【ルーツ探訪】柴崎岳――少年時代から貫く“ぶれない信念”の原点
安藤隆人
2015年06月13日
野辺地SSSで教えられたサッカーの楽しさと基本技術
日本代表ではコンスタントに結果を残し、主軸の座に近づきつつある柴崎。そのキャリアの出発点は、地元青森の野辺地SSSだった。写真:田中研治
雪国が生んだ国内屈指のゲームメーカーは、ただまっすぐに自分の信じる道を歩んできた。常に目標を定め、妥協を許さない信念は、サッカーの「楽しさ」を知った少年時代から変わらない。柴崎岳は、いかなる道をたどり選手として羽ばたいていったのか。彼を中学時代から追い続けてきた記者がレポートする。
(『サッカーダイジェスト』2015年2月12日号より転載)
――◆――◆――
冷静沈着な判断、達観したかのような目、相手を翻弄するプレーは、昔から変わらなかった。1992年5月28日。青森県の上北郡野辺地町で柴崎家の三男として生を受けた柴崎岳は、サッカーを始めたその時から別次元の存在感を放っていた。
「兄がふたりともサッカーをやっていました。僕自身はあまり興味が無かったのですが、小1の冬くらいに、兄が所属するフットサルチーム(野辺地SSS)の練習に父が連れて行ってくれたんです。その時に小3か小4のゲームに出て、いきなり5、6点決めたんですよ」
初めての試合で大量ゴール――。本人は軽く言うが、小3や小4との対戦で、小1の少年がいきなり大量点を奪って「楽しめた」のは、生まれ持った才能ゆえだろう。
「その後も試合に出て、毎試合、点を取りまくりました(笑)。ボールがゴールに飛んでいく感覚が面白くて、それでサッカーを始めましたね。もし、あそこでたくさん点を取っていなかったら、サッカーはやっていなかったかもしれない。面白かったらやるし、面白くなかったら大概のことはやらないですから(笑)」
自分の感覚を大事にする性格も、当時から変わらない。時に頑固と言えるほど、こだわりを持ってキャリアを重ねてきた。そんな柴崎はその後、多くの人に才を磨かれ、育てられていくことになる。
「初めて見た時に本当に巧いなと思いました。でも、それ以上に、負けず嫌いな子だなと感じましたよ」
そう語るのは、野辺地SSSで監督を務めた橋本正克だ。現在、柴崎の後援会代表理事を務める橋本は、柴崎を小3から小6まで指導した人物である。柴崎がった野辺地町はサッカーよりもスキーが盛んな土地柄で、当時はサッカーの指導者が絶対的に不足していた。そこで白羽の矢が立ったのが、以前にも野辺地SSSで監督を務めていた橋本だった。
「指導者が足りていないので、『また小学校でサッカーを教えてほしい』と言われたんです」と古巣に舞い戻ったところに、柴崎がいたのだ。
実は橋本は、先に述べた“柴崎の大量ゴール事件”の現場にも居合わせていた。
「あの時は、岳の兄を指導していて、小さい弟が付いてきたなという印象しかなかった」
それが今度は柴崎自身を指導する立場となり、小3になった彼のプレーを見て驚きを隠せなかったという。
「岳については、前任の指導者から『巧い子がいて、どうやって育てたら良いだろう』と相談を受けていたんです。ただ、実際に自分の目で見ると、考え方を覆されましたね。以前にも『この子は県の代表になれたらいいな』という選手はいたけど、岳は『全然違うな。県代表うんぬんの話じゃないな』と。『小3でここまでできるのか』と思いました」
多くの選手を見てきた橋本にとっても、柴崎は別格だった。
「プレースタイルは今と同じで、パスを出すタイミングや精度が、他の子とは全然違った。岳がパスを出してくれるから、周りもどんどん点が取れる感じでした。チームメイトの特長を一瞬のうちに読み取って、その子に合ったパスを出すんです」
まるでピッチを上から見下ろしているかのように周りの選手を活かす柴崎は、まさにダイヤの原石だった。ただ、橋本はその煌く才能を前に指導者として燃える一方で、葛藤も抱いたという。
