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「阿修羅」斜め読み

2023年10月17日 | 斜読
斜読・日本の作家一覧>  book557 阿修羅 梓澤要 新人物文庫 2009


 梓澤要著「捨ててこそ空也」(book547参照)は、丹念に調べた資料史料をもとに空也の生き方を梓澤流に構想していて筆裁きも軽快な大作であり、歴史がよく理解できた。梓澤氏は「阿修羅」も書いている。
 奈良・興福寺で、教科書でも習う国宝「阿修羅像」を拝観した(HP「奈良を歩く」参照)。現在は興福寺国宝館に安置されているが、もともとは734年に光明皇后(光明子701-760、45代聖武天皇夫人)が母・橘三千代(665-733)の菩提を弔うために建てた西金堂の28体の仏像のうちの八部衆の一体である。
 高さは153.4cmと小柄で細身の三面六臂である(表紙写真)。新しい技法の脱活乾漆造でつくられ、赤く彩色されている。作者は不明である。


 梓澤氏は仏師・田辺嶋を仮想し、「阿修羅像」のイメージに悩むところから物語を始める。読み出して、仏師・嶋20歳がいかに苦労してイメージを実体化し、新たな技法である脱活乾漆造を会得して、阿修羅像を完成させていく話が主軸かと思った。
 ところが、表紙に「阿修羅像に面影を刻まれた少年・・」とあるように、物語は面影を刻まれた少年=橘奈良麻呂泉王子721-757)が757年に起こした橘奈良麻呂の変に至る心の葛藤、政治を私化しようとする藤原氏との対決を構想した物語だった。
 P4に38代天智天皇から46代・48代孝謙天皇(阿倍内親王718-770)に至る阿修羅関係系図が図解されている。複雑に絡んだ系図は、いかに朝廷で主導権を握るかの権謀術数をうかがわせる。
 「阿修羅」の時代範囲は45代聖武天皇(701-756)から46代孝謙天皇(718-770)であるが、梓澤氏は38代から関係図を説き起こさないと理解しにくいと考えたようだ。それほど主導権を巡る骨肉の争い、娘に天皇の世継ぎを生ませようとする策謀が渦巻いている。
 P4の阿修羅関係系図には主人公となる橘奈良麻呂(泉王子721-757)が太字で記されている。奈良麻呂の母は藤原不比等(659-720)と橘三千代の次女・多比能(生没不明)である。姉は45代聖武天皇に嫁ぐ光明子(701-760、光明皇后)である。
 奈良麻呂の父・葛城王(684-757、橘諸兄)は橘三千代と美努王の長子であり、弟・佐為(佐為の娘・古那可智はのちに聖武夫人)、妹・牟漏(のちに藤原北家の房前と結婚)がいる。
 橘三千代は42代文武天皇(683-707)の乳母だった。三千代は野心があり、政治力の弱い美努王と別れて野心家の藤原不比等(藤原鎌足の子)の妻になり、光明子、多比能姉妹を生む。
 不比等と三千代は不比等の側妾が生んだ宮子を42代文武天皇に娶らせ、三千代はその子(首皇子おびとのおうじ701-756=45代聖武天皇)の乳母となる。三千代は文武天皇、聖武天皇親子2代の乳母を努めたことになり、708年、43代元明天皇から臣下の証である橘姓を賜り、以降橘三千代として、藤原不比等とともに朝廷の陰の実力者になる。
 葛城王は三千代と美努王の子であり、多比能は三千代と不比等の子だから葛城王と多比能は同母兄妹になる。同母兄妹の結婚は禁忌だった。梓澤氏は複雑な系図、朝廷に渦巻く策謀、禁忌された兄妹夫婦に生まれた奈良麻呂から物語を構想したようだ。
 物語は、第1章 眉曇り、第2章 藤四娘、第3章 初恋、第4章 出身、第5章 大仏開眼、第6章 訣別、第7章 決起、と展開する。


