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よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

東海道道草ウォーク№31「興津宿~由比宿」(静岡市清水区)

2018-02-12 04:38:33 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

2/1(木) 昨日と変わって静岡地方今日の天気は、曇り。昼から雨の予想。

今日は、東海道の絶景「薩埵(さった)峠」を歩く予定ですが、富士山が見えるかな?前日ゴールの興津駅へ。

8:45ウォーキング開始。資料では興津駅の裏側に「日本のプラタナスのルーツの木」があるそうで行ってみました。

ここは、柑橘研究所、正式の名前は、「農研機構」。ここのプラタナス並木は、東大の銀杏、北大のポプラと共に日本三大並木と言われています。

明治25年(1902年)日英同盟締結を記念してイギリスから送られたもので、今、日本のプラタナスは、この木がルーツです、子孫です。残念ながら、中に入ることはできませんでした。

尚、ここのかんきつ研究所は、「清見オレンジ」を開発しました。名前も興津の清見灘、清見寺から「清見」と名付けられました。

   

興津一里塚の所に「身延道道標」があります。身延道は、ここから始まり、かつては河内道、塩の道と呼ばれていました。もともとは、駿河と甲斐を結ぶ交易道として発達し、

戦国時代には、駿河侵攻の為、武田信玄が道を整備しました。江戸時代には、身延山参詣延道と呼ばれ、江戸幕府の甲府勤番が設置されています。

 

更に先へ行くと「宗像神社」があります。宗像神社??我が福岡県にもある神社です。昨年世界文化遺産に認定されました。

神社の由緒書を見てみると、筑前(福岡県)から勧請したと書いてます。そういえば、福岡の宗像大社は、沖津宮、中津宮、辺津宮の3宮を祀っています。

福岡では、「沖津宮」と書かれていますが、ここでは「興津宮」になっています。ここ興津の地名のルーツは「興津宮」からです。

 

興津川を渡ります。川沿いに歩くと「興津川川越遺跡」があります。広重は、この興津川川越を浮世絵にしています。

   

これから薩埵峠に向かいます。実は私、2015年下田ウォークの後、この薩埵峠を歩いたことがあります。ここからの富士山は、東海道の中でも絶景の一つです。

薩埵峠は、もと上道、中道、下道がありました。私達は、この上道を歩きます。崖下の波が打ち寄せる下道には、「親知らず子知らず」の伝説があります。

親孝行の息子が奉公先から帰る途中で暗くなって、由比のおばさんに「今日は泊まって明日の朝一番で帰ったほうがいいよ」と言われたのに、早く父親に会いたいからと、暗い峠越えをしたのですが、

追いはぎに襲われて、海に死骸を投げ込まれてしまいました。次の日おばさんが父親のもとに訪ねていくと、庭に孝行息子の着物が干してあります。「昨晩は息子さんと久しぶりに会ってよかったね。」

というと、父親が「まだ帰ってない」と答えます。おばさんは「だって、そこに息子さんの着物が干してあるじゃない」と言われ、すべてを悟った父親は、

息子を追って「さった峠」から身を投げたというお話です

瑞泉寺から上り坂になってきます。お墓の真ん中を通ります。このお墓、見てみると「望月氏」「伏見氏」の名前が多いです。

  

 薩埵峠を登りきりました。天気がいい日には、伊豆半島、田子の浦からの富士山などが見えるのですが、今日は、天気が悪く富士山が顔を出してくれません。

  

薩埵峠には、薄寒桜が咲いていました。メジロも今年初めて見ました。

  

 薩埵峠から

天気が良ければここから富士山が見れるのに・・・・・右の写真は、2015年1月に行った時の写真です。この時は富士山がきれいに見えました。

  

広重の東海道の浮世絵は、薩埵峠から下を見る旅人を描いています。

   

薩埵峠は、日当たりがいいのか、紅梅、水仙の花も咲いていました。

 

薩埵峠では、現在地すべり防止工事が行われています。先に進むとミカンのトンネルが・・・・・・これってかんきつ研究所が開発した「清見オレンジ」でしょうか?

