<日本の旅・神奈川を歩く> 鎌倉を行く2 2008.11 建長寺/総門 三門 仏殿 法堂 唐門
鶴岡八幡宮本宮を出て西に回り、階段を下りると、建長寺に向かう県道20号線=横浜鎌倉線=通称鎌倉街道に出る。かつて山を切り開き道を作り出した切り通しが前身だから歴史を偲べる道でもある。ところが、鶴岡八幡宮~建長寺を歩く人が意外と多いのに歩道は狭く、車の往来が激しい。
途中に神奈川県立近代美術館別館(写真、1984年開館、大髙正人(1923-2010)設計)や、かつての切り通しを連想させる崖地が現れるが、ひっきりなしの車の往来はイメージを損ね、危険でもある。
こうした古都では、思い切ってどこかに駐車場を設け、その先は徹底して歩くか自転車か公共輸送に切り替えるパーク&ライドしかないのではないだろうか。
上り下り、左右のカーブの鎌倉街道を20分ほど歩くと、建長寺総門が大げさに構えている(写真)。
正式には巨福山(こふくさん)建長興国禅寺という臨済宗のお寺で、建長5年1253年、鎌倉幕府5代執権北条時頼が建立した。寺院の格式の一つに五山があり、建長寺は鎌倉五山の第1位である・・2位円覚寺、3位寿福寺、4位浄智寺、5位浄妙寺・・。
初めての訪問だが、教科書で習った記憶もあり、日本建築史で円覚寺とあわせ鎌倉・室町時代の禅宗様の代表的建造物として勉強したので始めての気がしない。
飛鳥・奈良時代に仏教とともに中国・唐から伝えられた寺院の建築様式は、平安時代を経るに従い日本化され、細身の柱、低めの天井、穏やかな木組が平安貴族に好まれた。平安時代後期になると、中国・宋から禅宗とともに新たな建築様式が日本に伝わってきた。東大寺再建にはこの新たな建築様式を用いていて、のちにこれを大仏様と呼び、平安時代の建築様式を和洋と呼ぶようになった。
東大寺大仏殿そのものは江戸時代の再建であるが大仏様が踏襲されているし、東大寺南大門は創建時の大仏様をよく残している。その特徴は貫にあり、挿肘木とともに水平方向に何層にも重ね、軸組みを固めていく構造法が力強い印象を与える。
奈良・京都ではこうした建築様式は好まれなかったようで大仏様はその後衰退するが、質実剛健を本是とする鎌倉武士に禅宗が好まれ、鎌倉で禅宗建築が花開くことになる。この建築様式を禅宗様または唐様と呼ぶが、その一つが建長寺(創建1253-76)であった。
残念なことに1293年の大地震で多くの伽藍が倒壊し、再建されたが1315年、1416年を始めとする火災で創建時の建物を失う。江戸時代に徳川家の援助で再建、移築されたが、1923年の関東大震災で大きな被害を受けてしまう。禅宗様建築の面影を気にしながら総門で一礼する。
建長寺の伽藍は総門-三門-仏殿-法堂-方丈が北東-南西方向に並ぶ配置をとっている(伽藍配置web転載・加工)。直線的な配置も禅宗様の特徴である。もっとも、建長寺は両側に山が迫った立地のため、一直線の配置は必然ともいえる。
総門は、1783年に京都・般舟三昧院(はんじゅざんまいいん)に建てられた門が1940年に移築された。
直線上に並ぶ配置は逆に言うと横幅が狭い。京都などの寺院は矩形の敷地に伽藍が配置されているため、総門を入ると伸びやかに広がった雰囲気であるが、建長寺ではそうした広がりは感じない。代わって奥行き方向の伸びをうかがわせるが、総門の先に立つ三門で奥は見えない。その分、神秘的でもある。
三門(重要文化財)は1775年の再建である。間口3間、奥行き2間、二層入母屋屋根で、一層目は仁王のない白木の吹き放しで、骨太の木組みは豪快である(写真web転載)。
正面の唐破風は「建長興国禅寺」の大きな扁額を掛けるための工夫らしい。
三門は三解脱門の略で、涅槃=悟りを開くための三つの関門「空、無想、無作」を解脱することを意味する。凡人には三つの関門の解脱は及ばないが、楼上には釈迦如来、五百羅漢、十六羅漢が安置されていて凡人でも心を清めてくれるらしい。一礼、合掌し、三解脱門を抜ける。
三門の先に仏殿(重要文化財)が居丈高に建つ(写真)。