 現在の奈良市から真北7~8km、木津川の東(本では平城京から半日、泉川に近い丘陵地)の山背国相楽郡井出に葛城王の別荘がある。葛城王は都に住んでいるが、多比能は泉王子と井出の別荘で暮らし、嶋の母・佐々女は奈良麻呂の乳母として多比能に仕え、佐々女の娘=嶋の妹・由布女は泉王子と乳きょうだい(のち奈良麻呂の妻になる)、嶋は幼少だったころの泉王子の遊び相手、という設定である。
 橘三千代の葬儀に多比能とともに参列した泉王子は、藤原不比等の子(泉王子の従兄弟)である藤原4家(京家、式家、北家、南家)から、兄妹が結婚して生まれた子と揶揄され、自分は忌まわしい血の子であることを強く意識し、心が乱れる。
 733年、三千代の娘であり多比能の姉で、聖武天皇に嫁いだ光明皇后は、三千代の菩提を弔うため興福寺に西金堂を建立し、西金堂に28体の仏像を安置することにする。その一体である阿修羅を任された仏師・嶋は、なかなかイメージがまとまらないので気分転換に井出に帰り、母・佐々女、妹・由布女、葛城王夫人多比能、泉王子=奈良麻呂に再会する。
 すさんだ心の泉王子に嶋は、P25「自分が正しいと思うのであれば負けると分かっていても戦わねばならない」と説く。
 嶋は、泉王子のほっそりした肢体、憂いをふくんだ繊細な面ざし、きめの細かいやわらかそうな皮膚、痛みに耐えるようにきつく眉根を寄せ、色が変わるほど強く唇を噛みしめ、憎悪の炎が噴き出すような見開いた眸、細かく震える頬が、阿修羅像に結集していく。
 物語が終わるP441で、嶋は由布女と奈良麻呂の子・清友に、阿修羅像は「悩みや苦しみから解き放たれ、ほっとしているところ」と話す。阿修羅像の見方は美術家、識者が説いているが、「阿修羅」に描かれた奈良麻呂が心の葛藤を乗り越え、真義を貫ぬこうとした生き方を思うと、阿修羅像が悩みや苦しみを乗り越え、真義を貫くようにと諭しているように感じる。


 734年、西金堂落慶供養の日に橘三千代一周忌法要が行われ、母多比能と泉王子が参列する。藤原4家の従兄弟たちは藤原仲麻呂が聖武天皇、光明皇后の娘・阿倍内親王(のちの46代・48代孝謙天皇)と懇ろな仲などと噂し、泉王子を見るとまたも揶揄の目を向ける。父・葛城王の本邸に戻った泉王子は自分の忌まわしい血に荒れ狂う。
 ついに母・多比能が辛い目に遭った過去を泉王子に打ち明ける。多比能14歳の718年、姉・光明子18歳は首皇子(のちの45代聖武天皇)の子を生むが女の子だった(=阿倍内親王)。不比等、三千代は妹も首皇子に娶らせ、姉妹のどちらかが次の皇太子を生めば朝廷を掌握できると考え、多比能を入内させることにする。
 多比能は、首皇子の乳母を務めた母・三千代に似てたおやかである。姉・光明子は首皇子が自分よりも多比能を寵愛すると確信し、多比能に先を越されて男の子が生まれるのを恐れ、多比能を自分の部屋に呼び出し、葡萄酒を飲ませて酔わせ、胡国から来た男に犯させる。やがて多比能の妊娠が発覚する。入内の思惑が失敗した母・三千代(不比等は急死)は多比能を遠ざけ、侍女たちは多比能を好奇の目で見る。
 姉に騙され知らない男に妊娠させられた憎悪を胸に秘めて耐えている多比能を、異父兄で妻を亡くした葛城王が多比能に妻として迎えたいと説得し、多比能は葛城王の井出の別荘で泉王子を生んだ、と泉王子に話す・・梓澤氏のフィクションとはいえ、骨肉の争いが常態化していたようだからありそうな話だが、姉が妹を貶めるとはすさまじい世界である・・。


