後味の悪かったJ20周年記念試合での誤審
古巣・鹿島に成長した姿の一端を見せた興梠
Text by 元川 悦子
93年5月15日、東京・国立競技場で行われた横浜マリノス対ヴェルディ川崎戦から始まったJリーグが発足20年を迎えた。世界中からスーパースターがやってきて、全てのスタジアムが超満員に膨れ上がった異様な熱気は今も脳裏に焼き付いて離れない。当初は10チームだったクラブ数もJ1J2合計40クラブに増え、Jの基本理念である地域密着も進んだ。確かに93年当時を考えてみれば、ヴァンフォーレ甲府や松本山雅のようなローカルクラブが生まれ、1万人超の観客動員をほぼコンスタントに記録するようになるなど、想像もしなかった。それだけ日本の隅々にサッカーが浸透したということだろう。
11日のJ1第11節・浦和レッズ対鹿島アントラーズ戦はJリーグ20周年記念試合と位置付けられ、かつて鹿島で活躍したアルシンドや浦和で活躍したポンテ、小野伸二(ウエスタン・シドニー)も来場。土砂降りの大雨にも関わらず4万6000人を超える大観衆が集まった。10節終了時点で4位・浦和と3位・鹿島の上位対決とあって、前半の内容は非常にクオリティが高く、凄まじい気迫が感じられた。
とりわけ、昨季まで8年間鹿島でプレーした興梠慎三と彼をつぶしにかかる岩政大樹のマッチアップは熾烈で、開始早々から2人が衝突するほどだった。「この1週間、慎三を止めることをすごく意識していた。彼も新しいチームに来て新たな自分を模索している段階で、前半はあまりボールが入らなかった」と岩政が話したように、興梠も思ったような動きができていなかった。「テンパって気合が空回りしていた」と興梠本人も苦笑いするしかなかった。2009年には埼玉スタジアムで3連覇を決めるゴールを奪っている男としては、どうにもならない複雑な思いが渦巻いて仕方なかったのだろう。
鹿島優勢の流れで0‐0で折り返した後半、負傷した宇賀神友弥に代わって途中出場した梅崎司が試合の流れを大きく変える。「前半はウチのサイドのよさがあまり出せていなかった。鹿島の4バックのスライドも遅れ気味になってきていたので、どんどん外から行こうと思った」と話す梅崎が積極的に仕掛け、シュートを狙い始め、鹿島守備陣に小さな綻びが生まれ始めた。
それでも、試合巧者の鹿島はワンチャンスを逃さない。後半18分の先制点の場面はGK曽ヶ端準のフィードがDFにあたってこぼれ、これを柴崎岳が拾って右に開いた野沢拓也へ展開。野沢はマークに来た阿部勇樹を巧みにかわしてエリア内に侵入。狙い澄ましたシュートを枠へ蹴り込んだ。2007年から3連覇した時の鹿島はこの虎の子の1点を守り切れた。常勝軍団復活を目指す彼らはそれを実践しなければならなかった。
だが、浦和はこの3分後、柏木陽介の右CKを那須大亮が決めて即座に同点に追いつく。この一撃は鹿島にとって非常に痛かった。勢いづく浦和はマルシオ・リシャルデスを投入し、陣形を少し変えて攻めに厚みを加える。流れは完全に彼らに傾いた。
問題のシーンが起きたのは後半33分だった。鈴木啓太から左でパスを受けた梅崎がドリブルで切りこんで中にクロスを上げた。これを頭で押し込んだのが興梠。「オフサイドじゃないかと思って線審を見た」と本人も言うように、彼はかなり微妙な位置にいた。映像で見るとオフサイドなのは明らか。しかし確認が取れなかったのか、主審はゴールを認めた。「Jリーグは20年経ってもレフリングは変わっていない。ラインズマンの無能さに失望した」とトニーニョ・セレーゾ監督は会見で言い放ったが、20周年を祝う大一番で誤審が出てしたのは後味が悪すぎた。得点に絡む判定は慎重かつ正確でなければならない。こんな場面が繰り返されないように、何らかの策を講じてくれなければ困る。結局、このゴールシーンによって試合が壊れ、鹿島は守備が崩壊。浦和が3‐1で勝利した。抗議によってイエローカードを受けた小笠原満男らは割り切れない思いが募ったのか、次々と無言でスタジアムを後にしていった。
