5/22(月)若狭三方五湖ツーデーマーチの翌日、近江高島に行ってきました。前回私の祖母のお墓詣りをしましたが、日没になったため町歩きはできませんでした。
近江高島駅に着いたのが9:15。駅構内の観光案内所にて高島の「まち図」をいただき「近江高島から近江今津」迄約17km歩き始めます。
かつての高島は、近江商人の町であり、室町時代から京都などに移住し、呉服などの商売に影響を及ぼしていました。
1831年(天保2)京都で飯田新七(敦賀生まれ)が古着、木綿商を開き義父の飯田儀兵衛の出身地である近江国高島郡新保町(現高島市今津南新保)から「高島屋」と名付けました。
これが流通大手「高島屋」デパートの始まりです。
大溝は、古くから都のあった奈良や京都そして日本海を結ぶ交通の重要拠点として発達しました。琵琶湖岸には、「勝野津」と呼ばれる港があり、船で大溝にやってくる人、そしてここから
船で旅立つ人や荷物も多かったと考えられています。戦国時代末期に、洞海(乙女ヶ池)を濠に取り込んだ大溝城が築かれると、その後は歴代の城主・藩主によって周辺の城下町が
整備されました。その面影は、現在の町のあちらこちらに残っています。(大溝の水辺さんぽより)
祖母の先祖が、「士族」でしたから大溝城の家臣だったと想像します。(遡ればその昔、兵庫県三木城の家臣でした)
町割り水路:城下町の町割りの整備によってつくられた飲料・防火の生活用水路で水の豊かな高島ならではの町づくりです。
総門は現在工事中。総門の前の家が「町並み案内所」ですが、開館は、午前10時からですので入れませんでした。
町並み案内所がまだ空いていないので総門横のお店の方にいろいろ説明していただきました。そして私の母の旧姓「〇所」という家はこの大溝に残っているかと聞くと、
「もう娘さんが嫁いで、その姓は、ないけどまだ門構えの家が残っている」そうです。私の母の遠縁になるかもしれません。
滋賀銀行高島支店の所から「高島びれっじ」です。説明書によると
高島びれっじは、高島いにしえの風情ただよう旧城下町、高島市勝野地区。陣屋の総門や武家屋敷が今なお残っています。その一角で油商を営んでいた築150年の旧商家を商工会の有志が手づくりで改修し「びれっじ」として再生しました。現在は1~8号館まで整備されています。歴史に思いを馳せながら散策した後は食事や体験、お買い物をお楽しんで下さい。
近藤重藏は、江戸時代末期の北方領土探検家。晩年長男が犯した罪で大溝藩に預けられこの地で没しました。お墓は高島市内にあります。
北国街道・京大津道の石碑から琵琶湖河畔に出ます。
萩の浜の手前の一角に、四高桜(しこうざくら)という高さ3mほどの石碑があります。これは、昭和16年4月6日、旧制第四高等学校(現在の金沢大学)のボート部員が萩の浜沖で遭難死したのを悼んで建てられた慰霊碑です。
「遠くかすむは彦根城 波にくれゆく竹生島 三井の晩鐘音たえて なにすすりなく浜千鳥」の歌詞で有名な琵琶湖哀歌は、この時に作られた歌です。
(参考)東海林太郎集 《琵琶湖哀歌》 東海林太郎 小笠原美都子 - Bing video
萩の浜は、日本の渚百選に選ばれた遠浅の浜と松林に恵まれた風光明媚な浜です。
高島市安曇川町に入りました。 安曇川町のマンホールの図柄は。扇です。安曇川町の特産品です。
安曇川を渡り湖に向かって歩くと、大きな工事現場がありました。大型リゾートホテルの建設中です。
びわこ子供の国で休憩。
休憩後再スタート。新旭町に入ります。湖面を見ると遠くに「竹生島」が見えてきました。
ここは、県道333号安曇川今津線で通称「風車街道」と呼ばれています。この先に「道の駅しんあさひ風車村」がありますのでそこからのネーミングでしょうか?
風車街道には、桜が654本、延べ6kmに亘り植樹されています。桜の季節には、見事な桜並木でしょうね。
源氏浜:説明文によると、「浅井三代記」によると海津城主(現高島市マキノ町)海津長門守政元と大溝城主(高島市大溝)海津信濃守政義は、もと京極氏の家臣で後に浅井氏に従っていた。
天文18年(1549)政義が六角氏に通じたため、政元は、浅井久政の命によりこの浜で政義と戦うことになった。戦は一進一退を繰り返した後、停戦となった。六角氏も京極氏も共に
近江源氏であったことからこの浜を「源氏浜」と呼ぶようになった。
滋賀県観光ガイドを見てみると源氏浜は、ヒガンバナの群生地だそうです。
「道の駅しんあさひ風車村」にやってきました。この道の駅、私が知っている道の駅とは違い、レストラン、売店はあるのですが、地域の野菜などの産直品は売っていません。
メインは、グランピングです。
道の駅内でランチをいただきます。私は、近江牛のカレー、家内は、鯖の味噌漬けランチ。
ランチ後、再スタート。琵琶湖治水の先覚者「藤本太郎兵衛」の銅像があります。
高島市新旭町の湖岸(夕暮原浜)に、「治水の先覚者」藤本太郎兵衛の像が建っている。江戸時代後期、深溝村(現高島市新旭町深溝)の庄屋であった藤本太郎兵衛は、三代にわたり
琵琶湖治水に命をかけた。一代目太郎兵衛(直重)は湖辺の村々に、川さらえを呼びかけ奔走。177ヶ村を取りまとめ、幕府からようやく許可を得る(1784年)。
しかし人夫の統制が取れず、工事は2年で中断となる。二代目太郎兵衛(重勝)は、委任状を持ち、打ち首覚悟で単身江戸へ。老中松平定信に、川さらえの許可を得るべく直訴するが、
取り上げられず(1791年)。三代目太郎兵衛(清勝)は、瀬田川下流の反対者の説得や、幕府への嘆願を続け、ようやく「御救(オスク)い大浚(オオサラ)え」と呼ばれる大事業を
成し遂げた(1831年)。
風車街道の桜は、654本でした。ちょうど今津との境まで続いていました。
竹生島遥拝所跡:湖岸に立つ石碑で、「西国第三十番近江国宝厳寺竹生島遥拝所跡」と刻まれています。ここから竹生島がよく見えるため、その昔、船で竹生島に渡る路銀の無かった
巡礼が、この場所で竹生島を拝んだ、といわれています。
今津に入ってきました。「今津」は、若狭と近江を結ぶ重要な地点でした。小浜(福井県)の湊に陸揚げされた日本海側の産物が若狭街道によって運ばれ、琵琶湖の水運を通じて
上方や湖東方面に運ばれました。また、「琵琶湖周航の歌」の誕生地としても知られています。
今津のマンホールは、ザゼンソウとひばりです。ザゼンソウは、2月末から3月初めにかけて開きます。
今津港観光船のりば:ここから竹生島行の船が出て居ます。
今日のゴールは、JR近江今津駅。明日は、竹生島観光と今津の町歩きをします。
今日のGPS。道の駅で間違ってスイッチを切ったため、「近江高島~道の駅しんあさひ風車」と「道の駅しんあさひ風車~近江今津」となっています。