鹿島アントラーズ原理主義

愛する鹿島アントラーズについて、屈折した意見を述べていく場です。

植田、年代別代表での成長

2016年01月26日 | Weblog
岩波拓也と植田直通が紡いできた5年半。
U-23代表で蘇った「最強コンビ」。

posted2016/01/26 07:00


13日の北朝鮮戦で前半5分、CKに合わせて先制した植田(5番)を中心に歓喜する岩波(4番)たち。チームはこのまま1-0で逃げ切り勝利した。

text by
安藤隆人
Takahito Ando

photograph by
Takuya Sugiyama

 岩波拓也と植田直通。

 この2人は良きライバルでもあり、良き相棒でもある。

 今から5年前の2011年6月、メキシコで開催されたU-17W杯で、彼らは“天国と地獄”を見た。鈴木武蔵、中島翔哉、南野拓実、室屋成、牲川歩見も出場したこの大会。岩波と植田が不動のCBコンビを組んだU-17日本代表は、ジャマイカ、フランス、アルゼンチンという強豪ひしめくグループリーグを無敗で1位通過。決勝トーナメント初戦となるラウンド16でも、ニュージーランドを相手に6-0の圧勝劇で、ベスト8まで駒を進めた。

 この時、植田をリードし続けたのが岩波だった。この大会の植田はCBに転向して、僅か1年あまりだった。

「本能」の植田と、「頭脳」の岩波。

 植田は大津高校入学時に、その高さと強さ、ずば抜けた身体能力を平岡和徳監督に見初められ、FWからCBにコンバート。一気に頭角を現し、U-17W杯の1年前の2010年7月、CB転向から僅か4カ月弱でU-17日本代表に招集されていた。当時、すでに神戸U-18とU-16日本代表で安定感抜群のCBとして君臨していた岩波は、「植田はヘッドが強いし、前に強い。なので、チームコンセプトのボールポゼッションは僕がリードして、あいつのストロングポイントを前面に出せるようにしてみた」と、まだまだ荒削りだった植田を力強くサポートした。

 これに対し、「僕はCBのことは何も知らなかったので、岩波という手本をいろいろ真似して学んでいけた。基本的に僕は『教えて』と言うキャラじゃなくて(笑)。負けず嫌いなので、うまいプレーはどんどん盗んでいこうと思っていました。岩波からよく言われたのは基礎の部分で、本当に勉強になりました。でも絶対に負けたくないライバルでもあったので、自分の持ち味を磨く事はこだわりを持ってやっています」と、植田もそのサポートに感謝しつつも甘えず、自己研鑽を怠らなかった。

 そして、コンビを組んで1年後のU-17W杯に話は戻る。

 対人に強く、空中戦には圧倒的な強さを発揮する「本能」の植田と、クレバーな判断力と植田に負けない空中戦の強さ、そしてポジショニングの上手さを発揮する「頭脳」の岩波。この最強コンビは、U-17W杯という世界の舞台で輝きを放った。

ブラジルを相手に見た「世界の壁」。

 だが、迎えた準々決勝。王国・ブラジルを相手に、彼らは「世界の壁」を目の当たりにすることになる。

 前半にセットプレーから失点を許すと、後半立ち上がり早々にアデミウソン(現・G大阪)に鮮やかなシュートを決められ、その12分後にアドリアン(現・ナント、フランス)にも決められ、一気に3失点。その後、中島のゴールなどで2点を返すが届かず、2-3の敗戦を喫した。3失点以外の場面でも、岩波と植田はブラジルの多彩な攻撃に翻弄され続けていた。

「ブラジルのFWは本当に隙がない。体を寄せても、何もしていないのに入れ替わられてしまって、数的不利の状況を作られてしまう。しかも全員がしっかり悪いピッチに対しても足を踏み込めていた。ああいうFWを抑えていかないと、自分は世界の舞台に立てないことがはっきりと分かった」(岩波)

「DFとして3失点は凄く悔しい。特に2失点目は(アデミウソンに)行こうと思ったら、足が滑ってしまい、対応が遅れた。あそこは落ち着いてアデミウソンの前に入って、1対1を仕掛ければよかった。まだまだ自分がそういう判断を瞬時にできないということを痛感したし、まだまだ世界との差はあると痛感した」(植田)

明暗分かれた「最強コンビ」。

 再び彼らが同じチームになったのは、U-17の一つ上のカテゴリー、U-19日本代表だった。

 U-17W杯から約1年半後の2012年11月、あの時の悔しさを晴らすべく、翌年にトルコで開催されるU-20W杯出場を懸けたAFC・U-19選手権(UAE)に出場するU-19日本代表に、2人揃って選出された。だが、この大会で「最強コンビ」の明暗がくっきりと分かれてしまった。

