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1995.9内蒙古フホホト 王昭君を想う

2023年02月02日 | 旅行
<中国を行く>  1995.9 中国・内蒙古自治区フホホト 王将君を想う


 1993年8月にモンゴル人民共和国のゴビ砂漠に暮らす遊牧民の住まい=ゲル(中国では包パオbaoと呼ぶ)を訪ねた。
 ゴビ(モンゴル語govi中国語=戈壁gebi)は、沙漠、乾燥した土地、礫が広がる草原の意味なので、日本語のゴビ砂漠は二重表現になるので、日本ではゴビ砂漠が一般的だが本文ではゴビと表記する。
 モンゴル人民共和国では長く宗教が抑圧されていて最近ようやく信仰の自由が回復したのだが、彼らがチベットで広く信仰されているラマ仏教を信じていることの不思議と、出自の同じモンゴル族が現在はモンゴル人民共和国中国・内蒙古自治区の異なった歴史を辿っていて、どのような生活文化の差異が生じたのだろうかという疑問を抱いた。
 願望にしろ、疑問にしろ、それが強ければ強いほど、時間の経過にかかわらず気持ちのなかに消えることなく沈殿し続け、ある時、机の引き出しをあけて書類を探していたら隅のほうからすっかり忘れていた昔の写真が出てきて一瞬そのころの情景が体を包みこんでしまうように、願望や疑問が何かのきっかけで燃え上がり、いても立ってもいられないほど思いをつき動かすことがある。もっとも、大概の場合、きっかけになった何かは些細なことが多く、あとでいくら思い出そうとしても思い出せないことが少なくない。
 今回もきっかけはまったく思い出せないのだが、ともかく内蒙古自治区=内モンゴルへ行くぞ!、の気持ちがふつふつと燃え始め、1995年9月、中国・内蒙古自治区を目指した。


 第1日目、成田空港15:30発のCA便に搭乗、18:30過ぎ北京空港に着く。中国人留学生S君と合流する。S君は帰国まで私たちの通訳をしてくれ、不勉強な私たちにガイドもしてくれた。さかのぼって感謝申し上げる。
 21:30過ぎ、北京空港発のCA国内便に搭乗、22:40ごろフホホト空港に着く。タクシーで中国旅行社が手配してあったフホホト中心街のホテルに着くと、なんと!!、満室で私たちの部屋がない。S君が現地旅行社に連絡し、フロントとすったもんだの末、別のホテルに泊まることになった。海外旅行では突発事項が少なくない。
 最初に不測の事態が起きてしまえば、あとは少々の出来事でも何とか乗り切れる、終わりよければすべてよしの構えがいい。
 明日の準備をし、シャワーを浴び、ビールを飲み、夜中1:30ごろ、なんとなく湿り気を感じるベッドに入る。
 2日目朝、ホテルから呼和浩特(フホホト)の中心街を見下ろす(写真)。格子状の道路で整然と区画され、高層ビルも散見される。内蒙古=内モンゴルは砂漠が広がっていると勝手にイメージしていたが、少なくとも省都フホホトは大都市である。


 モンゴル族はもともとシベリアが森林だったころ森の民として半定住生活をしていて、ツンドラの南下に追われ、ゴビ一帯に民族移動したといわれている。歴代中国王朝が周辺諸国に勢力を拡大するたび、北方では漢民族と遊牧民との衝突が発生した。
 農業を背景とする漢民族にとって、土は掘り起こし耕して米や麦、野菜を作り出す基盤であり、雑草は農業の敵で、根こそぎ取り除こうとする。ところが遊牧は雑草が頼りで、家畜が草を食べ終わったら自然に回復するまで、次の草地に移動する。もし、根こそぎ草を抜かれたら遊牧は成り立たない。
 遊牧民農耕民との死ぬか生きるかの闘いが始まるのは当然といえば当然なのである。
 漢王朝が遊牧民との和睦のためモンゴル族に嫁がせた元帝の后、王昭君の墳墓がフホホトの郊外にある(次頁上写真web転載)。ここにのぼってまわりを見渡すと一面が畑に開拓されていて、漢民族からみれば王昭君の苦労が十分に報われていることが実感できる(中写真)。
 王昭君は古代中国の四大美女として登場する一人である(下写真web転載、旅立の場面)。
 前漢の元帝は匈奴(キョウド)の呼韓邪単于(コカンヤゼンウ)と和睦をすすめるため、呼韓邪単于に妃を送ることになった。宮廷の妃達は元帝の寵愛を得るため画家に実際より美人な似顔絵を描かせていたそうだが、王昭君は相当の美人だったため妃達の策略で似顔絵は不美人に描かれてしまった。
 元帝は、呼韓邪単于に送る妃を似顔絵で決めたため、不美人に描かれた王昭君が選ばれてしまう。旅立ちの日、いとまの挨拶に来た王昭君を見て元帝はその美しさに声を失い地団駄踏んだといわれる。ときに紀元前33年のことである。
 呼韓邪単于に嫁いだ王昭君は一男を授かり、呼韓邪単于の死後は、当時の匈奴の習慣により義理の息子と結婚し、二女を設けたそうだ。以来、悲劇の美女として伝説化された。


 王昭君の墳墓は、その後、博物館が建ち、民家が再現されるなど、整備が進んだそうだ。悲劇の王昭君は現代にあっては観光の対象となった。いまや王昭君の悲劇を辿るのは難しそうだ。
 王昭君の墳墓から眺めた一面の畑からも内モンゴルでは着実に漢民族の文化が定着していることがうかがえる。 
(2023.1加筆)

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