 724年、首皇子24歳が45代聖武天皇として即位する。政治の実権は反藤原家の左大臣・長屋王(43代元正天皇の妹の夫で、40代天武天皇の長男・高市皇子の子)に委ねられる。
 光明子に待望の男児が生まれるが、1年を待たず夭折する。その間に聖武夫人・広刀自に安積親王が生まれる(のちに井上内親王、不破内親王も生まれる)。男児のいない光明子の立場は弱い。光明子は長屋王を排除するための策謀を巡らせて長屋王一家を滅ぼし、729年、皇后の座に就く。
 735年、15歳になった泉王子は元服し、王族の子弟として教育を受けるため平城京にある葛城王の本邸に移る。井出を旅立つとき多比能は泉王子に、「姉・光明皇后を甘く見てはいけない、藤原家の恐ろしさを侮ってはいけない」ときつく言う。
泉王子は朱雀門の前にある大学寮で、葛城王の勧めもあって遣唐使として17年留学していた下道真備のもとで学ぶ。
 同年、葛城王は、妹・牟漏女王の働きかけで、母・三千代が賜った臣下の証である橘姓の継承を認められ、葛城王は橘諸兄、弟の佐為王は橘佐為、泉王子は橘奈良麻呂となる・・この時点では、光明皇后+藤原家が朝廷の実権を握っていた・・。


 天平8年736年から天然痘が猛威を振るう。737年には朝廷にも蔓延し、上級官人93人のうち36人が命を落とす。藤原4家のそれぞれの頭領も逝く。藤原の後ろ盾をなくした光明皇后は態度を一変し、橘諸兄に太政官を務めるよう勧め、諸兄は大納言を任じられる・・諸兄は、藤原4家の跡取りが実力をつけるまでのあいだ反藤原を抑えるための光明皇后の策略と分かっていても、佐為の娘で聖武夫人となった古那可智、息子奈良麻呂の後ろ盾にならねばならなければならないと考え、大納言を引き受ける・・。
 天然痘の猛威が治まり、朝廷も落ち着いた738年、突然、光明皇后は娘・阿倍内親王21歳の立太子を発表する・・光明皇后は、聖武夫人広刀自の長男・安積親王10歳が元服すれば次期後継者になりかねないと考え、先手をとろうとした。前述したが阿部内親王と懇ろなのが藤原南家の仲麻呂である。物語の構図が次第に見えてくる・・。
 同時に、諸兄は右大臣になる・・光明皇后の口止めか?・・。奈良麻呂18歳は大原真人明娘と結婚し、翌年、安麻呂が生まれる。


 聖武天皇は38歳と若いのに心労で疲れていたので、橘諸兄右大臣は気晴らしを勧め、井出に離れ殿を新築して聖武天皇を迎える。離れ殿建設や出迎えの陣頭指揮は奈良麻呂がとる。諸兄のきめ細やかな気配り、眼下ののびやかな田園風景に天皇は大いにくつろぐ。天皇は、奈良麻呂の労に報いて異例の叙勲をする。
 740年、太宰府の任に就かされていた藤原式家の広嗣が挙兵する。最終的には朝廷軍が反乱軍を取り押さえ、広嗣ら首謀者26名死罪、流罪47名など209名が断罪された。
 大友家持との交流が挿入される。奈良麻呂と気があったようだ。
 聖武天皇は藤原広嗣の反乱で神経過敏になり、ついには平城京を逃げだし、伊勢、鈴鹿、桑名、美濃、あてのない彷徨を始める・・奈良麻呂、諸兄は、聖武天皇が藤原4家の頭領が天然痘で命を落とし、広嗣が反乱したのは長屋王一族を断罪した怨念と信じ、藤原主導の平城京には長屋王の怨念が籠もっていると思い込みおびえている、と推測して天皇に遷都を奏上する。
 741年、山背国恭仁郷に新都恭仁京の建設が進む。奈良麻呂は大学頭に任じられる。一方、仲麻呂は民部郷に任じられる・・光明皇后は甥である仲麻呂と手を組もうと考えたようだ・・。
 井出で多比能に仕える佐々女の娘で奈良麻呂のちち兄姉である由布女が、奈良麻呂の子・麻呂を生む(のち、2人生まれる)。