 グループリーグ初戦のイラン戦、ピッチに立っていたのは、キャプテンマークを巻いた遠藤航と奈良竜樹だった。だが、第二戦のクウェート戦では岩波がキャプテンマークを巻いて、遠藤とCBコンビを組むことになっていた。岩波は決勝ゴールを挙げるなど、1-0の完封勝利に貢献。第三戦のUAE戦でも岩波は遠藤とのコンビで完封し、0-0のドロー。グループリーグ突破の立役者にまでなった。岩波が着実に主軸としての活躍を見せる一方で、植田はずっとベンチから戦況を見守る日々が続いた。

ベンチで見守る植田の気迫。

 そして、U-20W杯出場権をかけた、準々決勝のイラク戦。

 スタメン出場の岩波に対し、植田はベンチスタートと、変わらぬ図式のままキックオフの笛が鳴る。

「出番が来たら、全力を尽くす。来なくても、世界へのキップを取るために、裏方として全力を尽くす。それしか考えていなかった」

 気迫を持ってベンチで戦況を見つめた植田は、率先してベンチワークを手伝いつつ、出番を待った。「U-20W杯では絶対にレギュラーを奪ってやる」という強い決意を抱きながら……。

 しかし、イラクの圧倒的な攻撃力の前に、終始押し込まれたあげくに2失点を喫し、1-2の敗戦。タイムアップのホイッスルが鳴り響いた瞬間、岩波はその場でうなだれていた。

「バンッ!!!!!!」

 その時、物凄く大きな音が記者席まで響き渡った。

 驚いてその音の先を見ると、植田がベンチの壁を叩いていた。そして頭を抱え、壁に寄りかかったまま、しばらく動かなかった。

植田は、誰よりも悔しがっていた。

 ピッチ上にいる誰よりも悔しがっている植田の姿を目の当たりにし、筆者は驚きよりも心を打たれた。

 彼はこの大会中、1秒も出場することができなかった。相棒の岩波はレギュラーとして出場し続けており、モチベーションを保つのは非常に難しかったはずだ。その中で、彼は悔しさに耐え、チームの勝利を本気で欲し続け、サポート役に徹し続けた……。

「悔しかった。俺はこのチームのために何もできなかった。ベンチスタートでも、チームを盛り上げたかったし、いつでも出られるように準備をしていた。でも出場できなかったし、チームの勝利に貢献できなかった。自分の力不足を感じたし、自分にむかついた」

 この姿を見て、「植田は必ず主軸として代表の舞台に帰ってくるはず」と確信を抱いた。その代表の舞台とは、五輪代表とA代表。誰よりも強烈な闘争心と身体能力を持ち合わせた彼なら、この経験をバネに必ずより成長をしてくれると。

 それは岩波にも当てはまった。

「もう一度世界に出て、あの屈辱を晴らしたかった……。守りきれなかった自分に悔しさしかない」

 ブラジル戦での屈辱、そしてイラク戦での屈辱。2つの屈辱をピッチで体感した彼だからこそ、それをより成長するための礎にできると――。

カタールの地で再びコンビに。

 そして、あれから3年の月日が経ち、再び彼らがコンビを組むときがやってきた。リオ五輪出場を懸けたAFC・U-23選手権。2人は神戸と鹿島でプロとして経験を積み、共に日本代表からも呼ばれるなど、逞しさを増し、カタールの地で再び顔を合わせた。

 初戦の北朝鮮戦、「最強コンビ」は共にCBのスタメンとして名を連ねる。息のあったコンビでDFラインを統率すると、セットプレーから植田が決勝ゴールを挙げ、1-0の勝利に貢献。再びピッチでコンビを組んだ準々決勝のイラン戦は、相手の精度の高いショートカウンターに苦しみながらも、GK櫛引政敏と共に耐え続け、120分間を無失点に抑え、3-0の勝利の立役者となった。

 リオ五輪まであと1勝。

 準決勝の相手は屈辱を味わわされたイラク。

 因縁の相手を前に、「最強コンビ」は今、何を思うのか――。

 彼らが紡いで来た5年半の歳月の、1つの答えを出す時がやってきた。



チンチロリン


世代別代表での植田の成長を記すNumberの安藤氏である。
注目を浴びたU-17日本代表から、レギュラーポジションを奪われたU-19日本代表、そして現在のU-23日本代表である。
様々な経験、気持ちを経て今に至る。
CBとして大きく成長しておる。
本能だけではない。
この代表を牽引し、五輪に導くのだ。
植田の躍動を期待しておる。


チンチロリン

最新の画像もっと見る