鹿島アントラーズ原理主義

愛する鹿島アントラーズについて、屈折した意見を述べていく場です。

小澤、現役を続ける39歳

2013年11月04日 | Weblog
小澤英明・所属チームのない現役ゴールキーパー
2013.11.01
小宮良之●文 text by Komiya Yoshiyuki 藤田真郷●写真 photo by Fujita Masato



1974年3月17日生まれ。水戸短大付属高卒業後、鹿島アントラーズへ。94年、当時史上最年少でJデビュー。その後横浜F・マリノス、FC東京を経て04年、鹿島に復帰。2010年はスポルティボ・ルケーニョ(パラグアイ)でプレイ。2011年、アルビレックス新潟に移籍、2013年1月退団

「覚悟」
 千葉県、成田市。2013年9月、彼は行きつけのイタリアンレストランでランチを終え、3杯目となるブレンドコーヒーを飲みながら、何十回もその言葉を繰り返した。GKとしていかに振る舞うべきか――。92年に水戸短大附属高校を卒業して鹿島アントラーズでプロサッカー選手になってから、そのことに向き合わなかったことはただの一日もない。
「ゴールキーパーとしての覚悟は、今までにないほど強くなっています」
 39歳の偉丈夫は、篤実(とくじつ)さが染み出るような低い声音で言った。
「大袈裟かもしれませんが、自分がゴールキーパーとしてゴールマウスを守るときは、例えば嵐が巻き起こり、根こそぎすべてを吹き飛ばしたとしても、僕はそこにとどまりたい。粉々になっても匂いだけは残る、そんな風に生きたいんです。アントラーズでお世話になったジーコ、宮本(征勝)さんはそういう高潔な方たちだった。勝負に対する覚悟を持っていたというんですかね」
 彼の語る言葉には、名利(みょうり)に対して恬淡(てんたん)とした、人によっては頑迷にも映る、愚直な人柄が滲(にじ)む。
「先日、アルゼンチンリーグの試合を見ていたら、カウンターを食らったディフェンダーが必死にアタッカーを追走しながら躓(つまず)いてしまったんです。どうするかな、と思っていたら、転んだ勢いのまま顔からボールに飛び込み、シュートをブロックしたんですよ。僕としてはそういう覚悟の人たちと共に戦いたい。今は自分の中で覚悟さえできていれば、見合うべき人、場所に巡り会える、そう固く信じているんです」

 2013年1月31日にアルビレックス新潟とのプロ契約が切れて以来、彼には所属チームがない。年齢を考えれば、「引退した」と捉えているファンも少なくないだろう。地域のフットサルチームや女子チームの練習に参加しているというが、たった一人でGKがコンディションを保つことは容易ではない。それは精神的に過酷な日々のはずだが、彼は「濃厚な時間。ゴールキーパーである自分と雑念なしに向き合えますから」と笑う。
「プロサッカー選手」
 所属クラブのない彼がそう胸を張れるのは、”GKとして生きる”という壮絶な覚悟を貫いているからにほかならない。
「世の中では、いろんなことが動いています。東日本大震災や原発の被害だったり、地元が茨城なので穏やかな気持ちではないですよ。でもなにがあっても、自分の覚悟だけは形も色も匂いもなに一つ変わらないから」
 誠実な眼差しで口にするその内容は、いささか高邁でどこか可憐で浮き世離れしているが、木訥に我が道を信じる彼は、どんな選手よりも選手としての現実を生きている。
 小澤英明は92年に鹿島と契約後、1994年11月にJリーグ初出場を経験している。常勝クラブのGKとして、関係者の評価は高かった。アトランタ五輪本大会は腰の痛みで出場を断念したが、西野朗監督からは当初、背番号1をもらっていたほどだ。
 1997年に治療法を巡って鹿島を退団した後もアメリカで体を作り直し、痛みを完治させ、1998年10月には横浜マリノス(現横浜F・マリノス)と契約している。だがアトランタ世代の好敵手、川口能活が正GKに君臨していており、出場機会は限られた。そこで2000年3月にセレッソ大阪、2001年にFC東京、2004年に鹿島と移籍するも、いずれのクラブでも正GKの座を奪えなかった。

