よっちゃんのおててつないで

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2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

ビワイチ徒歩の旅7日目「マキノ~塩津」(高島市マキノ町~長浜市西浅井町)

2023-12-01 11:26:01 | 琵琶湖一周徒歩の旅

11/24(土)天気予報では滋賀県は曇りですが、琵琶湖北部は、朝から細かい雨が降っています。

ビワイチ7日目は、マキノ~塩津まで予定しています。塩津は、湖西線と北陸本線の交差する駅です。

マキノ駅8:25スタート

 

 

歩いていると石積みが見えてきます。案内板には、「高島市 海津・西浜・知内の水辺景観」としてこの石積みが説明されています。

海津は古くから湖上交通の要衝として栄えた宿場町です。湖岸には、風波から家宅を守るために江戸時代に代官西与一左ェ門によって作られた、城壁を思わせる古い石積が延々約1.2kmにわたり残っており、往時の繁栄を偲ばせる雰囲気をかもしだしています。また別の記録によると、海津の石積みはこのころにはすでに築かれていたとされ、江戸時代中期には、ほぼ現在に残る海津・西浜の石積みの景観が完成していたものと思われます。この湖岸の石積みをはじめ、河川や内湖、共同井戸、知内川で続けられている伝統的なヤナ漁など、多様な水文化が存在するマキノ町海津・西浜・知内地区の水辺景観が、平成20年全国で5番目の重要文化的景観に選定されました。重要文化的景観「高島市 海津・西浜・知内の水辺景観」では、その景観を構成する重要な要素として、この海津・西浜の石積みのほか、海津漁業協同組合旧倉庫、知内川漁業者組合旧倉庫のほか、江戸時代に建造された町家5軒を定めています。

  

 

 

 

町の中に金色の建物があります。見てみると「海津迎賓館」と書かれています。

もともとは、幕末から明治の実業家「井花伊兵衛」の家で、彼は、肥料用石灰の製造で財をなした方です。後年磯野源兵衛と共同で汽船を製造し、琵琶湖の南北を結ぶ「大津~海津」を

就航させました。現在は、別の方が所有されているそうです。

 

 

歩いていると鮒ずし「魚治」という鮒ずしのお店があります。創業は天明4年(1784年)。

何と、この店、コミック誌「美味しんぼ」に出てきた鮒ずし屋さんです。鮒ずしは、私、苦手ですが、小魚の佃煮とごりのお茶漬けを買いました。※美味しんぼは全巻持っています。

 

海津の町を歩いていると他にも旧家が目につきます。

吉田酒造は、大正15年(1926年)創業。「竹生島」という銘柄のお酒の製造。中村商店は、「角二醤油」の製造元。創業400年の歴史があるそうです。

 

海津の町を離れ、大崎へ向かいます。

 

「日本のさくら名所100選」にも選ばれている海津大崎の桜。樹齢80年を優に超える老桜から次世代へ引き継ぐ若木まで約800本の華麗なソメイヨシノがびわ湖岸約4kmにわたり続きます。

近年見頃は4月上旬頃(気候等により前後します)となり、近畿圏では遅咲きの桜名所として知られています。また、海津大崎は、琵琶湖八景「暁霧・海津大崎の岩礁」としても知られる

景勝地で、びわ湖随一の岩礁と、湖の碧、遠くに望む竹生島、その景色の絶妙なコントラストは何度見ても美しく、毎年多くの花見客で賑わいます。この美しい景観を後世に継承して

いくため、地元「美しいマキノ・桜守の会」が中心となり保全活動にも取り組んでいます。(高島観光ガイドより)

 

 

 

大崎寺は、真言宗智山派の寺院です。近江西国9番の札所で、俗に「大崎観音」の名で親しまれています。
奈良時代に泰澄によって開基され、尊像は聖徳太子の作といわれています。境内の千貫松(せんかんまつ)・弁天松(べんてんまつ)と呼ばれる老松、春には美しい桜が見事な景観を

作り出します。

 

海津大崎には、トンネルがあります。ビワイチウォーキングのガイドブックを見ているとトンネル内は暗くて歩道がないということでしたので、ヘッドライト後ろには、工事に使う

赤の保安灯また、熊が出るかもしれないので熊よけのスズもつけて歩きます。

  

 

ここからは、竹生島が近くに見えます。

 

大崎の中間ぐらいが、高島市と長浜市の境界です。長浜市西浅井(にしあざい)に入ります。浅井というと、戦国大名「浅井長政」からとった地名でしょうか?

