五山の送り火と共に送りました
昨日お墓参りに行ってきました。最近はほとんど母に任せていたのですが、とうとう私たちが主役になる時が来てしまったという感じです。
40年ぶりに父と再会したはずなのですが、もっと前に亡くなったような錯覚に襲われてしまいます。
これで母をよく知る人も、父の祖先を知る人もほとんどいなくなりました。位牌や墓碑の名を読みながら娘にこれは誰々だと説明している自分が不思議に思えました。明らかに時代は新しくなったようです。
(我が家のお墓は瑞泉寺のお寺と衣笠の等持院の霊園の2箇所にあります。これは曾祖父が大正11年に等持院の墓地に造った墓です。当時は上の写真のように鉄の門扉があったようですが、戦争中に供出させられたのでしょう、今,下の写真ではありません。前の二人が曾祖父母のようです。)
(そしてこちらが瑞泉寺にある寺内墓。これを建てたのも曾祖母だというのですから、その頃山中家には勢いがあったのでしょうね。とは言ってもどうしてこの寺が我が家の旦那寺になったのか、も一つよく由来はわかっていません。曾祖父母の本籍地は四条烏丸の辺りですから、えらく離れています。永観堂にも縁があるようなので、東の方に何かあったのかも知れません。)
今日は五山の送り火の日でした。13日に迎えた仏が帰っていきました。妹が今朝早く出かけていき、大文字の送り火となる護摩木を我が両親のために捧げてきました。昼過ぎに降った雨のせいなのでしょうか、今年の大文字は一段と綺麗に,映えて見えました。
母と大森の2人を送る日でした。合掌
昨日お墓参りに行ってきました。最近はほとんど母に任せていたのですが、とうとう私たちが主役になる時が来てしまったという感じです。
40年ぶりに父と再会したはずなのですが、もっと前に亡くなったような錯覚に襲われてしまいます。
これで母をよく知る人も、父の祖先を知る人もほとんどいなくなりました。位牌や墓碑の名を読みながら娘にこれは誰々だと説明している自分が不思議に思えました。明らかに時代は新しくなったようです。
(我が家のお墓は瑞泉寺のお寺と衣笠の等持院の霊園の2箇所にあります。これは曾祖父が大正11年に等持院の墓地に造った墓です。当時は上の写真のように鉄の門扉があったようですが、戦争中に供出させられたのでしょう、今,下の写真ではありません。前の二人が曾祖父母のようです。)
(そしてこちらが瑞泉寺にある寺内墓。これを建てたのも曾祖母だというのですから、その頃山中家には勢いがあったのでしょうね。とは言ってもどうしてこの寺が我が家の旦那寺になったのか、も一つよく由来はわかっていません。曾祖父母の本籍地は四条烏丸の辺りですから、えらく離れています。永観堂にも縁があるようなので、東の方に何かあったのかも知れません。)
今日は五山の送り火の日でした。13日に迎えた仏が帰っていきました。妹が今朝早く出かけていき、大文字の送り火となる護摩木を我が両親のために捧げてきました。昼過ぎに降った雨のせいなのでしょうか、今年の大文字は一段と綺麗に,映えて見えました。
母と大森の2人を送る日でした。合掌