 小澤は2005年まで、リーグ戦出場はわずか10試合しかない。2009年10月の磐田戦のベンチ入りで、GK立石智紀の記録を抜くベンチ登録252試合の最多記録を樹立。実はセカンドGKとしての評価は「練習に手を抜かないから、チームに緊張感を与える。縁の下の力持ち」と関係者が絶賛するほどだった。実際、小澤加入後の鹿島はいくつものタイトルを獲得し、リーグ3連覇を記録。小澤退団(2009年)後はリーグ優勝がない。
「Jリーグ最高のセカンドGK」として引く手あまたの人材だった。
 しかしながら小澤は、自らを「セカンドGK」と認めたことは一度もない。
「自分がベンチにいながら、なぜ長い状況を生きてこられたか。それは、自分も同じようにピッチで戦っている気持ちになっていたからだと思います。たとえベンチにいても、試合に出たような精神状態で集中していました。だから90分が終わると、不思議と体が疲れていたんです」
 小澤は達観した笑みを頬に浮かべる。「Jリーグベンチ登録第1位」という記録は、本人には心外だった。
「練習のときから、“試合に出ているGKより自分は上回っている”という自負がありました。他のゴールキーパーが10本中7本止めれば、自分は8、9本止めてきたんです。“俺は勝っている”、その心理状態を繰り返すことで、ある境地に達しました。“出られない現実はあるにせよ、自分は乗り越えている、結果を出している、監督の決断がどうであれ”と悟れたんです。自分に酔っていると言われれば、それまでです。でも、ゴールキーパーはそうでもしなければやっていられない部分もありますから」

 GKたちは、狂気に似た矜持(きょうじ)を持っている。
 世界最高GKの呼び声が高いイケル・カシージャスは、1999年に優勝したワールドユースでは控えGKで、2試合にしか出場していない。ところが後日のインタビューで、「当時はサブでしたが」と前振りをすると、「なにを言っている? 俺は正ゴールキーパーだった」と真面目な顔で憤慨した。「しかし記録では」と反論しても、彼は全く取り合わなかった。驚くべきことに、カシージャスの脳内では「正GK」と記憶が上書きされていたのだ。
 GKはたった一人のためにあるポジションで、試合中の交代もほとんどない。11人の中で唯一、手を使うことが許されているが、そのために失点はほとんどすべての責任を背負わされ、孤独な立場にある。その結果、特異な精神構造が発達すると言われる。

小澤英明・パラグアイから国内復帰で味わった違和感
2013.11.02
小宮良之●文 text by Komiya Yoshiyuki 藤田真郷●写真 photo by Fujita Masato



1974年3月17日生まれ。水戸短大付属高卒業後、鹿島アントラーズへ。94年、当時史上最年少でJデビュー。その後横浜F・マリノス、FC東京を経て04年、鹿島に復帰。2010年はスポルティボ・ルケーニョ(パラグアイ)でプレイ。2011年、アルビレックス新潟に移籍、2013年1月退団

 小澤という男は、周りの人に対する敬意を常に払い、とりわけ目上の人には礼を欠かさない。それは茨城県行方市という北関東の素朴で謹直(きんちょく)な風土の残る土地において、公務員の父の一家で厳格に育てられたことも影響している。練習では裂帛(れっぱく)の気迫を見せながら、”野心を露(あら)わにして周囲と摩擦を起こす”という行為は慎んだ。プロに入ってからはさらに辛抱強く、自己犠牲を厭(いと)わない人格が固まった。
 その小澤が変貌を遂げるのは、2010年に鹿島を自ら去る決断をしてからのことだ。
「子供の頃からの夢だった海外でのプレイ」を志し、2010年2月にパラグアイ、スポルティボ・ルケーニョと契約。南米人の遠慮容赦のない世界に飛び込み、小澤は隠していた自分をついにさらけ出した。『賄賂(わいろ)でも送らなければポジションは取れない』と言われる環境で、かつて南米王者に輝いたオリンピア・アスンシオン戦でリーグ戦初出場を飾り、正GKの地位を手にしたのだ(詳しくは単行本『アンチ・ドロップアウト』、『フットボール・ラブ』)。
 殻を破った小澤は、帰国した2011年シーズンに新潟で生涯最高成績を収めている。同年4月、新潟のGK陣に故障者が出たことでシーズン途中に加入するや、スタジアムを沸かす堅守を見せ、プロとして初となるヒーローインタビューも受けた。37歳にしてシーズン最多となる公式戦20試合に出場。世界サッカー界広しと言えども、プロ20年目にして自己記録を大きく塗り替える選手は珍しい。