 

 

このあたり、リゾートホテルやキャンプ場が多くみられます。

 

 

 

先ほどから気になっていましたが、道路の中央に保安灯みたいなものがあったのですが、これって雪を解かす水だったのですね。今日、試運転されていました。

古い建物のお店があります。サイクリングの人が何人か中に入っていくので私も中に入りました。

ピーナツせんべいのお店でした。歳をとるとせんべいなんか歯に挟まるのであまり食べませんが、一口食べてみるとそんなに硬くなくピーナツの香りがして美味しかったです。

お土産に3個買いました。この近くに丸子船の館があるとお店の方に聞いて行ってみることにしました。

  

丸子船(まるこぶね)とは、かつて琵琶湖の水運を担った和船。琵琶湖の環境や用途に合わせて独自の発達を遂げた帆船の木造船で、同時代の輸送船を代表する沿岸海洋用の弁財船と比べると船幅は狭く喫水は極めて浅い。また、船体脇にオモギと呼ばれる丸太を半割りにしたような部材を用いる独特な構造や、ヘイタと呼ばれる短冊状に成形した板を桶のように曲面状に剥ぎ合わせた船首構造と、船首にダテカスガイと呼ばれる短冊状の銅板を貼り付ける装飾をもつことなどが特徴である。

琵琶湖北岸の長浜市西浅井地区には、琵琶湖舟運を利用した塩津浜、その西の大浦(北淡海・丸子船の館の建つ地)、菅浦という3つの湊があり、塩津浜は塩津街道(現在の国道8号)で、

大浦・菅浦は西近江路(国道161号)で敦賀と結ばれていた交通の要衝。
江戸時代、日本の経済を支えたのは日本海沿いに下関を回って瀬戸内海に入る北前船(「北前」とは上方で日本海を意味した言葉)。
また寛文12年(1672年)に幕府の命を受け、出羽国で産する城米(天領で産する米)を運ぶために河村瑞賢が西廻り航路(北前船)を確立するまでは、敦賀から琵琶湖の北岸まで陸送し、

塩津浜、大浦・菅浦で丸子船に載せ替えて、京・畿内に運ぶ道がメインルートでした。
つまり鉄道網が発達するまでは、北前船の交易と琵琶湖の舟運を使った大動脈が存在していたことに。
琵琶湖の総船数は関ヶ原の戦い直後の慶長6年(1601年)に1200艘、近距離輸送の増大した18世紀初頭の享保年間(1716年〜1736年)には3939艘を数えています。
丸子船だけに限ると、慶安2年(1649年)に1007艘、享保19年(1734年)に1348艘となっています。

 

 

 

先に進みます。大浦腹帯観音というのがあります。観音様の腹帯をいただいて祈願すれば安産すると伝えられています。美智子上皇后様御懐妊の際も献上されたことで広く知られています。

榧(かや)の木の一木彫りで比叡山延暦寺の開祖・伝教大師の作と伝えられています。

 

ここから岩熊トンネルまでは、坂道です。

 

 

トンネルを通りしばらく歩くと「塩津」(しおつ)の交差点。塩津が琵琶湖の一番北側です。

交差点の所に紫式部の句碑があります。※塩津(しおつ)と大津(おおつ)は、濁点がありません。

長徳2年(996)紫式部は、越前守となった父藤原為時に同行して越前国に下向。塩津山(深坂峠)を越えていくときに詠んだ句。

「知りぬらむ ゆききにならす塩津山 よにふる道は からきものぞと」 意味は、「人足たちよお前たちも人生の道は、この峠のように知っているだろうに」

ここには、読人不詳の句もあります。

「あぢかまの 塩津をさして漕ぐ舟の 名を告りてしも 逢はざらめやも」意味は、「アジカモや鴨の群れ飛ぶ塩津をさして漕ぐ舟 その名を告げたのだからお逢いせずにおられましょうか」

※「あぢかま」とは、塩津地域を指す枕言葉で、琵琶湖の水辺で冬を越す鴨に由来しています。

 

今日のゴールは、「道の駅あぢかまの里」。14:15ここで遅い昼食をいただきました。

 

道の駅から路線バスで近江塩津駅に移動。距離は18kmぐらいでしたが、坂道が多く疲れました。

 

 

 

 


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