yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

高橋さんとの思い出-2  初めての出会いの条

2006-12-09 11:49:34 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
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 1976年9月向日市役所の途中採用で教育委員会の社会教育課に配属された私は、直ぐに予定されていた市立老人福祉センター建設に伴う事前調査の準備をするよう指示された。
 とは言っても現場に行ったことすら二度ほどしかなく、況や現場の運営など全く未経験な私にそんな,ことができるはずがない。そんな時たまたま?(ひょっとしたら意図的だったのだろうか?)、京都府教育委員会から国の補助金事業の調査担当者として向日市で発掘調査されていたのが高橋さんだった。
 上司から現場を見に行くように指示されて伺ったのが、幅3㍍、長さ20㍍ほどの狭い現場であった。半身裸の作業員の方が大きなツルハシをフルって作業の真っ最中だった。そこに角刈りのいかつい中年?の方がいらっしゃった。

 内心、「なんと狭い現場だこと!」と思った。
その現場の担当者が高橋さんだった。

 どんな言葉でご挨拶したかはよく覚えていない。ただ直ぐに方眼紙に三角形を書いて
「ピタゴラスの定理を知っているか?」と聞かれた。
「何とか・・・」とでも答えたのだろうか、直ぐに測量計算の「授業」が始まった。関数電卓など見たこともなかったが、その操作を一生懸命教えてくださり。計算してみろという。何とか答えを出すと「すごいなー」と喜んで下さる。
次は平板による平面実測だ。
 正直、学生時代に平板のテープ持ちをしたことは一度だけあるが、立てたことも測ったこともない。高橋さんが立てるのを横目で見ながらそのイメージを必死で頭に焼き付けようとする。しかし所詮は俄、いざ立てようとすると二つのねじをどう締めていいのやら、アリダードをどう使ってよいのやら、よく分からない。なかなか立たない平板に業を煮やして手伝ってもらい、何とか立てて平板開始である。

 断面図、平面図、写真撮影、そのどれもが考古学実習の授業以上に実践的な「授業」であった。
 高橋さんは広島県のご出身である。広島大学の皆さんとは大変懇意だったと聞く。恩師潮見洋先生はもちろん、川越先生とも、諸先輩方ともツウカーの仲だと聞く。ひょっとしたら事前に私が何者かをご存じだったのでは無かろうか。
「こんな奴に長岡京を任せられるのだろうか?」
そうお考えになっても不思議ではない。不安を解消するには自ら行動する以外にない!そこで・・・、手頃な「わた治」の現場を選んで「考古学実習」を実演してくださった。考えすぎだろうか?

 次に控えている長岡宮朝堂院東第四堂が推定される極めて重要な調査・市立老人センターの調査が失敗なく、成果がきちんと出せるよう、予め試験をなさったのではなかろうか。
 もちろん試験に合格したとはとても思えないのだが、そこが高橋さんの高橋さんたる所以。できの悪いものを教育するのはお手の物(その手腕は見事にその後の乙訓の「調査員」の成長に見て取ることができた。)。第2次試験が老人センターだったと思われる。

 ここでは行政内部との協議やら、作業員の調整・監督やら、物品の手配やら、埋蔵文化財調査の基本がぎっしり詰め込まれていた。

 途中、古参作業員のピンハネ事件やら、調査地の拡張問題やら、思いもかけない「事件」が次々と襲った。しかし、ある面私はそちらの方は全く苦にならなかった。本来事務向きなんだろう。
平面図の整理、長岡宮朝堂院の復原図、方形周溝墓の集成等々、何とか資料作成などもこなして現地説明会にこぎ着けたときにはやっと少し「調査員」の気分に浸ることができた。もちろん、何度も何度も高橋さんの薫陶を受けたことは言うまでもない。

 こうして私と高橋さんの「長岡京人生」が始まった。


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