 一方で目覚めてしまった本性を持て余す自分がいたことも、小澤は純朴そうな皺(しわ)を顔中に作って告白している。
「新潟では、”殺気を抑えるクリーム”を全身に塗りたくるような毎日でしたね」
 ピッチに立つと、ほぼ反射的に殺気が肌に立ったという。パラグアイでの闘争で、殺気を放つことは習慣として身についていた。新潟では、パラグアイリーグだったら許されない緩慢なプレイを見るたび、血管が切れてしまいそうだった。
「パラグアイでの自分は、牙を剥き出しにできました。周りがそういう環境だったから違和感がなくて。向こうでは、結構多くの選手の指や足首の骨が変形しているんです。ある日、足首を脱臼し、足を引きずって戻ってきた選手が、強引に骨を入れられプレイを再開していました。『そこで壊れるなら、お前はもう終わり』という勝負の世界。でも、新潟では優しいトレーナーが『風邪が流行っているからマスクを配るぞ』という世界でした」
 断層で身を捩(よじ)った日々を振り返る。
「どちらがいいというのではないんです。自分に声を掛けてくれ、温かい気持ちで接してくれた新潟の人たちには、心から感謝しています。ただ、僕に対する選手やスタッフの戸惑いは伝わってきましたね。クラブのオフィシャルマガジンで、若い選手が『小澤さんは神』という表現をしていたことがあったんです。それほど近寄りがたかったんでしょう(苦笑)。自分としては生えてくる牙(きば)を折り、殺気にクリームでごまかしていたつもりなんですが」
 2012年シーズン、小澤は2節から4節まで3試合連続で先発出場を果たしたものの、その後は控えに甘んじることになった。長く故障で戦列を離れていた日本代表候補の東口順昭が復帰したからだ。

「自分としては、そういう経験は在籍したどこのクラブでも経験していたことだったので、“この試合(で交代)かな”というのはなんとなく分かるようになっちゃったんです。こういうもんだなっていう思いで受け止めてきましたね。ただ正直、Jリーグでは一番手と二番手の健全な競争が乏しい。僕は、競争することは大事だと思うんですよ。一番手のGKにとっても競うことで技術も上がるし、ケガをしない肉体もできるはずですから」
 小澤は怒りや不満を示すというより、諦念した口調で語った。
 シーズン終盤、天皇杯の3回戦で福島ユナイテッドと対戦したとき、小澤は新潟のゴールマウスを守っている。J1残留を争う最中、三つもカテゴリーが下の相手だけあって、試合出場機会の少ない選手ばかりの1.5軍の布陣。新潟は優勢に試合を進めるも、多くの好機を決めきれず、カウンターを浴びて敗れ去っている。これが小澤にとって新潟での公式戦、最後の試合になった。
「試合が終わった後、ほとんど狂いそうでした」と小澤は白状する。情念の奔流を抑えきれなかった。
「福島の選手は、たとえ無理だと分かってもボールに飛び込んできました。でも、新潟の選手は球際でケツを向けていたんです。失点シーンも、二人をフリーにして叩き込まれていました。それで試合後、『これで残留戦に集中できる』なんて声を聞いて、今日は勝負じゃなかったのかって、涙が止まらなかった。ストレッチが終わっても、しばらく立ち上がれなくて。でも、そのときにブラジル人選手から『ヒデ、それがフツーだよ。試合に負けて納得しているなんて恥ずかしい』と言われ、少しだけ救われました。

