yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

2008年を恨みます!

2008-08-29 00:57:56 | yaasan随想
一昨日伯母が亡くなったという電話を今日受けました。誰にも言うなという生前の願いだったと言います。

もうこれで私たちの家族以外に山中を名乗る者はいなくなりました。
一時は12人もの子供がいた山中初蔵の残した家ですが、一族が消えていくのが実に簡単なことなのだと実感します。



私には山中の伯母には特別の思い入れがあります。父の兄の奥さんですから、血はつながっていません。以前この欄でもご紹介したように、父の兄はバレーボール9人制初期の全日本の選手でした。大正生まれなのに185cmもある大男でした。それ故でしょうか、奈良女子大学の助教授になって生駒に移って直ぐに心臓麻痺で亡くなりました。

伯父42歳、私は小学校4年生の春でした。

従姉妹が3人いました。一番上が私より二つ上でユミチャン、次女が私と同い年でミキボン、3女が妹と同い年でタエボンと呼び合っていました。父譲りの長身で、みんな美人でした。彼女たちが京都の家(そこが祖父が設けた広大な屋敷でした)に居たときも一時我が家族も居候していて、一緒に住んでいたことがあります。だからとても仲がよかったのです。それもそのはず、実は初めて入学した小学校は朱雀第3小学校でしたが、次女のミキボンと私はなぜか同じクラスだったのです。

そんな彼女たちが父を亡くし、寂しくないはずがありません。

いつの頃からか、私たち兄妹は休みになると「生駒」へ遊びに出かけるようになりました。その時世話をしてくれたのが伯母でした。

伯母と私の母は2歳違いで、私の母が上です。全く性格も容姿も何もかも違うのですが、唯一似ているところが「厳しい」ところでした。その厳しさも微妙に違うのですが、とにかく「ビシッ」としていました。そんな伯母でしたが、僕には余り厳しく言いませんでした。単に僕が鈍感だっただけなのかも知れません。僕を怒る分従姉妹にとても厳しくしつけをしていました。

大黒柱を失って、精神的にも、経済的にも大変だったでしょうから、当然だったと思います。

それでも鈍感な僕は一体何回生駒を訪れたことでしょう。ある時から自転車で4時間ほど駆けていくようになりました。時には母に叱られて、家出同然で行ったこともあります。電話もなかった時代、どうしたのでしょう?今から思えば不思議です。

受験勉強が嫌になって、東大寺二月堂のお水取りにふらっと出かけ、徹夜で二月堂で護摩供養を眺め、その足で早朝、生駒の家へ出かけたこともありました。

最悪だったのは私の父が胃潰瘍の手術をした1969年12月27日のことでした。
胃潰瘍だから大したことはないけれど、久しぶりだから帰ってきなさい。と言われて渋々帰ったのですが、途中下車をして、その頃大阪に移り住んでいた伯母の家を訪れて、談笑していたのです。そこへ電話がかかり(私がそこにいるとも知らず)、母が伯母に父の危篤を伝えたのです。

きっと伯母は気まずかったに違いありません。京都へ飛んで帰りましたが、間に合いませんでした。親戚中から非難囂々でした。何せ、最後に父や母と会ったのは1969年9月、ある特殊な場所だったからです。結局父と顔を合わせたのはその時が最後で、私は生まれて初めての父の泣き顔が最後の顔だったと言うとんでもない極道をしたのでした。

それほど、伯母の家にいるとホッとしました。もう一つの家族でした。

今年は、母に次いでその伯母まで失ってしまいました。一度に2人の母を亡くした気持ちです。

それでも、母の葬儀には病気のために来て頂けなかった伯母に四十九日が済んで、報告に行きました。久しぶりに会う伯母は従姉妹も驚くくらいしゃんとしておられました。かつてのふくよかな顔立ちはすっかり消え、髪も真っ白でしたが、相変わらず「章ちゃん元気そうやな」と声をかけて頂きました。それが最後でした。

母以上に大変な50年を生きてこられた伯母に

有り難うございました!と申し上げたく思います。葬儀は従姉妹達だけで済ませたそうです。それが遺言だったとか。これからお礼に行ってこようと思います。

 2008年は許せません!!