませんが、風が通ったあと、木の葉が散ったり水面が波だったりする、風のもたらす作用を
見ることはできます。
聖霊も定義は難しいですが、それがもたらしたものを後付けで見ることができます、
聖霊に依らなければ誰もイエスを救い主であるとは言えません。
私たちの魂に響くのは聖霊に依るしかありえません。
パウロはたくさんの手紙を残していますが、パウロの経験に基づくパウロの言葉は、
真実に基づいた言葉であると、私は確信しています。
ダマスコに向かうこの時まで、パウロは自らの信じる神を一途に信じ、確信を持って自信を持って
イエスの弟子たちを迫害してきました。
2節の「この道に従う者」とはイエスをキリストと信じる人々のことです。
「道」という言葉は、「剣道、茶道、華道」と言われますが、極め、極めてその人の人格を形成するまでに至るものです。
パウロもまた、自分の信念を貫き守り続けた「道」をしっかりと持っていました。
ダマスコへの途上でパウロの道と「この道に従う者」の道が激しく行き逢いました。
私たちの今にも、二つの道がせめぎ合うことがあると思います。
日本キリスト教団「駒場エデン教会」の牧師であり、剣道家で小野派一刀流第17代宗家でもある笹森建美氏はその著書
「武士道とキリスト教」の中で、この二つの道は矛盾するものではなく、どちらも人の生き方、死に方を極める道である。
いかに生きるかによって死を、いかに死ぬかによって生を問うていると書いています。
“日本キリスト教”を主張した内村鑑三は「接ぎ木」と表現し、武士道にキリスト教を接ぎ木すると言いました。
AにBを接ぎ木することにより、Bは一人の人間のなかでより強く立派に育ちます。
パウロも「接ぎ木」の考え方を持っていましたが、キリストを元の木、Aと表しました。
異邦人が接ぎ木され、信仰の芽を吹き、生き返らされると言いました。
キリストと言う根を持つ幹に接ぎ木され枝を張る私たち。
私たちの道がいったん断ち切られ、キリストに接ぎ木され、その根から養分を受けて新しい枝となり、
新しい生き方を通して豊かな実りを結ぶ、一度私たちの生は途切れさせられているのです。
テキストでイエスが応えられた「わたしは○○○である。」という言い方は
パウロの生きてきた聖書の中では神のみが使う特別な言い方でした。
パウロは自らが知っている神「わたしは○○○である」と語る真実の神から、おのれの過ちを知らされました。
わたしはイエスである・・・・・
この時、パウロの生きてきた道が破たんし、パウロはこれまで信じて来た道が根底から覆される衝撃を味わったのです。
しかも、神はパウロを糾弾するのではなく、罰するのでもなく「起きて町に入れ。
そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」とキリストを伝える道に向かわされたのです。
ダマスコのイエスの弟子たちは最初は迫害者パウロを疑ったかもしれませんが、
主の呼びかけに従ってパウロに「兄弟サウル・・・」と話しかけました。
パウロは「イエスは我が救い主」と告白して洗礼を受け、この人こそ神!としました。
キリストの根に接ぎ木され、新たに豊かにされたパウロの働きは大きなものでした。
聖霊の働きは具体的なものです。
感情や直観的なものではなく(勿論、そういうものもあるかもしれませんが)見えなかったものが見えてくる、
理解できなかったことが分かってくるという具体的なものなのです。
聖霊は使徒信条の中にあるように「聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、体の甦り、永遠の命を信じる」所に生きていて、
固まっていた塊が少しずつ溶けて命の泉があふれてきます。
絶望の向こうにキリストの希望が見えてくる、それが聖霊の働きで、今もここに、この教会にも働いています。
(以上、文責は“ゆうゆう”にあります。)
左近先生の説教は、お聞きしていると、目の前にその情景が映し出されるような気持ちになります。
「サウル(パウロのこと)、サウル、なぜわたしを迫害するのか。」と呼びかけるイエス、
パウロを疑いながらも主に従って「兄弟、サウル・・・・」とパウロに呼びかけるアナニヤ・・・・・
2000年昔の出来事が眼前に見えるような気分がしてきます、何なのでしょうね~
楽しい(言葉使い、間違ってますね(^^;) というか、心が引き込まれます。
どうぞ、ぜひ、美竹教会にいらして、左近先生のお説教を聴いてみてください!
私の要約は的も外れているかも知れないし、引用や解釈が間違っているかもしれません。 m(_ _)m
それを確かめるためにも(笑)ぜひ、ライブで左近先生の説教を聴きにいらしてくださりませ。
コゲラの(♂)です。
(♂)は興奮したり、風が吹くと頭頂の赤い羽毛が見えることがあります。
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