 新潟には新潟のやり方があるんだな、というのも分かるんです。サポーターは優しく接してくれるし、選手は真面目。それはそれで素晴らしいことだと思います。だから、周りと自分を見比べるのではなく、自分自身が日々をどう生きるか、ということだけを最後は考えるようになりました。もっとも、パラグアイで自分を解放してしまっただけに、いつも葛藤は抱えていましたが」
 チームが残留を懸けて戦う中、彼は磔(はりつけ)にされたような気の重さで、退団を心に決めていた。その後に行く宛はどこにもなかったが、のたうち回るうちに精も根も尽きてしまった。シーズン終盤、東口が再び故障で戦列を離れたとき、セカンドGKとしてメンバーに入っていた小澤の立場は変わらず、GKを任されたのがサードGKだったという屈辱も相当に大きかったはずだ。
 
12月の最終節後にクラブから、「来季は契約しません」との項目に印がされた通告書を手にしたとき、「詳しく説明したいから」というクラブの意向を振り切り、その翌日には彼を待つ家族の元に戻っている。

小澤英明・妻が語る孤高のゴールキーパー
2013.11.03
小宮良之●文 text by Komiya Yoshiyuki photo by AFLO



1974年3月17日生まれ。水戸短大付属高卒業後、鹿島アントラーズへ。94年、当時史上最年少でJデビュー。その後横浜F・マリノス、FC東京を経て04年、鹿島に復帰。2010年はスポルティボ・ルケーニョ(パラグアイ)でプレイ。2011年、アルビレックス新潟に移籍、2013年1月退団

「家に戻ると、新潟から帰った彼がリビングのソファに横たわっていたんですけど、”死んでいるんじゃないか”って心配しました」
 小澤の妻である明子夫人は、いつもは快活で明るい表情を曇らせて当時を振り返っている。
「漫画やドラマで、魂が本体から離脱する、みたいなシーンがあるじゃないですか? あれを思い出しました。生気を失って横たわる彼を目の当たりにして、一人で頑張っていたんだな、と痛感しましたね。
 夫は単身赴任で2年近く戦っていました。二人の娘が学校が休みの時には新潟を訪ね、できる限り長く滞在できるようにはしていたし、冷凍で作りおける手料理をたくさんタッパに詰めておいたりもしたんですが。そんなの焼け石に水だったんでしょうね。パラグアイでは本当にいつも家族全員一緒で四六時中会話をしていたので、寂しかったんだと思います。”しばらくは今のパパに愛情を注いであげないといけない”と心に決めました」
 その口調に女性らしい潔(いさぎよ)さと慈(いつく)しみが滲み出る。
「次の所属先が決まっていないことに関しては、不安がなかったといえば嘘になります。でも、”このまんま離れていたらダメになる”という焦りの方が強かったですね。夫婦といっても他人なわけじゃないですか? だから、世間では夫が稼げなくなると離婚するなんてこともたくさんあると思うんですよ。でも、私は性格的に逆境に燃えるんです! こんちくしょう、って頑張りたい。苦しいときにこそ笑いたいんです。
 ただそう思っていても、まだ本心を言えない部分はあったんでしょうね」

 2013年6月末、すでに蒸し暑さが忍び寄っていた日だった。小4と小6の娘を学校に送り出し、ランチを二人で食べるのが日課となっていた夫婦は、外食に出かけることにした。選んだのは、良い評判を聞いていた韓国料理レストランだった。オーダーを済ませると、夫が切り出した。
「ジムのインストラクターでもしようと思っている。少しはお金を家に入れないといけない。貯金を切り崩すだけでは」
 誠実な夫は、数ヵ月収入がなかったことに一種の罪悪感を感じていた。24時間の中で空いた時間を、家族のために活用したかった。以前に一度、妻に軽く相談したときは、「サッカー選手としてのトレーニングに集中するべき」と一蹴されていた。改めて、夫は食い下がった。
 しかし妻はやはり承服できず、ランチセットのデザートが来る頃には二人は言葉少なになったという。
 自宅に戻ってから、再度、その話題となって会話は次第に熱を帯びていった。真夏でもエアコンをつけないことが多いので、家の窓は基本的に開け放っているのだが、妻が気を遣って締めた。選手であることに執着するべきなのか、副業を持つべきなのか、家族の今と将来をどう考えているのか。会話のトーンは上がったが、内容は平行線を辿った。
「家族をここまで振り回して、今の気持ちのままではサッカーにも携わっていけない」
 思い悩む様子で夫は絞り出すように言った。
 その言葉を聞いた妻は、唐突に不安に駆られたという。”このままではパパが、大好きなサッカーから一生離れることになるんじゃないか”。しかし何をどう言うべきか分からない。すでに語気は荒げていたが、思っていることは伝わっていないもどかしさがあった。それに抗議したくて声にならない声を上げ、妻はリビングの椅子を持ち上げていた。それを床に激しくたたきつけると、床には穴ぼこがくっきりと残った。