 742年、聖武天皇は恭仁京の東北5里の紫香楽里(現在の滋賀県甲賀市)に離宮を新築し、甲賀寺に盧舎那大仏の造顕しようとする・・皇后と仲麻呂が天皇を橘親子が建都を進める恭仁京から引き離そうと紫香楽離宮、盧舎那仏造顕を勧めたようだ・・。
 紫香楽宮、盧舎那仏ともに巨額の費用が必要で人々の負担になるにもかかわらず、743年、紫香楽宮で聖武天皇は「天下の富は朕、天下の権勢は朕」と盧舎那仏造顕の勅を発し、代わって恭仁京の建設を中止する。
 奈良麻呂は藤原八束邸の宴で聖武夫人広刀自の子・安積親王16歳と会う。藤原家と一線を画す安積親王は新都恭仁京の建設を父・聖武天皇に進言すると言ったが、744年、自宅で突然死する・・仲麻呂による毒殺と噂される・・。
 745年、紫香楽宮が新京となる(恭仁京建設の橘諸兄が反恭仁京の藤原仲麻呂に負けたとの見方が広まる)。紫香楽郷で火災が頻発する(仲麻呂の仕業との噂される)。地震が起きる。聖武天皇は、6年に及ぶ彷徨を終えて平城京に戻る。甲賀寺大仏は金鍾寺(のちの東大寺)に移転となる。
 752年 東大寺(金鍾寺)盧舎那仏開眼供養会が開かれる。大仏殿も一部を残しながら完成する。
 元正上皇が崩御、行基大僧正80歳が遷化、2年続きの旱魃が続き、大仏の黄金不足が表面化する。聖武天皇の気力が萎えたところに、陸奥で黄金発見の知らせが届く。喜んだ聖武天皇は阿部内親王を46代孝謙天皇とし、自らは出家して上皇になる。
 太政官12名の新体制が発足する。橘諸兄は左大臣、仲麻呂は大納言、奈良麻呂は参議になる・・光明皇后、仲麻呂が孝謙天皇の背後で政を仕切る体制が整ったともいえる・・。


 754年に鑑真を乗せた遣唐使が戻る話が挿入される。
 同754年、陸奥の黄金は宇佐八幡宮八幡大神の神意との神託が伝えられ、祢宜尼大神杜女が盧舎那仏に参拝する。宇佐は古来より銅の産地で、八幡大神は鍛冶の神である。この神託を聖武上皇は信じる・・八幡大神の神託も仲麻呂によるでっち上げのようだ・・。


 756年、聖武上皇56歳の生涯を閉じる。遺言で40代天武天皇の子である新田部親王の子・道祖王(ふなどのおおきみ)を皇太子にするよう言い渡す。同年、橘諸兄に濡れ衣の嫌疑がかけられ、疑いは晴れたが諸兄は辞職し、翌757年、諸兄74歳が息を引き取る。
 同年、孝謙天皇は、遺言通り道祖王を皇太子としたが不行き届きがあり廃位とし、40代天武天皇の2男・舎人親王の子である大炊王(おおいおう)を47代淳仁天皇とする考えを朝議に諮り、決定する・・橘諸兄が没したので邪魔立てがいなくなり、政治は光明皇太后、孝謙天皇、藤原仲麻呂の思い通りの筋書きで展開していく・・。
 藤原仲麻呂の政治を私化した進め方に反発する貴族、有力者も少なくない。橘奈良麻呂は彼らと仲麻呂排除を話しあうが、挙兵寸前で密告されてしまう。
 「阿修羅」では謀反発覚後、多比能が姉である光明皇太后邸に乗り込んで償いを求め、その結果、孝謙天皇、光明皇太后から穏やかな解決を言い渡された。しかし、仲麻呂は追及の手を緩めず、奈良麻呂ら首謀者を捕らえ、奈良麻呂は過酷な拷問で命を落とす。
 「阿修羅」では、前述したように仏師・田辺嶋が妹であり奈良麻呂の妻である由布女と奈良麻呂の子・清友に、奈良麻呂のイメージで彫った阿修羅像は「悩みや苦しみから解き放たれ、ほっとしているところ」と話し、幕が下りる。


 歴史では、橘奈良麻呂の乱で仲麻呂は政敵を一掃し、右大臣、続いて太政大臣に上りつめるが、孝謙上皇の寵愛が弓削道鏡に移ってしまい、764年、藤原仲麻呂が乱を起こして一族は滅んでしまう。まさに栄枯盛衰である。
 梓澤流見立てのフィクションだが、光明子=光明皇后、藤原仲麻呂が暗躍した時代の歴史を復習できた。
 過去の栄枯盛衰の歴史を知っていても、その後も栄枯盛衰は繰り返されている。権力を握った人、あるいは権力を握ろうとする人は歴史が見えなくなるようだ。
  (2023.10)
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