「もし、こんな才能を潰してしまったら、日本サッカー界にとってとんでもない損失になる。自分がしっかりと指導し、次の指導者にバトンを渡さないといけないと思いましたよ」
そうした不安もあり、橋本はとにかく柴崎に基礎を徹底させた。持っているアイデアやイマジネーションを壊さずに、止める、蹴るの動作を植え付けて伸ばそうとしたのだ。
「野辺地の子は小さい頃からスキーを体育の一環としてやっているので、ある程度は身体ができているし、走力もある。だから、私たちは基本的なことを徹底的に教えました。インサイド、インステップ、トラップ。サッカーはそれができないと次のステップにいけないので、徹底しましたね。ただ、やっぱり岳はなにをやらせても一番巧かった」
雪国という環境が育んだ基礎体力だけでなく、天賦の才を持っていた柴崎は、サッカーの楽しさとベースとなる技術の重要性を、野辺地SSSで教えられたのだ。
悔し涙を流し続けた末についに掴んだ小6での歓喜。
いまや鹿島で不動のボランチとなった柴崎。人一倍の悔しがり屋は、少年時代から今も変わっていない彼のパーソナリティだ。写真:徳原隆元
今も変わっていない彼のパーソナリティがある。当時から、ひと一倍悔しがり屋だったことだ。
卓越した技術を持ち、チームでも抜きん出た存在だった柴崎のドリブルは、同級生ではとても止められなかった。そのため、1対1のトレーニングは監督である橋本と行なっていた。当然、小学生が大人に勝てるわけがない。しかし、そこで負けると柴崎は涙を流したという。
「初めて見ましたよ。普通は大人に負けても、それほど悔しくないはずなんです。それなのに、岳は違った」
エピソードは他にもある。小4のフットサル県大会でのことだ。相手に激しいマークを受けた柴崎は、冷静さを失い、本来のプレーができなかった。それを受けて、橋本はたまらず中心選手であった柴崎を交代させた。すると柴崎は、そのままベンチで号泣。また、ひとつ学年が上がった5年生の春。今度はサッカーの新人戦決勝で敗れてしまった。そこでも柴崎は、ひと目もはばからず涙を流した。
さらに小6になると、チームの中でも身体が大きかった柴崎は、すべてにおいてチームの要となっていた。だが、5月の全日本少年サッカー大会でまたも苦い経験をする。勝てば全国大会につながる大事な県予選決勝で、弘前市の選抜チームに敗退してしまったのだ。
「そこでも岳は泣きましたね。もう4年生、5年生、6年生の5月までは、県大会で悔し涙しかなかったと思います」(橋本)
勝ちたい。負けたくない。この強い気持ちが、柴崎を突き動かしていた。勝つために全力を尽くすがゆえに、どんな敗北も受け入れられないのだ。これは彼の美学であり、信念と言っていい。だからこそ、天賦の才に驕らず、まっすぐに成長できたのだろう。
当然、涙の先には歓喜がある。
小6の青森県少年サッカー大会で、野辺地SSSは初優勝を飾った。この優勝で勢いに乗ったチームは、その後の東北大会の県大会も制し、全日本フットサル大会県予選(バーモントカップ予選)でも優勝。小学生フットサルの全国大会である、バーモントカップに出場した。
「ただ、初めての全国大会となったバーモントカップは、私自身の大きな反省があるんです。試合前日に現地に移動してしまった。準備不足ですよね。メンバーは揃っていたんですが、勝てませんでした」
当時のエピソードを、橋本は懐かしそうに語る。確かに、全国の舞台に万全の状態で挑めなかったのは、悔いが残ることだろう。だが、青森の小さなクラブが、一気に全国大会に勝ち進むのは、まさに快挙だ。そのドラマの主人公となった柴崎は、瞬く間に青森では誰もが知る存在となっていた。
自分より上の選手と切磋琢磨したいと青森山田への進学を決断。
青森山田高時代には、2年時に選手権で準優勝。準決勝では現在鹿島でチームメイトの梅鉢を擁する関大一にPK戦で競り勝った。写真:滝川敏之(サッカーダイジェスト写真部)
こうした小学生時代の活躍は、柴崎の将来を大きく膨らませた、ある男の目にも止まる。