興梠自身も複雑な思いはあっただろう。が、後半から冷静さを取り戻し、逆転弾を自ら叩き出し、鹿島時代には見せなかったポストプレーで3点目の起点を作った仕事ぶりは高く評価できる。「浦和に移籍してきてよかったということを示したかった」と本人は強調していたが、これで飛躍のきっかけをつかんでくれれば彼にとって一番いい。鵬翔高校時代は同い年の本田圭佑(CSKA)や岡崎慎司(シュツットガルト)より高く評価されていながら、鹿島で伸び悩み、日本代表にも定着しきれなかった興梠だけに、ここから巻き返しを図るしかない。ボール扱いやスキル、創造性、ゴール前のアイディアなどポテンシャルは非常に高い選手だからこそ、より厳しさが必要だ。古巣を地獄に突き落とすという非情さを学んだのは大きな経験になるだろう。ここからの興梠の進化に期待したいものだ。
Jリーグ20周年記念試合について記事を書く元川女史である。
特に新しい切り口はない。
ただ、浦和の興梠については、ここからの進化に期待したいと述べておる。
彼女が鹿島時代に見せなかったというポストプレイは、実際には随所に行っておった。
しかしながら、戻りオフサイドやハンドを取られて機能していなかっただけである。
そのあたりは、もう少し観ておいて欲しかったところ。
とはいえ、元川女史が鹿島番を外れてからレギュラーになった興梠について詳しいなれと言っても無理があろう。
また、興梠については、紳士たれと強いる鹿島では、自分のキャラクターを抑えつけることとなりストレスを抱えておったのではなかろうか。
悪しき行為も肯定される浦和というクラブが水に合っているのやも知れぬ。
相手選手を突き飛ばしたり、倒れている選手に挑発する姿を見るに付け、短期間で変わってしまったことを悲しく思っておった。
が、それが彼の本性であり、邪悪なるクラブに馴染むことこそが運命であったよう、今は思える。
それは、今は良かろう。
我らとしても、多少の距離を置きたい。
しかしながら、興梠が現役を終え、ユニフォームを脱いだ際に、どのクラブが最高であったかを思い起こして欲しい。
その時代になったときにこそ、懐の深さで改めて迎え入れたいと思う。
古巣・鹿島に成長した姿の一端を見せた興梠
Text by 元川 悦子
93年5月15日、東京・国立競技場で行われた横浜マリノス対ヴェルディ川崎戦から始まったJリーグが発足20年を迎えた。世界中からスーパースターがやってきて、全てのスタジアムが超満員に膨れ上がった異様な熱気は今も脳裏に焼き付いて離れない。当初は10チームだったクラブ数もJ1J2合計40クラブに増え、Jの基本理念である地域密着も進んだ。確かに93年当時を考えてみれば、ヴァンフォーレ甲府や松本山雅のようなローカルクラブが生まれ、1万人超の観客動員をほぼコンスタントに記録するようになるなど、想像もしなかった。それだけ日本の隅々にサッカーが浸透したということだろう。
11日のJ1第11節・浦和レッズ対鹿島アントラーズ戦はJリーグ20周年記念試合と位置付けられ、かつて鹿島で活躍したアルシンドや浦和で活躍したポンテ、小野伸二(ウエスタン・シドニー)も来場。土砂降りの大雨にも関わらず4万6000人を超える大観衆が集まった。10節終了時点で4位・浦和と3位・鹿島の上位対決とあって、前半の内容は非常にクオリティが高く、凄まじい気迫が感じられた。
とりわけ、昨季まで8年間鹿島でプレーした興梠慎三と彼をつぶしにかかる岩政大樹のマッチアップは熾烈で、開始早々から2人が衝突するほどだった。「この1週間、慎三を止めることをすごく意識していた。彼も新しいチームに来て新たな自分を模索している段階で、前半はあまりボールが入らなかった」と岩政が話したように、興梠も思ったような動きができていなかった。「テンパって気合が空回りしていた」と興梠本人も苦笑いするしかなかった。2009年には埼玉スタジアムで3連覇を決めるゴールを奪っている男としては、どうにもならない複雑な思いが渦巻いて仕方なかったのだろう。
鹿島優勢の流れで0‐0で折り返した後半、負傷した宇賀神友弥に代わって途中出場した梅崎司が試合の流れを大きく変える。「前半はウチのサイドのよさがあまり出せていなかった。鹿島の4バックのスライドも遅れ気味になってきていたので、どんどん外から行こうと思った」と話す梅崎が積極的に仕掛け、シュートを狙い始め、鹿島守備陣に小さな綻びが生まれ始めた。