 夫はその光景に、“妻の人格を生きたまま壊してしまった”と感じたという。高校生の頃、父を病気で亡くした彼は、人が少しずつ死んでいく様子を目に焼き付けていたが、数分前まで普通に喋っていた妻が、突然ろれつも回らなくなる姿を目にするとは思っていなかった。
「パパは奇人なので、そのくらいしないと深いところで会話ができないんです」
 明子夫人は少し照れ臭そうな笑みを浮かべて説明している。
「お互い本心を探り合うところがあったんだと思います。私自身、彼が言うことに対して、考えているのと逆のことを口にしていたのかもしれません。つまり、“復帰したい”というパパに、私は“頑張って“と言いながら、心のどこかで半分諦めさせようとしていたんだと思います。でも私はそう思う一方、“サッカーを続けて欲しい”という思いがすごく強かった。パパはパパで、サッカー選手を続けたいという強い気持ちはありながらも、現状に不安を感じていたんでしょうね。
 だから私が暴れたのは、お互いの方向性が食い違っていたのを、どうにかして一つにしたかったんだと思います。
 妻としては、今の平穏を求めて、彼がずっとやってきたことを台無しにはしたくありませんでした。ジムのインストラクターの話が出たとき、私は“パパは真面目な人だからそれに一生懸命になっちゃう”と怖くなったんです。もちろん二人の娘を育てるのは、親の責任と思っていますよ。ただ私は、パパのゴールキーパーとしての覚悟を誰よりも感じているので、『期間を決めてくれたら、家族で一緒に頑張れる』と言いました。そこでようやく夫婦が同じ思いになれたんです」

 妻は品良く口角を上げて笑った。チーム探しの期限は、ひとまず2014年の年明けまでと決めた。
「二人の娘たちも心配して、『パパ、サッカーやめちゃうの?』って聞いてきますね。だから私は、『大丈夫。今、パパは毎日一生懸命、練習しているからね』って答えると、笑顔になってくれます。ゴールキーパーとして生きるパパの想いは娘たちに伝わっていますし、その生き様を何代もずっと伝えていって欲しい。たしかに今はチームもなくて、底辺ですよ。でも、私たち家族はこれ以上は絶対に落ちない。それにパパの覚悟は、他の人にも分かるはずだから。きっと」

小澤英明・今もひとり、戦う場所を求めて
2013.11.04
小宮良之●文 text by Komiya Yoshiyuki 藤田真郷●写真 photo by Fujita Masato



1974年3月17日生まれ。水戸短大付属高卒業後、鹿島アントラーズへ。94年、当時史上最年少でJデビュー。その後横浜F・マリノス、FC東京を経て04年、鹿島に復帰。2010年はスポルティボ・ルケーニョ(パラグアイ)でプレイ。2011年、アルビレックス新潟に移籍、2013年1月退団

 2013年秋、小澤の携帯電話がバイブで着信を知らせていた。通話ボタンを押すと、腰の低い、丁寧な口調で礼を言った。
「トレーニングジムで知り合った方が、『栗が採れたから、取りに来なよ』って。人情を感じますよね」
 小澤は感謝の思いを口にした。
 新潟を退団してからはいくつかの入団オファーを受けていたが、いずれも丁重に断っていた。
 3月には北信越の地域リーグのクラブとタイのプレミアリーグから2チームが、「Jリーグで経験豊富な選手を」と名乗りを上げている。しかし夫婦が共通理解をする前で迷いがあったことと、「家族と遠く離れ、一人で暮らすべきではない」という妻の思いが大きく、断った。
 5月末には、トップチームのGKが戦線を離脱したJ1のクラブから契約の申し出を受けた。しかし、「復帰するまでの2ヵ月間だけいてくれればいい」という”非常勤”で(Jリーグ規約でそれは禁じられているために実際には6ヵ月契約の打診だった)、状況を考えれば悪い条件ではなかったが、小澤自身の覚悟には相応しくなかった。

