よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

名護屋城跡へ。(佐賀県唐津市鎮西町)

2015-08-25 10:58:22 | 日記

今日(8/25)は、台風15号の接近で未明より風雨が強くなりました。この台風長崎~佐賀~福岡を通り日本海に抜けるそうですが、2006年の台風に似ており、被害が心配です。

福岡市内の交通機関もすべて始発からストップしております。外を見ると車もまばらな状態。

8/23は、道の駅「桃山天下市」に行った帰りに「名護屋城跡」に行ってきました。

  

この名護屋城跡、家内と付き合って初めてのデートコースでした。もう何十年も前の話です。

あの時は、この「名護屋城跡」そんなに有名ではなかったのですが、昨年の大河ドラマ「軍師・官兵衛」で一躍脚光を浴びるようになりました。

名護屋城は、豊臣秀吉が文禄・慶長の役(1592年~1598年)の際に国内拠点として築いた城です。わずか5カ月で築城され、当時の大阪城に次ぐ規模を誇っていました。

周辺には、全国から参集した大名の陣屋が130以上も建てられ、人口20万人を超える城下町が出現しました。国内でこれほどの名だたる武将が一堂に会した城、陣跡はありません。

関ヶ原の戦いのあと、寺沢広高が唐津城を築城した際にその一部の遺材を使ったと言われています。

その後、一国一城令(1615年)を受けて人為的に破却しました。(名古屋城パンフより)

参考:文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)は1592年(文禄元年、明および朝鮮:万暦20年)から1598年(日本: 慶長3年、明および朝鮮: 万暦26年)にかけて行われた戦争。

日本の豊臣秀吉が主導する遠征軍と 朝鮮および救援に駆けつけた明の軍との間で交渉を交えながら朝鮮半島を舞台にして戦われたこの国際戦争は、16世紀における世界最大の戦争とされる。

秀吉の「唐入り」構想に基づき、朝鮮に「征明嚮導」、つまり明への道案内を命じたところ、拒絶されたことから、まずは朝鮮を征服する目的として文禄の役が始まった。

朝鮮はほとんど無防備、無警戒に近い状態で、秀吉による攻撃を防ぐことはできなかった。その後、明からの援軍、朝鮮義兵の参加もあり、戦線は膠着した。

その他にも、明・中国を中心とした東アジアの支配体制・秩序への秀吉の挑戦であり、日本と中国の戦争だったという見方も存在する。

文禄の役は1592年(文禄元年)に始まって翌1593年(文禄2年)に休戦した。

また、慶長の役は1597年(慶長2年)講和交渉決裂によって始まり、1598年(慶長3年)の秀吉の死を受けた日本軍の撤退をもって終結した。(ウィキペディアより)

 

130もの陣屋は、大河ドラマに出てくるような武将の名前が記されています。

  

本丸跡。石碑は、東郷平八郎の書です。

  

青木月斗の句碑  「太閤が 睨みし 海の 霞かな」

この光景を太閤も見ていたのでしょうね。素晴らしい景色です。

天守台址です。バーチャルでその姿を再現してみると、

   

名護屋城跡を下りていくと、「佐賀県立名護屋城博物館」があります。(入場料無料)

入ってみると、韓国の村の守り神「チャンスン」が迎えてくれます。

この博物館には、名護屋城跡と日本と韓国の交流の歴史を展示されています。

  

何十年ぶりに名護屋城跡を訪れましたが、前、行ったときは、「名護屋城跡」の石碑しかありませんでしたが、こんなに整備されているのには、驚きました。

帰りにイカの生き作りでも食べようかと行きつけのお店に寄りましたが、行列ができていましたので諦めて帰路につきました。