「ひとりだけ次元が違った。小学生なのに、あれだけ周りが見えている。だから、プレーに変化を加えられた。すぐに欲しいと思ったよ」
こう語るのは、青森山田高の黒田剛監督だ。青森山田高を全国屈指の強豪校に育て上げた指揮官は当時、附属の青森山田中の強化に乗り出していた。当然、県内で有名になっていた野辺地町の天才少年に一目惚れしないわけがない。黒田は、その才能に無限の可能性を感じ、すぐさま青森山田中への進学を勧めた。
一方、柴崎も黒田の誘いを好意的に受け止めていた。しかし、本人の意思とは裏腹に、最初は両親に青森山田行きを反対されたという。
「その反対を押し切って行くことにしました。(黒田監督に)声をかけてもらうまでは、地元の野辺地中に進もうと思っていましたけど、青森山田から誘いを頂いたので迷わず決めました。元々、興味はあったんです。小6の時に入っていた県トレセンのチームで、ひとつ年上のトレセンチームと試合をした時に青森山田中の選手が何人かいて、その相手にあまりにも自分のプレーが通用しなかった。だから、自分より実力が上の選手がいるところで成長したいと思っていたのもありました」(柴崎)
ライバルが見当たらなかった柴崎は、自分より上の存在がいることが嬉しくて仕方がなかった。これは今も当てはまるが、この男は常に『自分が一番』という環境を嫌う。
「僕は目に見えて分かることが好きなんです。例えば、小6の時は通用しなかったけど、新しい環境(青森山田中)で、すべてが通用するようになった時は、自分が成長しているんだと実感できますから」(柴崎)
常に超えるべき目標を求め、そこから学び、自身を高めることに喜びを見出す。そんな柴崎にとって、青森山田中からの誘いは、このうえないチャンスだった。両親にも、その熱意が伝わったのだろう。最終的には彼の強い意志を尊重し、快く青森山田への進学を了承したそうだ。
当時の青森山田中の同級生は、豪華な顔ぶれだった。現在、清水で正GKを務める櫛引政敏も黒田監督に声をかけられ、青森県内の小学校からやってきた。同じ野辺地SSS出身で後に選手権準優勝メンバーとなる横濱充俊もまた、一緒に進学した。
堂々たるプレーを見せた中学3年での“高校デビュー”。
順調に成長を遂げた柴崎は、高校2年時にU-17ワールドカップに出場。ネイマール擁するブラジルとも戦っている。(C) Getty Images
チームメイトに恵まれた柴崎は、青森山田中で実力をメキメキと伸ばしていった。2年生の頃には、すでにチームの大黒柱として活躍。その年の全国中学校サッカー大会では、準決勝で日章学園中に敗退したものの3位という好成績を収めた。しかし、ここでも負けず嫌いの虫が騒ぎ出す。3位の表彰式の列に柴崎の姿がなかったのだ。
黒田監督は当時を振り返り、こう証言する。
「気付いたらいなくなっていた。スタッフで手分けして岳を探しに行ったら、スタジアムの隅っこの階段の下で、膝を抱えて泣いていた」
こうしたケースは、一度だけではなかった。小学生の頃と同じく、試合に負けると輪から外れて、誰もいないところで泣いていたという。
そんな柴崎に転機が訪れたのは、中学3年に進級する春だった。別格のプレーを見せていた実績を買われ、飛び級で高校のチームに参加するようになったのである。
2007年3月。全国の強豪校、強豪Jクラブユースが集結するマリノスタウンカップ(現F・マリノスカップ)が、中学生だった柴崎の“高校デビュー”戦だ。
「今日は期待の中学生を連れてきているから、このチームでどう機能するか楽しみだよ」
当時の黒田監督はそう語っていたが、この大会で青森山田高のスタメンとしてプレーした柴崎は、強豪相手に、そして年上のチームメイトを相手にまったく遠慮せず、ボランチとして堂々たる存在感を見せた。そのプレーの精度はもちろん、落ち着き払った佇まいは衝撃的だった。
「年齢は関係ないと思っています。僕は一番年下ですが、サッカーなのでやることは変わらないし、こうして巧い人たちとできるので、チャンスだと思っています」