 6月にはJリーグ参入を目指す県リーグのクラブから、「ホームページを見て声を掛けさせてもらいました」と連絡があった。熱意を感じて具体的な契約交渉を続けたが、”現場の指揮と給与を決定する人が同じ”というアマチュアクラブ特有の状況を想像すると、どうしても受け入れられず、最終的には詫びながら断りの電話を入れた。
 来年40歳になる”休業中”のGKにこれだけのオファーが舞い込いこんでいることは、彼がこの世界で評価されていることの証左だろう。しかも、それらの誘いを「武士は食わねど高楊枝」で断るという行為に、彼のひとかたならぬ決意が感じられる。
「所属チームはないですが、”ゴールキーパーとしての可能性は広がっている”と僕は確信しているんです」
 小澤は燃えるような目をして言う。
「毎日、午前中に近所の公園で体を動かしているんですが、週末には試合を想定し、”90分間ピッチに立つ”んです。体は反応するので、”1試合を終える”とかなり疲労しますね。芝生の公園ですが、周囲ではおじいちゃんやおばあちゃんがゲートボールをやっています。『お兄ちゃん、なんかの選手なのかね?』なんて興味深そうに話しかけられたりするんですよ」
 普段は口数の少ない男は、穏やかな顔つきで続ける。
「一人でトレーニングをしていれば、弱気になることもなりますよ。”試合だ”なんて言っても、誰も見ていませんし、自己満足のように思うこともあります。でもその度、『ヒデ、これくらい平気だろ!』って自分に発破をかけるんです。『今やっていることが、満員のスタジアムで同じことにつながると信じろ!』って。そうならないかもしれない、という思いを打ち消し、乗り越える。その繰り返しですよ」

 GKとして実直に生きてきた男は、飾りのない笑みを浮かべた。彼が闘争してきた世界。それは所属チームがあった時代も、本当の敵はクラブの起用方針など、いつもつかみどころはなかった。
「Jリーグでは200試合出場、300試合出場という表彰があったりするじゃないですか? その日はロッカールームでもお祝いムードになるというか。いつからか、周りの選手が僕に気を遣うようになったんです。自分は“俺さ、長くやってんのにベンチばっかりだからさ”なんて自虐ネタで笑わせられるタイプじゃないので、あれは困りました。ただ、自分には数字には出ないことを積み上げてきた自負はあるんです。数字だけ見ていたら、精神的にやられていますよ」
 小澤は苦笑を浮かべ、こう言葉を継いだ。
「パラグアイに渡った日本人移民の開拓時代の話を聞くと、自分の状況なんてなんでもないと考えられるんです。ジャングルに置き去りにされ、食糧も収穫できず、風土病に冒され、真面目な人ほど気が触れて崖から飛び降りたと聞きました。そんなとき、日本人はひたすらお月様を拝んで明日を信じたそうです。今の僕は、『明日、試合でゴールキーパーとしてお前の力が必要だ。力を貸してくれ』と言われたとき、すぐ戦える準備だけしているつもりです」
 小澤はGKとして、その日の練習で死んでもいい、という覚悟で挑んできた。彼と同じ志を、Jリーグのクラブで望むのは酷なのかもしれない。あまりに峻烈(しゅんれつ)な心構えといえる。それは周囲から見れば、狂気のように映るだろう。しかし、一流のプロアスリートはそもそも普通ではない。
「僕は自分のやっていることが、地味とか派手とか、そんなことは考えたことはないんです」
 小澤は古武士然とした剛直さで言う。
「2012年のJリーグの試合でのことです。久しぶりに会った(川口)能活が、『オザァ、すげえよ。おれより年上で現役なんてさ。スーパーグレートGKだよ!』なんて言ってきたんです。彼とはそんな会話を交わしたことなかったから、驚きましたね。僕は彼より2学年上なんですけど、能活のことはGKとしてリスペクトしてきたので、正直、彼の言葉に気持ちが熱くなったのを覚えています」

