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2022.9山梨・甲府城跡を歩く

2023年06月19日 | 旅行
日本の旅>  2022.9 山梨・舞鶴城公園=甲府城跡を歩く


 湯村温泉を出て県道6号線を東に走り、右折して中央本線を渡った先が舞鶴城公園=甲府城跡である。湯村温泉から10分ほどだった。
 甲斐国は、1582年の武田氏滅亡後織田信長が支配し、本能寺の変後徳川家康の支配になる。
 家康は甲府城の築城を始めるが1590年に家康は関東移封になり、代わって豊臣秀吉が築城を進めさせ、1593年、浅野長政・幸長親子の代に甲府城が完成する。
 1600年の関ヶ原の戦い後、浅野氏は和歌山に転封され、徳川義直(家康9男)、徳川忠長(家光の弟)、徳川綱重(3代家光の 3 男=4 代家綱の弟=5 代綱吉の兄)、綱重の嫡男・綱豊(のちの6代将軍家宣)、柳沢吉保などが城主になり、勤番制も取られたりして明治維新を迎え、1873年、廃城になる。
 1903年に中央線が開通し城跡に甲府駅が建つ。1904年、城跡が舞鶴城公園として開放される。内堀を埋め立てて県庁舎などが建設されたが、1997年に鍛冶曲輪門、1999年に内松陰門稲荷曲輪門、2004年に稲荷櫓、2013年に鉄門が復元された。
 かつての甲府城は20haだったそうで、単純計算でおよそ450m×450mの広さだが、中央本線、甲府駅、県庁などの開発が進み、現在開放されている舞鶴城公園は6.5ha(単純計算で255m×255m)である。


 舞鶴城公園の南東に車を止める。旧甲府城の南側には堀が残されている(写真)。舞鶴城公園案内板を見ると堀が残っているのはここだけで、ほかは埋め立てられたようだ。
 堀に遊亀橋が架かっている。かつての追手門は城の南側・西寄りに位置するが、開発により堀は埋められ、城の西側は県庁などの施設、甲府駅、鶴舞通りになっている。新設であっても遊亀橋と堀と石垣の風景は、かつての甲府城を偲ばせる。
 湯亀橋を渡るとかつての鍛冶曲輪=現在の自由広場で、正面に石垣が立ちふさがる。石垣に沿って左の坂道を上る。
 石垣は大きく野面積、打込接、切込接に分けられるそうだ。野面積は、自然石を加工せず積み上げていく工法である。石は不整形、大小バラバラで、隙間には間詰石(まづめいし)と呼ばれる小石を詰める。初歩的な工法である。
 打込接(うちこみはぎ)は、自然石を打ち欠き、石の隙間を少なくして積み上げていく工法である(写真、甲府城坂下門石垣)。石の接合が野面積より安定するので、野面積より高く積み上げることができる。石の隙間には間詰石を詰める。野面積より進化した工法である
 切込接(きりこみはぎ)は、石同士を隙間なく接合するように加工した石を積み上げていく工法である。石の隙間がなく安定しているので打込接よりも高く積めるし、隙間がないので見た目もきれいである。打込接よりさらに進化した工法で、江戸城、名古屋城など江戸時代の築城、改修に多用された。
 打込接の石積みを見ながら坂下門跡を抜ける。


 かつての甲府城は追手門から入城し、楽屋曲輪に入り、鍛冶曲輪門を抜け、鍛冶曲輪に入り、坂下門を抜け、左=西の二の丸、右=東の天守曲輪に入る道筋だったようだ。
 坂下門を抜けると右=東に中の門=柵の門跡がある。細かな情報はパンフレットにも説明板にも紹介されていないが、坂下門と中の門で枡形を作っていたのではないだろうか。
 中の門跡を抜けると天守曲輪で、左の石垣のあいだの急な石段の上に鉄門(くろがねもん)が構えている(写真)。2013年の復元で、2階建ての櫓門である。石段は、紋付き羽織袴の武将、あるいは鎧兜の武将がこの石段を日々上ったとは想像できなほど急である。
 鉄門の2階は公開されているので、見学した(写真)。柱、貫、梁、垂木を素木で現し、壁を漆喰で塗った簡潔な作りである。復元工事の様子などが展示されていた。
 石段側の窓から天守曲輪がよく見える。万が一、敵が天守曲輪まで攻め込んでも、急な石段でもたもたしているうちに狙い撃ちされそうである。
 鉄門を抜けると本丸広場に出る。天守台は右=東に見える。


 先に、左の塔を見る。字がかすれた説明板には、1911年、明治天皇が山梨県にある皇室の山林を県に寄贈してくれ、感謝の意を表すため1920年、この謝恩碑を建てた、と記されている。設計は当時の東京帝国大学教授・伊東忠太(1867-1954)、大江新太郎で、塔はエジプトのオベリスク、台座はバイロンのイメージだそうだ。山梨県の花崗岩を積み上げた、高さ18.2mの塔である。
 築地本願寺など名建築を手がけた伊東忠太は、日本建築の源流を求めて中国、インド、トルコを旅し、エジプトを経てヨーロッパに足を延ばしているから、エジプトの強烈な記憶を再現しようとしたのかも知れない。


 謝恩碑の北西に銅門(あかがねもん)跡があり、石段の下に高麗門形式の内松陰門(うちまつかげもん)が1999年に再現された(写真)。内松陰門の手前が二の丸、門の先が屋形曲輪になる。
 内松陰門まで下りた。絵図には屋形曲輪の先に内堀があり、続いて清水曲輪、さらに先に外堀が記されているが、いまは鶴舞通りに建物が並び、昔の面影はなかった。
 石段を戻り、途中から銅門跡を見上げると奥=東に天守台の石垣が見える(写真)。かつてはここに天守閣が構えていて、壮観だったに違いない。
 城造りの技術者は防御も優先しただろうが、城の見せ方にも万全を期したはずである。天守の復元は難しいだろうが、要所要所から城がどんな風に見えるか、復元想像図を紹介してくれるといいね。


 天守台に上がり、甲府盆地を一望する(写真)。旧甲府城周辺の標高は270m、天守台の標高は295mだから典型的な平城である。
 武田家が館を構えた躑躅ヶ崎は標高350m、湯村山は446mだったから、徳川家康は軍事に加え、政治、経済的な利便から甲府城の位置を考え、豊臣秀吉も同じ考えを踏襲したようだ。
 現在の甲府市が人口19万人の県庁所在地として栄えているのが、徳川家康、豊臣秀吉の目利きの高さを裏付ける。


 天守台、本丸から城の北側になる稲荷曲輪に下る。2004年に復元された稲荷櫓が建つが(写真)、非公開である。稲荷曲輪からの眺めはズングリしていて、開口部は少なく、変化に乏しい櫓に見える。
 散策をしている地元の方に食事処を聞くと、稲荷櫓の先の坂道を下り、城外に出て中央本線の踏切を渡り、線路沿いを西に歩くと甲府駅北口で、手前に甲州夢小路が最近できて人気、などを教えてくれた。
 踏切を渡ると、稲荷曲輪の整った外観が現れる(写真)。プロポーションも開口の配置も屋根の形もいい。城の技術者がいかに見せ方を工夫したかが分かる。


 甲府駅北口前は、よっちゃばれ広場と名づけられた駅前広場として整備されていた。イベントで活用されるらしい。
 甲州夢小路は、線路沿いに蔵をイメージしたデザインで整備されていて、甲州ワインショップやカフェなどが並んでいた(写真)。線路側の席で甲府城の石垣を眺めながらランチを取り、甲州ワインを購入して帰路についた。 
 (2023.6)

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