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2006中国・延吉で朝鮮族の住み方調査=東は作業空間、中~西が床暖房の家族室~寝室

2017年03月23日 | 旅行

2006 中国・吉林省延吉の朝鮮族 /2006.9

 延吉は中国北東部、吉林省延辺朝鮮族自治州の都市で、北緯は札幌とほぼ同じくらいのおよそ43°である。北朝鮮の国境が近く、早くから朝鮮族が住んでいた。
 幸い、N大学の留学生が延吉出身であり、3年秋学期からのゼミにO研究室を志望したことから調査が具体化した。O研究室では留学生を含む9名の院生・学生が参加し、16日から延吉郊外の調査に入ることになった。
 私は、16-17日に農村計画学会があるため、19日出発になった。同行学生は4年1人。成田を朝出発し、昼ごろに北京に着く。乗り換えまで5時間もあるため北京の知人にお願いし、天安門付近などを駆け足で見て回る。
 2008年開催のオリンピックに向けた整備が急ピッチのようで、およそ5年前の北京よりも明るく整った感じである。
 夕方に空港に戻り、延吉に向かう。ほぼ満席で、耳を傾けるとハングルのようである。夜半に延吉に着く。O先生の出迎えで、ホテルにチェックイン。やはり中国語とハングルが併記されていて、朝鮮族の町をうかがわせる。O先生、共同研究者の1人であるO大学・R先生と、現地調査の様子について情報交換を行った。

 翌20日から24日まで、延吉市郊外の中泉坪を対象集落とする民家の空間構成に関する観察調査と住み方に関する聞き取り調査を実施した。
 中泉坪は延吉中心部から南西に車でおよそ1時間、北朝鮮の国境に添った集落で、東側には北朝鮮の山並みが連なる(写真、遠くの山並みが北朝鮮)。朝鮮族から見れば、故郷の見える地ということになろう。
 中泉坪に朝鮮族が住み始めたのは満州王朝時代に米を献上した頃との聞き取りもあったが、裏付ける記録は少ない。O大学R教授の検証を待ちたい。
 古老の聞き取りでは3代前からここに住んでいるとのことであった。現在の戸数は56、うち55戸が朝鮮族、1戸は漢族だが妻は朝鮮族で、集落は朝鮮族で占められているといえる。

 主たる生業は稲作で、調査中、集落で昼食を毎日取ったが米の味はいい。満州王朝に献上した話しがうなずける。
 周辺は一面に稲穂が広がり、豊かさを感じさせる。しかし、現金収入がほかにないためか若者の市街地流出が進んでいるようで、かつては105戸ほどだったがいまや半減である。

 北朝鮮の国境は川であり、その支流から用水を得ているそうだが、洪水による被害のたびに少し高い土地の方へ移転する住戸が出ているうえ、中国政府による区画整理がすすみ、およそ東西25m×南北20mの敷地が整然と並ぶ集落形になっている。
 母屋は東西10m弱、南北5m弱が一般で、敷地北側に建ち、南側を菜園にする。接 道位置・アプローチにかかわらず、母屋は東に倉庫ウサバンとかつての牛小屋ウサガン、続いて中ほどにジョンジ、西側に上の部屋ウッパン、小さい部屋コバンの構成を取り、これを六間屋と呼んでいる(写真、民家を改装した老人会館、手前青い板の下がカマドの焚き口)。

 規模の大きい母屋は、ジョンジの次にウッパン、アレコバン、西側にハヌッパン、ウッコバンが並び、八間屋と呼ばれている。強いていえば、東:作業空間、中:家族空間、西:寝室など奥空間となるが、まだ確証はない。
 ジョンジには床下を80cmほど掘り下げて焚き口アグンイを設け、ここにかまどを設置し、炊事用の廃熱を床暖房に利用する仕掛けになっている。
 韓国のオンドルと発想は共通するが、形態は大きく異なる。韓国の民家を特徴づけるデチョン(またはマル)もなく、母屋は閉じた空間構成をとっている。寒さが厳しいことが理由であろう。冬になると1日に数回、かまどに火を入れるそうだ。

 集落の人々は総勢13名になる私たちを歓迎してくれ、調査にも好意的に協力をしてくれた。大いに感謝したい。

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