これは、当時の柴崎の言葉だ。プレーもさることながら、言動にもまったく臆するところがない。初めて彼のプレーを目にした者は、おそらく彼が中学2年生だったとは気づかなかっただろう。
その後、中学の最終学年を迎えてからも、高校のレギュラーとしてプリンスリーグ東北、全日本ユースで活躍する。U-15日本代表にも選出され、柴崎と同じく中3の時から飛び級でG大阪ユースのレギュラーとしてプリンスリーグ関西や全日本ユースで活躍していた宇佐美貴史といったライバルたちと切磋琢磨し、メキメキと実力を伸ばしていった。
年代別代表で宇佐美が良きライバルに。青森が育んだ“ぶれない信念”は今もまったく変わらない。
年代別代表時代から切磋琢磨してきた宇佐美(11)。イラク戦では、ともにスタメン出場し輝きを放った。写真:佐藤 明(サッカーダイジェスト写真部)
年代別代表でのプレーは、やはり柴崎にとって刺激になったようで、特に宇佐美に対しては当時から特別な感情を持っていた。
「僕には常に上がいる。宇佐美は本当に凄い選手。でも、宇佐美は僕にはないものを持っているけど、僕も宇佐美にないものを持っている」
同世代でも抜きん出た実力者だった宇佐美は、柴崎にとっても「凄い」と素直に思える選手だった。ただ、自分も負けていない。その反骨心が、また彼の成長を助けた。
中学生時代から高校生に混じってプレーしていた柴崎は、進学して青森山田高の一員になると、1年から10番を背負う不動の存在となる。U-16、U-17日本代表でも背番号10を託され、アジアと世界を経験した。
「サッカーに取り組む姿勢は群を抜いていた。自らのプレーや取り組みで、仲間に示そうとしていたね。そのなかで、スキルアップを目指して、抜かりなくトレーニングしていた」(黒田)
柴崎の成長速度は衰えなかった。そして、高2の選手権で準優勝。柴崎の名前は一気に全国にまで広まった。その時、彼はこう話している。
「選手権の実況で、僕のことを『リトル遠藤(保仁)』と言っていたのは嫌だった。もう言われたくないですね。来年はなんて言われるんですかね(笑)。もう『リトル』はないかな。『○○二世』は嫌だな。そう言われないように頑張ります」
自分は自分。人は人。成長に必要な目標やライバルを歓迎する一方で、自分がその人物になりたい訳ではない。それもまた、負けず嫌いがなせる業か。
高2の選手権後に鹿島入りを早々に決め、「これで逃げ道は無くなった。プロとして恥ずかしくないプレーをしないといけない」と、自分に厳しく、かつ信念を持って挑んだ高校最後の1年も妥協はなかった。高3の1年間は『プロとしての立ち居振る舞い』をピッチ内外で貫いた時間でもある。だからこそ、彼は鹿島に入って1年目から活躍の場を確保し、さらに成長できたのだろう。
「小1でサッカーを始めて、プロがあることを知った時から、ずっと目標としていました。その考え方がぶれることは一切なかった」
念願の日本代表にまで登り詰め、誰もが認める鹿島の主力になった今でも、柴崎の根っこにあるものは同じだ。
「僕は周りに対して後ろから付いていくタイプではない。監督やコーチ、ベテランの人の意見を参考にしながら、やっぱり自分が思ったとおりにやっています」
ぶれない信念を橋本、黒田をはじめとする指導者たちに認められ、大切に伸ばされてきたからこそ、今がある。柴崎は青森の地で育んだスタンスを変えることなく、今も黙々と前進を続けている。
(文中敬称略)
取材・文:安藤隆人(サッカージャーナリスト)
岳のここまでの足跡を綴るサッカーダイジェスト誌である。
岳の向上心が強く伝わってくる。
「ブレない」「負けず嫌い」とも評されるが、やはり、常に上を目指すという気持ちがそうさせておるのであろう。
鹿島にて主軸となり、日本代表でも中心選手となろうとしている。
一歩一歩確実に階段を昇っていることがわかる。
更に大きくなる柴崎岳を観ることとなろう。
