よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

博多阪急イヤーラウンド10kmコース<前編>(福岡市博多区)

2020-08-11 14:00:00 | ウォーキング

8/9(日)は、博多阪急イヤーラウンドの10kmコースを歩いてきました。

コースは、7/26に歩いた15kmとダブる所がありますが、この10kmは、博多区が中心です。

8:20博多駅到着。お盆の時期だから博多駅も混雑しているんでは?と思いましたが、普通の休みの時より人出が少ないくらいです。

福岡は、コロナ感染者が拡大しているので帰省や旅行を自粛しているのでは?

今回も掲載写真が多いので前編と後編に分けます。

  

博多駅には、鉢植えのひまわりが登場していました。

  

博多駅からは、前回も行きました「住吉神社」に向かいます。住吉神社には毎年九州場所の時(今年は九州場所中止)横綱の土俵入りが行われます。

  

 

清流公園:ここは初めて訪れます。公園内には、博多町家寄進高灯籠が建っています。説明文を見ると、「博多誓文晴」の創始者として知られる漬物屋「金山堂」の八尋利兵衛は、地域振興の

為の試みとして中州から住吉にかけての那珂川堤を整備し、桜や柳を植えて東京の向島を模し、遊園地「向島」を開きました。この灯籠は、その開園を記念し、

明治33年(1900)に建設されて住吉神社に寄進されたものです。灯籠には、建設に協力した福博(福岡部、博多部の総称)の商家や魚市場の人々の名前が刻まれ、当時の福岡経済界を

知る上でも貴重な資料といえます。昭和29年(1954)清流公園内の現在地に移されました。」

日本の広告塔の走りとも言えます。この中には、岩田屋(岩田屋デパート)、平助筆(復古堂)、光安商店(光安青霞園)など現存しているお店があります。

  

  

博多の魅力というHPで天本宏さんが、「八尋利兵衛」について書かれています。引用させていただきます。

「毎年11月15日から6日間,博多の街ににぎわいを呼ぶのが,「福博せいもん払い」の大売り出し!!その生みの親は“八尋利兵衛”という博多商人。

バーゲンの元祖「誓文晴(せいもんばれ)」を実現!!アイデアで博多に元気をつくった男,町おこしのパイオニアです。
1849年(嘉永2年),筑紫郡生まれ。14歳の時,博多の有力呉服商で店員修行。1879年(明治12年),30歳で下川端町に漬物店「八尋金山堂」を創業。開店時,

創刊間もない地元紙に「こんこん(たくあん)あります」と珍しい新聞広告を出したアイデアマンです。
商用で出かけた大阪の名物・蛭子市(えびすいち)の誓文払いで,商人達による年に一度の駆け引き抜きの謝恩奉仕の大安売り,押すな押すなの大盛況ぶりを目の当たりにしました。

「この賑わいを博多にも」と,漬物店である自分の店は恩恵を受けないにもかかわらず,「博多でも呉服商の合同大売り出しを」と呼びかけました。
当時の商人にとって大売り出しは「しまえた(倒産した)時の蔵ざらえ」とされていたので,話は難航。それでも足を棒にして説得に回り,合計27店の協賛を得て,1879年の暮れに

「誓文晴(せいもんばれ)」(当時は明るくこう呼んだ)が実現したのである。
広告ビラ1万枚をつくり,博多の周辺各郡まで配ったこともあり,人の波が押し寄せて催しは大成功。売り上げは予想を大きく上回った。1903年(明治36年),売り出し25回目の

開催を記念して,参加する店を呉服商に限らず全業種に拡大,今に受け継がれているのである。」

清流公園から那珂川沿いに歩きます。福博出会い橋を渡ると福岡部です。橋の所には、博多人形師「小島与一作」三人舞妓の像があります。

   

福岡県公会堂貴賓館は、前回通りました。ここからアクロス福岡の横を通ります。ここには、江戸時代からの石垣が現存しています。

  

水鏡(すいきょう)天満宮」:福岡市の中心地「天神」はこの神社から由来します。昔は、「天神町(てんじんのちょう)」と呼んでいました。

水鏡天満宮の鳥居に書かれている「天満宮」は、元総理廣田弘毅が小学校時代に書いたものです。

  

    

水鏡天満宮から昭和通りに出ます。西中島橋の所には、「赤煉瓦文化館」が建っています。よかなびによると、明治時代の我が国を代表する建築家・辰野金吾と片岡安の設計により、

日本生命保険株式会社九州支店として明治42年(1909)に竣工。赤煉瓦と白い花崗岩の外壁は、19世紀末のイギリス様式で、ほかに尖塔やドームなど、小規模ながら変化に富んでいる。
平成2年(1990)まで市歴史資料館として使用された後、平成6年(1994)2月、有料の会議室等を備えた市民に開かれた施設「赤煉瓦文化館」としてオープン。
そして,2019年8月21日に,リニューアルオープンしました。

 

西中島橋を渡ると博多部に入ります。昔は、福岡部と博多部の境界のこの橋に枡形門があったそうです。

明治末期の写真には、この赤煉瓦文化館が映っています。また、福岡市の道路元標は西中島橋の所に設置されています。

  

西中島橋を渡りしばらく歩くと右側に「変なホテル」がありました。恐竜の形をしたロボットがフロントで受付してくれるそうです。

  

明治生命ビルの手前から右に入ります。ビルとビルの間に挟まれた場所に小さな神社「国廣神社」があります。小さくて今まで気づきませんでした。

この國廣稲荷神社は、江戸時代の天保期に幕府主導で遊行地として整備され、1834年(天保5年)にそれまで小さな社であった中洲稲荷神社を改築。名称もその時改められ

「中洲國廣稲荷神社」となりました。それ以来、中洲の守り神、そして日本有数の歓楽街である事から商売繁盛の神様として、中洲で働いている人達の信仰を集めています。

毎年10月の女性だけのお祭り「中州祭り」の女神輿の神様です。

 

国廣神社から博多川を渡ります。左側にはホテルオークラ、右側は博多リバレイン。リバレインには、アンパンマンミュージアムがあります。

 

ホテルオークラの所には、「鏡天満宮」があります。案内板によれば、当社は鏡天満宮と呼ばれ、延喜元年(901年)讒言によって太宰府の権帥に左遷配所され給いし菅公が、 博多に上陸された

第一歩の地に御休息の時、「海路の疲れにおやつれ給ひし御相顔を鏡に映して御覧になった」と伝えられる鏡をお祀りする神社です。
一説には、菅公の供奴をした者とその子孫が菅公を慕い、宅内に神として祀った神社をはじまりとして奴天神(やっこじんじゃ)とも呼ばれています。
当時、この辺りは博多の渡唐国といわれ遣唐使が行き交い大陸の文化がさきがけて我が国に上陸したところですが、 現在の社殿の近くには唐から帰った伝教大師(天台宗の開祖最澄)の

建立による明王山冷泉寺があったと伝えられています。また平安時代に入ると平清盛によって袖の湊が築かれ日宋貿易の玄関口として一層の繁栄をきわめ商都博多の礎と

なったところでもあります。 しかし中世に入るとその富を求めて、群雄が割拠し度々の戦禍に見舞われ、また近くは大東亜戦争によって壊滅的な打撃を博多の町は受けましたが、

人々が鏡天満宮に寄せる信仰は深くその都度再建され、このたびの博多リバレイン建設に際しても、供に浄財を拠出し御縁も深きこの地に新たな社殿を建立するに至っております

   

このあと後編に続く