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2017鎌倉七福神+江ノ島を歩く① 北鎌倉駅から浄智寺+布袋尊を経て鶴岡八幡宮+弁財天へ

2017年03月22日 | 旅行

2017年1月19~20日 鎌倉七福神+江ノ島を歩く ①
 鎌倉の七福神もよく知られているそうだ。今年は日本橋七福神、与野七福神に続き、鎌倉七福神も出かけることにした。2017年1月某日、湘南ラインに乗り北鎌倉駅で降りた。およそ1時間半の乗車だから、ずいぶんと便利になった。新宿渋谷を過ぎるころから空席が目立ってきた。横浜あたりになると、ほとんどが日帰り旅を楽しむシルバーになった。
 2008年にも鎌倉古都巡りをしていて、そのときは鎌倉駅から歩き始めて北鎌倉駅に向かったが、今回は北鎌倉駅から鎌倉駅に向かうことにした。

北鎌倉駅から歩き始める
 11:12 北鎌倉駅から南に歩き始める。県道22号線は交通量が多いのに歩道がなく、歩きにくい。左手、湘南ライン・横須賀線の向こうの森の中に円覚寺の石段が見える。臨済宗円覚寺派の大本山である。2008年に教科書にも登場する国宝舎利殿を始めとする伽藍を見て回った。京都の貴族社会の寺院とは違い、武家社会の質実剛健を表す寺院としても知られる。が、今回は石段だけを眺め通り過ぎる。
 右手に臨済宗円覚寺派東慶寺の表示があった。説明板には、1285年北条時宗夫人の覚山志道尼が開祖した寺で、駆け込み寺として知られ、後醍醐天皇の皇女・用堂尼や豊臣秀頼の娘・天秀尼などが住職になった格式の高い禅寺だそうだ。鈴木大拙、高見順、西田幾多郎、前田青邨、小林秀雄、和辻哲郎などの墓があるとも記されていた。階段を上がった向こうに山門が見え、林の中に参道が伸びている。本堂にお参りし、奥の墓園まで足を伸ばしたが、かなり広い墓園で著名人の墓を見つけるのは難しそうなので戻った。

浄智寺/布袋尊
 11:40 通りから少し奥まって、臨済宗円覚寺派淨智寺の石橋、石段、三門が見える。杉林がこんもりとし、静かなたたずまいである。石橋のほとりに、鎌倉十井の一つとされる甘露の井の説明があった。鎌倉は山が深く、湧水に恵まれていたようだ。石段はすり減っていて、歴史を感じさせる。創建は13世紀末、 鎌倉幕府五代執権・北条時頼の三男・宗政が若く没したので八代執権・北条時宗が弟の菩提を弔うため建てた寺だそうだ。当初の伽藍は焼失し、,室町時代に再建され、関東大震災で倒壊し、再度、三門、2回に鐘楼を乗せた楼門、仏殿、方丈、客殿等が再建された。仏殿で阿弥陀如来、釈迦如来、弥勒菩薩に参拝したあと、矢印に沿ってぐるりと回り込むと、崖に洞窟があり、布袋尊像が祀られていた。 森閑としていて身が引き締まる。
 県道22号線に戻る。歩道が狭く肩身を狭くしながら下る。途中、左手に教科書で習った臨済宗建長寺派の大本山建長寺の堂宇が現れる。大勢の高校生が参拝を終えて出てきた。若いうちに、山あいの環境に伽藍を配置して静謐な祈りの空間を作る巧みさを実感できるのはとてもいい。ここも2008年に参観しているので、一礼し通過する。

鶴岡八幡宮/弁財天
 12:15 浄智寺からおよそ30分下ると、左に鶴岡八幡宮の階段が見えてくる。2008年には鎌倉駅から参道を上って、参拝後、建長寺に向かったが、今回は逆コースになる。階段を上がると本殿の側面に出る。参道を上らず、鳥居もくぐらず、手水舎で清めず参拝するのは不作法かも知れないが、今回は七福神巡りだからご容赦してもらうことにして、念のため、本宮に参拝する。
 平日でもかなりの人出で賑わっていた。本宮内は撮影禁止の張り紙が貼ってあったが、気づきにくいためか、本格的なカメラをじっくり構えて撮影する人、スマホで気軽に撮影する人が絶えない。鮮やかな彩色、躍動的な彫刻で仕上げられた名建築だし、撮影ぐらいで建築の老朽化が進むわけではないから撮影可でも構わないと思う。

 八幡宮の歴史は1063年にさかのぼる。河内国の河内源氏2代・源頼義(988-1075)はかなり武勇に優れた人だったらしい。1030年代に相模守になったとき、鎌倉の地を譲り受ける。陸奥守のとき前九年の役が起こるが、戦の前に京都の石清水八幡宮・・2016京都を歩く参照・・に加護を祈念して勝利する。頼義は鎌倉・由比ヶ浜ほかに八幡宮を勧請した。
 河内源氏の後裔・源頼朝(1147-1199)は平家打倒の挙兵のとき鎌倉を本拠とし、八幡宮を現在地に移して、社殿を中心に幕府の体制を整えた。戦国時代に焼き討ちにあうが、再建され、江戸幕府の庇護を受けて造営が進んだ。11代将軍徳川家斉(1773-1841)は本宮を流権現造りで再建させている。

 流権現造りは「・・2008鎌倉を行く転載・・流造り+権現造り分解できる。流造りは、平入りの屋根を前面に長く伸ばした屋根形式で、神社仏閣の正面入口に用いられ、向拝の場とすることが多い。権現造りは、拝殿と本殿を石の間で連結し、屋根を一体的にかけた造り方である」。側面から見ると、右手前が流れ造りの拝殿、拝殿+右奥の本殿が権現造りになる。
 参拝を済ませてから、拝殿の彫刻を眺める。雀を追う鷹?、木鼻の牡丹?や獅子、蛙又の鳥、兎、馬、虎・・の彫刻は色も鮮やかで立体的である。題材は東西南北、鬼門などと関係しているかも知れない、が説明はどこにもない。2楼の桜門を通って本宮を出る。真下に参道が伸びていて、見晴らしがいい。すばらしい立地を見つけた頼朝は知略に長けていたことが分かる。右下に大銀杏の跡、正面下に朱色の鮮やかな舞殿が見えるが、七福神の弁財天が分からない。
 大石段を降り、参道に向かうと、左手に源氏池があり、小島に朱塗りの社があった。源頼朝が源氏復興の旗上げの際にお告げを授けたとの伝承があり、旗上弁財天と呼ばれている。
 弁財天像は国宝館に安置されていて、この社にはないらしい。弁財天のいない社にお参りし、参道に戻る。参道の反対側には平家池があり、源氏池には3つの小島、平家池には4つの小島があるそうだ。3は産に通じ発展、4は死に通じ滅亡を意味するとか。源ゆかりの八幡宮だからこんな言い伝えがあるのだろうが、源平合戦のみんなはすでに天に去っている。いまや仲良く共存共栄を目指すべきであろうから、3=産とか4=死の意味づけは止めた方がいいと思う。

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