楽しみである。
安藤隆人
2015年06月13日
野辺地SSSで教えられたサッカーの楽しさと基本技術
日本代表ではコンスタントに結果を残し、主軸の座に近づきつつある柴崎。そのキャリアの出発点は、地元青森の野辺地SSSだった。写真:田中研治
雪国が生んだ国内屈指のゲームメーカーは、ただまっすぐに自分の信じる道を歩んできた。常に目標を定め、妥協を許さない信念は、サッカーの「楽しさ」を知った少年時代から変わらない。柴崎岳は、いかなる道をたどり選手として羽ばたいていったのか。彼を中学時代から追い続けてきた記者がレポートする。
(『サッカーダイジェスト』2015年2月12日号より転載)
――◆――◆――
冷静沈着な判断、達観したかのような目、相手を翻弄するプレーは、昔から変わらなかった。1992年5月28日。青森県の上北郡野辺地町で柴崎家の三男として生を受けた柴崎岳は、サッカーを始めたその時から別次元の存在感を放っていた。
「兄がふたりともサッカーをやっていました。僕自身はあまり興味が無かったのですが、小1の冬くらいに、兄が所属するフットサルチーム(野辺地SSS)の練習に父が連れて行ってくれたんです。その時に小3か小4のゲームに出て、いきなり5、6点決めたんですよ」
初めての試合で大量ゴール――。本人は軽く言うが、小3や小4との対戦で、小1の少年がいきなり大量点を奪って「楽しめた」のは、生まれ持った才能ゆえだろう。
「その後も試合に出て、毎試合、点を取りまくりました(笑)。ボールがゴールに飛んでいく感覚が面白くて、それでサッカーを始めましたね。もし、あそこでたくさん点を取っていなかったら、サッカーはやっていなかったかもしれない。面白かったらやるし、面白くなかったら大概のことはやらないですから(笑)」
自分の感覚を大事にする性格も、当時から変わらない。時に頑固と言えるほど、こだわりを持ってキャリアを重ねてきた。そんな柴崎はその後、多くの人に才を磨かれ、育てられていくことになる。
「初めて見た時に本当に巧いなと思いました。でも、それ以上に、負けず嫌いな子だなと感じましたよ」
そう語るのは、野辺地SSSで監督を務めた橋本正克だ。現在、柴崎の後援会代表理事を務める橋本は、柴崎を小3から小6まで指導した人物である。柴崎がった野辺地町はサッカーよりもスキーが盛んな土地柄で、当時はサッカーの指導者が絶対的に不足していた。そこで白羽の矢が立ったのが、以前にも野辺地SSSで監督を務めていた橋本だった。
「指導者が足りていないので、『また小学校でサッカーを教えてほしい』と言われたんです」と古巣に舞い戻ったところに、柴崎がいたのだ。
実は橋本は、先に述べた“柴崎の大量ゴール事件”の現場にも居合わせていた。
「あの時は、岳の兄を指導していて、小さい弟が付いてきたなという印象しかなかった」
それが今度は柴崎自身を指導する立場となり、小3になった彼のプレーを見て驚きを隠せなかったという。
「岳については、前任の指導者から『巧い子がいて、どうやって育てたら良いだろう』と相談を受けていたんです。ただ、実際に自分の目で見ると、考え方を覆されましたね。以前にも『この子は県の代表になれたらいいな』という選手はいたけど、岳は『全然違うな。県代表うんぬんの話じゃないな』と。『小3でここまでできるのか』と思いました」
多くの選手を見てきた橋本にとっても、柴崎は別格だった。
「プレースタイルは今と同じで、パスを出すタイミングや精度が、他の子とは全然違った。岳がパスを出してくれるから、周りもどんどん点が取れる感じでした。チームメイトの特長を一瞬のうちに読み取って、その子に合ったパスを出すんです」
まるでピッチを上から見下ろしているかのように周りの選手を活かす柴崎は、まさにダイヤの原石だった。ただ、橋本はその煌く才能を前に指導者として燃える一方で、葛藤も抱いたという。