入口でくれたパンフレットには仏殿左手前の柏槙は創建当初からの古木で、高さ13m、幹周り6.5mと記載されている(仏殿写真左)。750年を超えてなお勢いよく育つ柏槙は巨木の風格を感じさせる。その柏槙が視界を遮っていることも、仏殿の居丈高を強調している。
仏殿は平屋に裳階を回している。裳階を回した外観も居丈高を強調している。
この建物は、もともとは東京芝・増上寺に建立された徳川2代将軍秀忠夫人の霊廟だった。徳川2代将軍夫人の霊廟のため内部空間を広くしようと屋根を高くし、バランスを取るために裳階を回したのではないだろうか。結果的居丈高な外観になったようだ。
その霊廟が1647年に移築され、仏殿に転用された。移築時に禅宗様の表現が加えられたようで、寄棟屋根を支える斗栱が壁面をすき間なく埋め、二重垂木が扇状に伸びだし、力強さを見せつけている(前頁写真)。
一方、仏殿なら入母屋屋根、鏡天井が通常だが、霊廟だったため寄棟屋根、格天井が残されている(写真)。
堂内は平瓦敷きの平土間で、木彫の本尊・地蔵菩薩坐像(室町時代、像高2.4m)が安置されている(堂内写真)。地蔵菩薩が禅寺の本尊とされるのは珍しいそうだ。右手に錫杖、左手に宝珠を持った地蔵菩薩に合掌する。
仏殿の奥に法堂(重要文化財、1814年再建)が建つ(写真)。法堂は講堂に相当し住職が須弥壇で説教する建物で、いまは法要や講演会、展覧会にも使われている。
間口3間、奥行き3間に入母屋屋根を乗せ、裳階を回している。仏殿に比べ周囲が開け、入母屋屋根で水平が強調され、仏殿ほどの居丈高さは感じない。
それでも軒下をすき間なく埋める斗栱や二重の扇垂木の構成は、禅宗様の力強さを感じさせる(次頁写真)。
内部は、平瓦敷きの平土間で、須弥壇には木彫の本尊千手観音坐像が安置されている(写真)。その手前には、パキスタンイスラム共和国から愛知万博後に寄贈された釈迦苦行坐像が安置されている。
天井には小泉淳作氏(1924-2012)が2000年に描いた雲龍図が鏡天井にはめ込まれている(堂内写真上部)。龍は仏法を守護し、水を司る=火除けとして禅寺の天井に描かれることが多く、京都・建仁寺の天井も小泉氏が2001年に描いた双龍図の鏡天井になっているそうだ。
法堂の左奥=北に唐門が建つ(写真web転載、重要文化財)。1628年、前述した東京芝・増上寺の徳川2代将軍秀忠夫人霊廟の門として建てられ、仏殿とともに1647年、建長寺に移築された。2代将軍夫人霊廟にふさわしく、向破風、華やかな金細工、漆塗りの桃山風四脚門である。
移築された唐門は住職が居住していた方丈の門として使われたようだが、現在の方丈は総門ととともに1940年、京都・般舟三昧院から移築された(写真web転載)。もともとは1732年に建てられた皇室の位牌安置所だったそうだ。
現在の方丈は龍王殿と呼ばれ、法要、座禅、研修などに使われているらしいが、唐門が閉まっていたので、方丈は見学していない。
方丈から北東に上り、得月楼を過ぎ、南西に下る。三門の左=南東に茅葺きの鐘楼が建っている。梵鐘は1255年に作られ、国宝に指定されている(写真web転載)。梵鐘には疎いので眺めながら通り過ぎ、総門に戻り、教科書で習った鎌倉を代表する禅寺の拝観を終える。
再建された法堂、移築された仏殿の二重扇垂木、斗供の構造に禅宗様の力強い表現をうかがうことができた。加えて、東京芝、さらに遠く京都から、解体し、運搬し、元通りに組み立てる移築の高度な技術に改めて感心させられた。
総門を出ると、大学生のグループが鎌倉駅まで競争といいながら鎌倉街道を早足で下っていった。ノートや資料を持っていたからサークルの活動かも知れない。実地で学ぶ効果は大きい。日本の高度な移築技術に気づかなくても記憶に残ると思う。
私たちは円覚寺に向かって鎌倉街道を進んだ。 (2008.11+2022.1)
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