yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

2020.1シチリアの旅25  シラクーサ・ネアポリス考古学公園

2021年06月30日 | 旅行

世界の旅・イタリアを行く>   2020.1 シチリアの旅 25  シラクーサ・ネアポリス考古学公園

 シチリアの旅7日目9:15、ネアポリス考古学公園Parco Archeologico Neapolisに着いた。テメナイトの丘と呼ばれる石灰岩盤をくり抜いてつくられたギリシャ劇場、ローマ円形劇場などの古代遺跡を整備した公園である。

 入園するとまず巨大なヒエロン2世の祭壇Ara di Ierone2が目につく(写真、web転載)。ヒエロン2世は第1次ポエニ戦争(BC264-BC241)でギリシャ人将軍として勝利に貢献し、シュラクサイ=現シラクーサの僭主、のちに王に就いたらしい。この祭壇は長さ198m、奥行き23mもあり、祭祀で牛450頭を捧げたと伝えられている。上部構造の石材は、16世紀、ハプスブルク家カール5世=カルロス1世がシチリア王だったころ、オルティジア島の要塞建設に転用されてしまったそうだ。
 そのころの習わしで祭祀に牛が犠牲になってしまったが、450頭もの牛を生け贄にするには膨大な放牧地、遊牧地が必要であろう。シチリアは農業、漁業、交易のみならず、牧畜も盛んだったことが想像できる。

 ヒエロン2世の祭壇を通り過ぎ、天国の石切場Latemia del Paradisoに向かう。ギリシャ時代に石灰岩を切り出した石切場で、深いところでは30mにもなる(写真)。切り出され、加工された石がギリシャ劇場やローマ円形劇場を始めとする建造物に使われた。
 シラクーサは1542年、1693年に大地震に襲われている。大地震で岩盤が崩落したあと、そのまま放置されたらしい。やがて植物が育ち、人々が植樹、造園して石切場が天国をイメージさせる庭園に生まれ変わったことから、天国の石切場と呼ばれるようになったらしい。ガイドがアーモンド、泰山木、夾竹桃・・・・と指さす。
 コリント式オーダーの意匠の元になったアカンサスacanthusも育っていた(写真)。アカンサスはギリシャの国花で、ビザンチンリーフとして絨毯などの柄模様に使われている。ギリシャ植民地に持ち込まれ、広まったのであろう。

 石切場を通り抜ける穴は、ディオニュシオスの耳Orecchio di Dionisioと名付けられている(写真、web転載)。そういわれれば耳に見えなくもない。
 紀元前5世紀早々、カルタゴを撃退してシュラクサイ=現シラクーサを護ったギリシャ人司令官ディオニュシオスは、シュラクサイの僭主になる。ところがディオニュシオスは僭主の地位を守るため横暴、残虐になってしまう。この穴は音響効果がいいので、囚人を閉じ込め、囚人が悪政を呪ったりディオニュシオスの悪口を言うのを上で聞いて判決を下した、と噂された。
 石切場を訪れたカラヴァッジオCaravaggio(1571-1610)がその伝説を聞き、ディニュシオスの耳と命名したそうだ‥カラヴァッジオは後述、眉唾の話だとしても歴史が絡み合って話が壮大である‥。

 ディオニュシオスの耳を通り抜けるとギリシャ劇場Teatro Grecoに出る。紀元前5世紀、シュラクサイ=現シラクーサに植民したギリシャ人が石灰岩盤の斜面をくり抜き、劇場をつくった。当初は台形だったという説や、BC3世紀、ヒエロン2世時代、劇場は馬蹄形に改修されたとの説がある。ローマ時代に半円形に改修され、水路が引かれ、いまの劇場の形になった。直径140m、座席67段、15000人収容の規模で、古代ギリシャ劇場としては最大とされる。
 16世紀、オルティジア島のスペイン要塞建設のためギリシャ劇場の石材も運び出された。現在に残る座席は48段、5000人ほどの規模になった(写真)。それでもギリシャ劇場の特徴である円形の観客席、中央平場の音楽隊、手前舞台で演劇の構成がよく残されている。
 ギリシャの円形劇場がローマの円形劇場、円形闘技場に引き継がれ、現代の劇場ホールやアリーナに発展したと思うと、その原型をつくったギリシャ人の構想力に感心する。

 座席は8つの階段通路で9つのセクションに分かれ、座席中ほどの横通路で上段、下段に区分されている。
 最上段まで上ると、岩盤をくり抜いて引いた水路があり、大量の水が音を轟かせている(写真、前掲写真の左上)。水路が引かれたのはローマ時代で、中央平場に水を溜めてショーに活用したらしい。スペイン時代には豊富な水で水車を回して小麦粉を引き、近世には水力を動力にした工場も作られたそうだ。ローマ人の水路、水道技術は後世にも貢献している。

 最上段の先を上るとギリシャ劇場の全景とイオニア海が遠望できる(写真)。雄大な海原を背景にして演劇が盛り上がる効果もありそうだ。海が見えれば、攻めてくる敵を発見しやすい利点もあろう。しかし、ギリシャの植民者は気持ちの奥でふるさとが忘れられず、ふるさとにつながる海を見ようとしたのではないだろうか。
 ‥かつて沖縄の古村を調べていて、ニライカナイ(遥か海の彼方)思想を知った。柳田国男らも論じている。ギリシャ人も海の彼方に思いを馳せ、海の見える立地を選んだのかも知れない‥。

 丘を南東に下り、ローマ円形劇場Anfiteatro Romanoを見る。ローマ時代、剣闘士競技を楽しむために石灰岩盤をくり抜き、長辺140m×短辺119mの闘技場がつくられた。古代ローマで円形闘技場がつくられたのは紀元前1世紀だから、シラクーサも紀元前1世紀以降であろう。
 剣闘士競技が行われるアリーナは長辺70m×短辺40mで、剣闘士、猛獣が出入りする仕掛けも残っている。
 周りにはギリシャから運ばれた大理石で化粧された観客席が設けられていたはずだが、16世紀、観客席の石材はオルティジア島スペイン要塞建設のため運び出されてしまったそうだ。
 1998年に訪たチュニジアのエル・ジェム、2001年に訪ねた南フランス・アルルの円形闘技場は原型をとどめていた。そのイメージをローマ円形劇場の遺構に重ねながら、10:40、バスに戻る。 (2021.6)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 2020.1シチリアの旅24 オル... | トップ | 2020.1シチリアの旅26 オル... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

旅行」カテゴリの最新記事