「もし、こんな才能を潰してしまったら、日本サッカー界にとってとんでもない損失になる。自分がしっかりと指導し、次の指導者にバトンを渡さないといけないと思いましたよ」
そうした不安もあり、橋本はとにかく柴崎に基礎を徹底させた。持っているアイデアやイマジネーションを壊さずに、止める、蹴るの動作を植え付けて伸ばそうとしたのだ。
「野辺地の子は小さい頃からスキーを体育の一環としてやっているので、ある程度は身体ができているし、走力もある。だから、私たちは基本的なことを徹底的に教えました。インサイド、インステップ、トラップ。サッカーはそれができないと次のステップにいけないので、徹底しましたね。ただ、やっぱり岳はなにをやらせても一番巧かった」
雪国という環境が育んだ基礎体力だけでなく、天賦の才を持っていた柴崎は、サッカーの楽しさとベースとなる技術の重要性を、野辺地SSSで教えられたのだ。
悔し涙を流し続けた末についに掴んだ小6での歓喜。
いまや鹿島で不動のボランチとなった柴崎。人一倍の悔しがり屋は、少年時代から今も変わっていない彼のパーソナリティだ。写真:徳原隆元
今も変わっていない彼のパーソナリティがある。当時から、ひと一倍悔しがり屋だったことだ。
卓越した技術を持ち、チームでも抜きん出た存在だった柴崎のドリブルは、同級生ではとても止められなかった。そのため、1対1のトレーニングは監督である橋本と行なっていた。当然、小学生が大人に勝てるわけがない。しかし、そこで負けると柴崎は涙を流したという。
「初めて見ましたよ。普通は大人に負けても、それほど悔しくないはずなんです。それなのに、岳は違った」
エピソードは他にもある。小4のフットサル県大会でのことだ。相手に激しいマークを受けた柴崎は、冷静さを失い、本来のプレーができなかった。それを受けて、橋本はたまらず中心選手であった柴崎を交代させた。すると柴崎は、そのままベンチで号泣。また、ひとつ学年が上がった5年生の春。今度はサッカーの新人戦決勝で敗れてしまった。そこでも柴崎は、ひと目もはばからず涙を流した。
さらに小6になると、チームの中でも身体が大きかった柴崎は、すべてにおいてチームの要となっていた。だが、5月の全日本少年サッカー大会でまたも苦い経験をする。勝てば全国大会につながる大事な県予選決勝で、弘前市の選抜チームに敗退してしまったのだ。
「そこでも岳は泣きましたね。もう4年生、5年生、6年生の5月までは、県大会で悔し涙しかなかったと思います」(橋本)
勝ちたい。負けたくない。この強い気持ちが、柴崎を突き動かしていた。勝つために全力を尽くすがゆえに、どんな敗北も受け入れられないのだ。これは彼の美学であり、信念と言っていい。だからこそ、天賦の才に驕らず、まっすぐに成長できたのだろう。
当然、涙の先には歓喜がある。
小6の青森県少年サッカー大会で、野辺地SSSは初優勝を飾った。この優勝で勢いに乗ったチームは、その後の東北大会の県大会も制し、全日本フットサル大会県予選(バーモントカップ予選)でも優勝。小学生フットサルの全国大会である、バーモントカップに出場した。
「ただ、初めての全国大会となったバーモントカップは、私自身の大きな反省があるんです。試合前日に現地に移動してしまった。準備不足ですよね。メンバーは揃っていたんですが、勝てませんでした」
当時のエピソードを、橋本は懐かしそうに語る。確かに、全国の舞台に万全の状態で挑めなかったのは、悔いが残ることだろう。だが、青森の小さなクラブが、一気に全国大会に勝ち進むのは、まさに快挙だ。そのドラマの主人公となった柴崎は、瞬く間に青森では誰もが知る存在となっていた。
自分より上の選手と切磋琢磨したいと青森山田への進学を決断。
青森山田高時代には、2年時に選手権で準優勝。準決勝では現在鹿島でチームメイトの梅鉢を擁する関大一にPK戦で競り勝った。写真:滝川敏之(サッカーダイジェスト写真部)
こうした小学生時代の活躍は、柴崎の将来を大きく膨らませた、ある男の目にも止まる。
