yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

高橋さんとの思い出-6  乙訓担当者会議の条

2006-12-14 07:55:11 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
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 実にローカルな話なのだが、これもまた全国の「発掘調査技師」が再検討すべき活動領域の一つとして紹介しておかなければならない。既に30年もの昔に高橋さんが提唱され、実行された資料共有化と研究深化のシステムである。

 1976年に私が向日市教育委員会に採用されて以後1978年から逐次旧乙訓郡域の各市町に「発掘調査技師」が採用されていった。もちろんこれらの背景に京都府教育委員会の技師として強い意志をお持ちであった高橋さんの意見が反映されていたことは想像に難くない。中山修一先生の主宰された長岡京跡発掘調査研究所の所属職員も徐々に関係機関に採用され、いつしか旧乙訓郡域担当者だけで10余人に膨れあがった。

 人数が増えればそれで全てが順調に進むわけではない。逆に増えれば増えるほどその調整や意見交換、資料の共有化にどうしてもずれが生じてくる。特に行政組織や所属機関が異なるとなかなか情報を共有することが難しくなるのである。

 そうした齟齬を防ぐために高橋さんの提唱されたのが乙訓担当者会議であった。
 別に公式な会議でも何でもない。あくまで職務を終えた後の私的な集まりである。確か毎月曜日の夕方に集まっていたと思う。次第に間隔が空き2週間に1回が最後には1ヶ月に1回程度になることもしばしばであった。各人の発掘調査や資料整理、報告書刊行の進展状況を報告し合い、調査上の問題点などについて議論をした上で、毎回一人が簡単な「研究報告」をするというものであった。場所も乙訓を移動し、時には京都府のプレハブで、時には大山崎の事務所でというように2市1町を順番に回っていた。

 もちろん場合によっては遺跡保護のための深刻な会議になることもしばしばであった。七つ塚古墳群の保存問題などはかなり深刻であった。そんな中、たくさんの興味深い研究報告が生まれ、その種が発芽したのが中山修一先生の古希と喜寿を記念して出版した2冊の『長岡京古文化論叢』であった。もちろんこの2冊も乙訓担当者会議のみんなで手分けして編集したものであった。中でもいつも光っていたのが長岡京市埋蔵文化財センターの木村泰彦さんの精緻な発表であった。いつも見事な図が添えられており、実にわかりやすくもあった。考古資料だけではなく、文献資料にも長けておられて、まさに「高橋学級」の優等生であった。私自身も何度も条坊制のことを話させてもらい、みんなからいろいろな意見をいただいて、高橋さんの推薦も得て「日本古代条坊制論」を『考古学研究』に投稿することが出来た。

 今思えばこれほど充実した情報交換会はなかったのではないだろうか。そしてその基礎を作られたのが高橋さんというからその構想力、卓見には恐れ入るとしか言いようがない。
 毎年こうしたメンバーが集まってやる忘年会の主役はもちろん高橋さんだった。ちょうど今頃、これまた2市1町を持ち回りで、発掘調査に参加しておられた作業員のおじさんやおばさんも交えてやるのだ。総勢50人は越えていた。羽目を外して「もう二度とあんたらには貸したらへん」と言われたことも一度や二度ではない。もちろん異動されて山城郷土資料館へ行かれていても、まず高橋さんのご都合を伺って、「絶対この日は空けておいてくださいよ」と念を押して準備したものである。

 こんな会議も忘年会も今はもうないらしい。
 時代の流れだと言ってしまえばそれまでなのだが、せっかくの乙訓というまとまりが解体してしまっている現状、そしてそれと共に情報発信が急激に減少してしまっている事実を目の前にすると、寂しく、悲しい。せめて高橋さんの追悼論文集を編集することで、その再編の契機が生まれればと思っている。

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