yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

肥後報告   野津古墳群の条

2006-12-26 01:28:00 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
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 高橋さんとの思い出はまだまだたくさんあるのですが、少し近況報告します。
 1週間、熊本大学へ集中講義に出かけていました。「律令国家成立前夜の地域社会」と題する題だけはオーバーな6・7世紀史に関する講義でした。中味はいずれご紹介するとして、たくさんの情報をいただいて帰りました。少しご紹介したく思います。


(熊本大学には五高時代の煉瓦造りの建物があちこちに残っています。これは現在「五高記念館」として学内博物館の機能を持っているとても素敵な建物。羨ましい!!)
 期間中、熊本大学の杉井先生には学生への指示、授業の準備に多大なご援助をいただいた上、前後の二日間にわたり周辺遺跡の御案内をいただきました。そのお陰で肥後国の一端をかいま見ることが出来ました。
 初日は南部・八代市の北に接する竜北町(現氷川町)の大野窟古墳や野津古墳群を御案内いただきました。特に大野窟古墳は発掘調査中で、教育委員会のIさんに古墳の全体像を丁寧に御説明いただきました。
 それにしても驚いたのは(これが見学者の常識的反応だと杉井先生のホームページには書いてありました※とても楽しい大野窟実測調査の日記が載っています)大野窟古墳の石室の偉容でした。1枚の板石をくり抜いた玄門を入ると玄室で、玄門に続き、大きな切石を側壁の第1段として置いた後、切石をアーチ形に次第にもち送りながら床面から6.5m近くまで積み上げ、最頂部である天井部に1枚の巨大な板石を置くという構造のようです。私のへたくそな文章で説明しても何の迫力も出てこないのですが、とにかくその壮大さには圧倒されます。ついでながらこの地域周辺の歴史を調べてみると意外なこと(単に私がもの知らずなだけなんですが)、眼鏡橋(アーチ橋)造りの名工である肥後石工・種山石工の故郷東陽町(石匠館というとても素敵な博物館があるそうです)に近接しているのです。まさか古墳時代の技術が伝世するわけもなく・・・。それにしても不思議な縁ですね。


(高さ6.5mの天井を見上げるとこんな感じです。上からの石の重みで、第1段側石の上に組まれている石材がかなり剥離してきています。それだけ上からの加重が強いと言うことでしょう。)

 今風にいうと、「すごい!」の一言でしょうか(テレビを見ているとほとんどのタレントが何らかの感動?の場面でこの言葉を連発します。どんな場面も同じです。ちなみに辞書によれば「①恐ろしい、気味が悪い②ぞっとするほど物寂しい③恐ろしいほど優れている」(広辞苑)など、基本的には程度が甚だしいあまり恐ろしさをも感じさせるものを表現する言葉のようです。大野窟古墳の石室は確かに恐怖感すら覚えさせてくれます。)。


(玄門部付近から奥壁を見たところです。大きな一枚岩の石棚がよく見えます。)

 奥壁には高い石棚が組み込まれ、その下にはすっぽり入る刳り抜き式の石棺が置かれています。玄門よりの左右には屍床が2基あり、追葬されたのでしょう。残念ながら正式な発掘調査はまだなされていませんので、須恵器の小片があるのみで、初葬から追葬の正確な時期は不明で、6世紀後半初葬→6世紀末から7世紀初頭追葬なのでしょうか。
 中世に既に開口しており(羨道部にはそのことを示す石刻が認められます)、副葬品は皆無なのですが、床面を中心とした発掘調査をすれば少しのヒントくらいは得られるはずです。Iさん頑張ってくださいね。

 谷を挟んで展開する野津古墳群が6世紀初頭から中頃までのものであるといいますから、大野窟古墳は明らかにそれらに次ぐものです。野津古墳群の主体部が全て判っているわけではありませんが、やや時間をあけて(ないという意見もありそうですが)、石室構造の異なる大野窟古墳が築造された歴史的背景は肥後国の律令国家成立前段階のあり方を考える上でとても興味深いものがありました。

 さて、大野窟古墳では現在、墳端を探す発掘調査中です。まだ明確な墳端は確認できていないようですが、最大で、100mを超す巨大な前方後円墳になる可能性もあるということでした。最終結論が楽しみですね。

 続いて、野津古墳群を見学に連れて行ってもらいました。突如として6世紀前半に出現する100m前後の前方後円墳群は壮観としか言いようがありません。杉井先生の御案内で墳頂に登ると見事に八代海を眼下に眺めることができ、古墳築造の目的を即座に了解することができました。海側が切り立って、大きく見えるのに対し、裏側はなだらかで直ぐに墳頂に至ることができるという特徴を教えていただき、益々野津古墳群の被葬者が海を意識していたことを実感することができました。
 古墳時代の海岸線は現在よりもさらに古墳寄りだったという推定がなされているらしく、ほとんど海岸線に沿って古墳があったと判ります。「原西海道」も眼下を通っていたものと推定できます。すると、野津古墳群は水陸交通の要所を睨む位置にあることになります。そもそも「野津」という地名が意味深ですね。いつからあるのかが判らないのですが、少なくとも江戸時代に当地は野津村だったそうです。もちろん『倭名類聚抄』には出てきませんので、古代に「津」があったか全く判りません。仮にあったとしても、公式の地名ではなさそうです。でも、手前味噌ではありますが、ひょっとしたら、八代の6・7世紀史もまた律令体制の形成に大いに関係あるかもしれませんね。誰か研究してみませんかね・・・。


(野津古墳群からは見事に八代海が見渡せる!)


 そんなこんなで、にわか勉強の肥後南部の旅は杉井先生のお陰で大変有意義、かつ充実した半日となりました。本当に有り難うございました。肥後の古代史、面白そうですね。そう言えば、熊本大学は蝅○(ふしずくりにかい)[こかい]駅推定地に当たるらしく、部分的な調査にもかかわらず大量の奈良時代の土器がでていることが、学内にできた五高記念館で開催中の「熊本大学を発掘する」展でみることができました。
 これについても次回少し報告してみるつもりです。


(五高時代の教室を利用した展示室では「熊本大学を発掘する」展が開催中でした。こんな施設が三重大学にもあると学芸員実習に困らないんだがなー・・・)

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