それでも、試合巧者の鹿島はワンチャンスを逃さない。後半18分の先制点の場面はGK曽ヶ端準のフィードがDFにあたってこぼれ、これを柴崎岳が拾って右に開いた野沢拓也へ展開。野沢はマークに来た阿部勇樹を巧みにかわしてエリア内に侵入。狙い澄ましたシュートを枠へ蹴り込んだ。2007年から3連覇した時の鹿島はこの虎の子の1点を守り切れた。常勝軍団復活を目指す彼らはそれを実践しなければならなかった。
だが、浦和はこの3分後、柏木陽介の右CKを那須大亮が決めて即座に同点に追いつく。この一撃は鹿島にとって非常に痛かった。勢いづく浦和はマルシオ・リシャルデスを投入し、陣形を少し変えて攻めに厚みを加える。流れは完全に彼らに傾いた。
問題のシーンが起きたのは後半33分だった。鈴木啓太から左でパスを受けた梅崎がドリブルで切りこんで中にクロスを上げた。これを頭で押し込んだのが興梠。「オフサイドじゃないかと思って線審を見た」と本人も言うように、彼はかなり微妙な位置にいた。映像で見るとオフサイドなのは明らか。しかし確認が取れなかったのか、主審はゴールを認めた。「Jリーグは20年経ってもレフリングは変わっていない。ラインズマンの無能さに失望した」とトニーニョ・セレーゾ監督は会見で言い放ったが、20周年を祝う大一番で誤審が出てしたのは後味が悪すぎた。得点に絡む判定は慎重かつ正確でなければならない。こんな場面が繰り返されないように、何らかの策を講じてくれなければ困る。結局、このゴールシーンによって試合が壊れ、鹿島は守備が崩壊。浦和が3‐1で勝利した。抗議によってイエローカードを受けた小笠原満男らは割り切れない思いが募ったのか、次々と無言でスタジアムを後にしていった。
興梠自身も複雑な思いはあっただろう。が、後半から冷静さを取り戻し、逆転弾を自ら叩き出し、鹿島時代には見せなかったポストプレーで3点目の起点を作った仕事ぶりは高く評価できる。「浦和に移籍してきてよかったということを示したかった」と本人は強調していたが、これで飛躍のきっかけをつかんでくれれば彼にとって一番いい。鵬翔高校時代は同い年の本田圭佑(CSKA)や岡崎慎司(シュツットガルト)より高く評価されていながら、鹿島で伸び悩み、日本代表にも定着しきれなかった興梠だけに、ここから巻き返しを図るしかない。ボール扱いやスキル、創造性、ゴール前のアイディアなどポテンシャルは非常に高い選手だからこそ、より厳しさが必要だ。古巣を地獄に突き落とすという非情さを学んだのは大きな経験になるだろう。ここからの興梠の進化に期待したいものだ。
Jリーグ20周年記念試合について記事を書く元川女史である。
特に新しい切り口はない。
ただ、浦和の興梠については、ここからの進化に期待したいと述べておる。
彼女が鹿島時代に見せなかったというポストプレイは、実際には随所に行っておった。
しかしながら、戻りオフサイドやハンドを取られて機能していなかっただけである。
そのあたりは、もう少し観ておいて欲しかったところ。
とはいえ、元川女史が鹿島番を外れてからレギュラーになった興梠について詳しいなれと言っても無理があろう。
また、興梠については、紳士たれと強いる鹿島では、自分のキャラクターを抑えつけることとなりストレスを抱えておったのではなかろうか。
悪しき行為も肯定される浦和というクラブが水に合っているのやも知れぬ。
相手選手を突き飛ばしたり、倒れている選手に挑発する姿を見るに付け、短期間で変わってしまったことを悲しく思っておった。
が、それが彼の本性であり、邪悪なるクラブに馴染むことこそが運命であったよう、今は思える。
それは、今は良かろう。
我らとしても、多少の距離を置きたい。
しかしながら、興梠が現役を終え、ユニフォームを脱いだ際に、どのクラブが最高であったかを思い起こして欲しい。
その時代になったときにこそ、懐の深さで改めて迎え入れたいと思う。
鹿島時代でも1トップのポストやったことありましたよ。
それと、
>鵬翔高校時代は同い年の本田圭佑(CSKA)や岡崎慎司(シュツットガルト)より高く評価されていながら、鹿島で伸び悩み、日本代表にも定着しきれなかった興梠だけに、
本田圭佑は誓志と同い年で興梠じゃないし、興梠は高校時代は一度もU代表に選ばれたことのない無名の選手だった。
鹿島に内定してから初めてU代表に選出されましたからね。
と言うか鹿島のFWはポストも裏抜けもパス出しも標準以上やれないとレギュラー張れませんて