「ひとりだけ次元が違った。小学生なのに、あれだけ周りが見えている。だから、プレーに変化を加えられた。すぐに欲しいと思ったよ」
こう語るのは、青森山田高の黒田剛監督だ。青森山田高を全国屈指の強豪校に育て上げた指揮官は当時、附属の青森山田中の強化に乗り出していた。当然、県内で有名になっていた野辺地町の天才少年に一目惚れしないわけがない。黒田は、その才能に無限の可能性を感じ、すぐさま青森山田中への進学を勧めた。
一方、柴崎も黒田の誘いを好意的に受け止めていた。しかし、本人の意思とは裏腹に、最初は両親に青森山田行きを反対されたという。
「その反対を押し切って行くことにしました。(黒田監督に)声をかけてもらうまでは、地元の野辺地中に進もうと思っていましたけど、青森山田から誘いを頂いたので迷わず決めました。元々、興味はあったんです。小6の時に入っていた県トレセンのチームで、ひとつ年上のトレセンチームと試合をした時に青森山田中の選手が何人かいて、その相手にあまりにも自分のプレーが通用しなかった。だから、自分より実力が上の選手がいるところで成長したいと思っていたのもありました」(柴崎)
ライバルが見当たらなかった柴崎は、自分より上の存在がいることが嬉しくて仕方がなかった。これは今も当てはまるが、この男は常に『自分が一番』という環境を嫌う。
「僕は目に見えて分かることが好きなんです。例えば、小6の時は通用しなかったけど、新しい環境(青森山田中)で、すべてが通用するようになった時は、自分が成長しているんだと実感できますから」(柴崎)
常に超えるべき目標を求め、そこから学び、自身を高めることに喜びを見出す。そんな柴崎にとって、青森山田中からの誘いは、このうえないチャンスだった。両親にも、その熱意が伝わったのだろう。最終的には彼の強い意志を尊重し、快く青森山田への進学を了承したそうだ。
当時の青森山田中の同級生は、豪華な顔ぶれだった。現在、清水で正GKを務める櫛引政敏も黒田監督に声をかけられ、青森県内の小学校からやってきた。同じ野辺地SSS出身で後に選手権準優勝メンバーとなる横濱充俊もまた、一緒に進学した。
堂々たるプレーを見せた中学3年での“高校デビュー”。
順調に成長を遂げた柴崎は、高校2年時にU-17ワールドカップに出場。ネイマール擁するブラジルとも戦っている。(C) Getty Images
チームメイトに恵まれた柴崎は、青森山田中で実力をメキメキと伸ばしていった。2年生の頃には、すでにチームの大黒柱として活躍。その年の全国中学校サッカー大会では、準決勝で日章学園中に敗退したものの3位という好成績を収めた。しかし、ここでも負けず嫌いの虫が騒ぎ出す。3位の表彰式の列に柴崎の姿がなかったのだ。
黒田監督は当時を振り返り、こう証言する。
「気付いたらいなくなっていた。スタッフで手分けして岳を探しに行ったら、スタジアムの隅っこの階段の下で、膝を抱えて泣いていた」
こうしたケースは、一度だけではなかった。小学生の頃と同じく、試合に負けると輪から外れて、誰もいないところで泣いていたという。
そんな柴崎に転機が訪れたのは、中学3年に進級する春だった。別格のプレーを見せていた実績を買われ、飛び級で高校のチームに参加するようになったのである。
2007年3月。全国の強豪校、強豪Jクラブユースが集結するマリノスタウンカップ(現F・マリノスカップ)が、中学生だった柴崎の“高校デビュー”戦だ。
「今日は期待の中学生を連れてきているから、このチームでどう機能するか楽しみだよ」
当時の黒田監督はそう語っていたが、この大会で青森山田高のスタメンとしてプレーした柴崎は、強豪相手に、そして年上のチームメイトを相手にまったく遠慮せず、ボランチとして堂々たる存在感を見せた。そのプレーの精度はもちろん、落ち着き払った佇まいは衝撃的だった。
「年齢は関係ないと思っています。僕は一番年下ですが、サッカーなのでやることは変わらないし、こうして巧い人たちとできるので、チャンスだと思っています」