 96年のアトランタ五輪候補として凌ぎを削った二人は、記録や経歴だけを見れば、コインの表と裏のような人生を歩んでいる。しかしGKとしての覚悟は、なんら変わらないのかもしれない。あるいは、川口のように若い頃から殺気を表に出すことができていれば、小澤にも違った運命が開けていた、とも言える。だが、善良さと我慢強さから自我を抑えた十数年があるからこそ、今の小澤があるとも表現できる。
プロサッカー選手、小澤英明は今も戦う場所を求め続けている。
パラグアイ時代に小澤を高く評価したGKコーチは、今季のパラグアイリーグで優勝したナシオナルでコーチをしており、「戻ってこい!」と声を掛けてくることもあるという。少しも気持ちが動かないと言えば嘘になるが、“わがままは一度だけで十分だ”と弁(わきま)えている。そもそも、パラグアイのクラブでのプレイでは家族を養っていくだけの給料を稼ぐことは難しいのだ。
 たとえパラグアイではなくともGKとしての自分の覚悟に共鳴する存在が必ずある、と彼は信じている。
「最近、気付いてしまったんです。僕はサッカーが好きというより、ゴールキーパーであることが好きなんだなって(苦笑)。Arqueroと呼ばれると、心から喜びを感じるんですよ」
 Arqueroはアルケーロと読む。南米のスペイン語で、ゴールキーパーを意味する。親しい人へのメールやハガキの文末に、小澤は<Arquero Hide>と記すことにしている。


小澤の記事を掲載するSportivaである。
彼の思い、考えが伝わってくる。
いつも小澤の半生には感動させられ格好良く映る。
“わがままは一度だけで十分だ”
この言葉一つ取っても考えさせられることが多い。
現役を続ける小澤を賞賛したい。

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8 コメント

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Unknown (Unknown)
2013-11-04 09:31:00
小澤さんが退団してからリーグ優勝できなくなった。

鹿島サポ以外にはこじつけに思うでしょうが、クラハで練習見学するサポには小澤さんの魅力、影響力を再認識させてくれる記事です。

GKだけでなく他選手、特に若手への影響がある選手ですからね。
Unknown (しかまた)
2013-11-04 11:02:43
小澤に現代に生きる武士の魂を見た
彼を支える家族の愛を見た
これからもゴールマウスと家族を守り続けて下さい
Unknown (Unknown)
2013-11-04 15:20:58
読んでいて、心が揺さぶられる良い記事です。
また、色々と深く考えさせられました。

原理主義様、取り上げてくださって有難う御座いました。
Unknown (Unknown)
2013-11-04 16:24:59
熱い気持ちになりました。
素晴らしい選手が鹿島に在籍したことに誇りを持ちたいです。
小澤選手の活躍を祈ります。
感動 (moz)
2013-11-04 16:42:55
自然と涙が…
こんな選手いますかね?
Unknown (Unknown)
2013-11-04 20:52:16
Jリーグで1番プロ意識が高い、1番勝利へのこだわりが強い『鹿島』こそ、彼に相応しい場所だと改めて思いました。
鹿島はそういうストイックな選手じゃないと生き残れないチームですからね。
再び鹿島のユニフォームを着て欲しいと切に願います。
鹿島に集う多くの才能を昇華する1つの方法は、小澤選手のような『本物の』プロと接することだと思うので。
Unknown (らすとえんぺら)
2013-11-05 01:21:39
パラグアイ挑戦の時も記事を見て泣いたし、気持ちが熱くなったけど、今回もまた色々考えさせられた
未だに大好きな選手で応援してるけど、もはや一介のサッカー選手としてではなくて人間として尊敬してるし、自分の生き方を見直させてくれます

この覚悟をどこかで輝かせる日が来るのを、僕も信じることにします
本物の「プロ」 (Unknown)
2013-11-05 23:20:52
小澤さんは本物ですね。
本物のプロ。奢れる事も、くさる事もなく、ただただひたむきに、まっすぐに。
これを「気高い人」というのでしょう、きっと。

埼玉の赤いチームの人達、そして磐田に行った伊野なんとかに、小澤さんの爪の垢でも飲ませたい位です。