  

峠を下りた所が、間宿(あいのしゅく)「西倉沢」です。宿泊でなく休憩を主としているのが間宿です。西倉沢には、当時10軒ぐらいの茶屋があり、本陣は、川島家で脇本陣の柏屋には、

明治天皇も休憩されました。逗留した静岡県令大迫貞清が気候風土がビワの栽培に適していることに気づき故郷の九州からビワの種を取り寄せ栽培を勧めました。「由比ビワ」と呼ばれています。

望嶽亭(ぼうがくてい)藤屋」は、間宿倉沢で望嶽亭を営み、約400年ほどの歴史があるといわれています。磯料理、アワビ、サザエのつぼ焼きを名物としていました。

かつては離れから富士の眺望がすばらしく望嶽亭の名が付きました。慶応4年(1868)西郷隆盛との話し合いの為、府中(静岡市)に向かっていた幕臣・山岡鉄舟は、官軍に追われ、

望嶽亭に助けを求めました。主人は鉄舟を土蔵に匿い、隠し階段から船で江尻宿まで逃がし、清水次郎長に身柄を託したといわれています。

その時の土蔵と鉄舟が残したフランス製のピストルが今でも残っているそうです。

  

鞍佐里神社」があります。日本武尊が東征の途中、賊の焼き打ちの野火に逢い、自ら鞍下に居して神明に念ず、その鞍、敵の火矢によって焼け破れ尽くした。

依って鞍去(くらさり)の名あり」と伝えられ、鞍去が後に倉沢と転訛したともいわれている。

鞍佐里神社は尊が野火にあった薩埵峠(さったとうげ)の雲風(くもかぜ)か、山中あたりに建てられていたが、後に現在地に移されたものと思われる。

神社拝殿の蟇股(かえるまた)には尊が野火を払うところが見事に彫刻されている。

  

東海道名主の館「小池邸」。小池邸は、江戸時代代々小池文右衛門を襲名して寺尾村の名主を代々務めていました。名主は年貢の取立、管理、戸籍事務、他村・領主との折衝等、

村政全般を扱い、村役人の中では、最も重要な役割を担っていました。

路上では、地元のミカン「青島みかん」が売っていましたので一つ買いました。ちょうど喉が渇いていたのでおいしくいただきました。

  

由比宿に入ってきました。由比宿は、16番目の小さな宿場で、現在、本陣、問屋場、高札場、一里塚、紀州藩七里役所などがありました。

1843年の資料によると家数160軒、本陣1、脇本陣1、旅籠32軒、人口712人でした。

「せがい造り」と「懸魚(けぎょ)」の家があります。せがい造りとは、柱の上部から腕木を出して支える棚をもつ民家のつくり。懸魚は、屋根の破風板に下がる大きな飾りが特徴のものです。

   

由比宿の脇本陣3軒は、順番に務めていました。文化3年(1806)には、徳田屋、次は羽根ノ屋(現在は更地)寛政5年(1793)に幕府に願い出しています。

天保12年(1841)では「温飩屋」になっています。

  

時刻も12時を廻っています。FBの友達(静岡市在住)から由比のおいしいお店を聞いていましたのでそちらでお昼をいただきます。

店名は、「海の庭」。せっかくですから由比名物の桜えびをいただきます。

   

「正雪紺屋」は、何代にも渡り紺屋を営む老舗で、現在も続いています。慶安4年(1651)の慶安の変(由比正雪の乱)の首謀者、由比正雪は、この家の生まれといわれています。

正雪は、幕府の政策への批判、浪人の救済を掲げて、浪人を集め、幕府転覆を計りましたが、仲間の裏切りに遭い、駿府で自刃しました。

   

由比本陣は、今川家の家臣として桶狭間で戦った由比氏が町に定住し、本陣となりました。1300坪(4300㎡)の広大な敷地は、そのまま残されていましたが、平成3年(1991)由比本陣公園として

整備されました。表門、石垣、珍しいタイプの水飲み場や東海道広重美術館、離れ座敷「御幸亭」などが建築されました。

   

本陣公園の中の広重美術館に入ります。入ると、版画体験ができたので早速挑戦します。

形は、由比の「薩埵峠」と蒲原宿の「夜の雪」。何色もの色を出すため何回も版を押します。出来上がったのが、これ(右の写真)です。なかなか難しいですね。

外では雨が本降りになったようです。

  

                                                                                                                                     つづく