これは、当時の柴崎の言葉だ。プレーもさることながら、言動にもまったく臆するところがない。初めて彼のプレーを目にした者は、おそらく彼が中学2年生だったとは気づかなかっただろう。
その後、中学の最終学年を迎えてからも、高校のレギュラーとしてプリンスリーグ東北、全日本ユースで活躍する。U-15日本代表にも選出され、柴崎と同じく中3の時から飛び級でG大阪ユースのレギュラーとしてプリンスリーグ関西や全日本ユースで活躍していた宇佐美貴史といったライバルたちと切磋琢磨し、メキメキと実力を伸ばしていった。
年代別代表で宇佐美が良きライバルに。青森が育んだ“ぶれない信念”は今もまったく変わらない。
年代別代表時代から切磋琢磨してきた宇佐美(11)。イラク戦では、ともにスタメン出場し輝きを放った。写真:佐藤 明(サッカーダイジェスト写真部)
年代別代表でのプレーは、やはり柴崎にとって刺激になったようで、特に宇佐美に対しては当時から特別な感情を持っていた。
「僕には常に上がいる。宇佐美は本当に凄い選手。でも、宇佐美は僕にはないものを持っているけど、僕も宇佐美にないものを持っている」
同世代でも抜きん出た実力者だった宇佐美は、柴崎にとっても「凄い」と素直に思える選手だった。ただ、自分も負けていない。その反骨心が、また彼の成長を助けた。
中学生時代から高校生に混じってプレーしていた柴崎は、進学して青森山田高の一員になると、1年から10番を背負う不動の存在となる。U-16、U-17日本代表でも背番号10を託され、アジアと世界を経験した。
「サッカーに取り組む姿勢は群を抜いていた。自らのプレーや取り組みで、仲間に示そうとしていたね。そのなかで、スキルアップを目指して、抜かりなくトレーニングしていた」(黒田)
柴崎の成長速度は衰えなかった。そして、高2の選手権で準優勝。柴崎の名前は一気に全国にまで広まった。その時、彼はこう話している。
「選手権の実況で、僕のことを『リトル遠藤(保仁)』と言っていたのは嫌だった。もう言われたくないですね。来年はなんて言われるんですかね(笑)。もう『リトル』はないかな。『○○二世』は嫌だな。そう言われないように頑張ります」
自分は自分。人は人。成長に必要な目標やライバルを歓迎する一方で、自分がその人物になりたい訳ではない。それもまた、負けず嫌いがなせる業か。
高2の選手権後に鹿島入りを早々に決め、「これで逃げ道は無くなった。プロとして恥ずかしくないプレーをしないといけない」と、自分に厳しく、かつ信念を持って挑んだ高校最後の1年も妥協はなかった。高3の1年間は『プロとしての立ち居振る舞い』をピッチ内外で貫いた時間でもある。だからこそ、彼は鹿島に入って1年目から活躍の場を確保し、さらに成長できたのだろう。
「小1でサッカーを始めて、プロがあることを知った時から、ずっと目標としていました。その考え方がぶれることは一切なかった」
念願の日本代表にまで登り詰め、誰もが認める鹿島の主力になった今でも、柴崎の根っこにあるものは同じだ。
「僕は周りに対して後ろから付いていくタイプではない。監督やコーチ、ベテランの人の意見を参考にしながら、やっぱり自分が思ったとおりにやっています」
ぶれない信念を橋本、黒田をはじめとする指導者たちに認められ、大切に伸ばされてきたからこそ、今がある。柴崎は青森の地で育んだスタンスを変えることなく、今も黙々と前進を続けている。
(文中敬称略)
取材・文:安藤隆人(サッカージャーナリスト)
岳のここまでの足跡を綴るサッカーダイジェスト誌である。
岳の向上心が強く伝わってくる。
「ブレない」「負けず嫌い」とも評されるが、やはり、常に上を目指すという気持ちがそうさせておるのであろう。
鹿島にて主軸となり、日本代表でも中心選手となろうとしている。
一歩一歩確実に階段を昇っていることがわかる。
更に大きくなる柴崎岳を観ることとなろう。
楽しみである。