yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

高橋さんとの思い出-1  ご葬儀の後で・・・の条

2006-12-06 23:14:39 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
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 高橋さんのご葬儀には結局出ることができませんでした。
何とかお通夜だけは片付けの始まる中を平服のまま駆けつけたのですが・・・。

 ちょうど中国から研究者をお呼びし、御案内している真っ最中だったからです。ご葬儀の当日はその先生のご講演と私の報告をやっていました。高橋さんなら許してくれると・・・。

 ですから、一昨日、ご自宅に伺いました。角刈りのごま塩頭の高橋さんのニコニコした遺影が飾られていました。奥様のお話によるとご本人が、出してこられたもので、大学に行かれた頃に京都新聞の記者の方が撮られたものだそうです。

 田辺のご自宅に伺うのは本当に久しぶりのことでした。こんなことになる前に一度は、と思っていたのに、近年のずぼら癖で、訪れることができませんした。そのことが一番の心残りでした。

 久しぶりにお会いする奥様は少し痩せておられましたが、いつもの透き通るはきはきしたお声で、生前の高橋さんとのことをお話し下さいました。私の思い出を話すと思い出されるのか、涙され、その心の寂しさを実感することになりました。

 昔よく訪れた書斎は綺麗に片付けられ、本は一冊もありませんでした。4月に韓国の文化財研究所に寄贈なさったからなのです。三月で県立大学を御退任なさったことも、その後任に敢えて地理の研究者ではなく民俗を推薦なさったことも、高橋さんらしい引き際でした。お見事という外ありません。

 そんな中、奥様のお話によると最後にまとめたい研究-条里制に関する研究-があったそうです。しかし、度重なる放射線治療でどうしても筆が進まず、書けない自分を嘆いておられたと言うことです。もちろん残されたものはまだ拝見していませんが、私にはこれを未完であれ、世に出すことが、高橋さんへの恩返しではないかと思っています。と同時に、本当の意味で高橋さんにお世話になった研究者で、「追悼論文集」を出そうと考えています。心のこもった、暖かい追悼論文集ができないものかと仲間と相談しています。

 最後になりましたが、ご葬儀に出られなかった分、弔電をお送りしました。その文章を紹介して、御礼の言葉としたいと思います。

高橋美久二さんへの弔辞

高橋さん 
いつかこの日が来ることを判っていても、その現実を突きつけられて、涙が止まりません。
悲しいです。とてもとても寂しいです。
私が初めて高橋さんにお会いしたのは1976年の秋「わた治」の現場でした。
国土座標という言葉すら知らない新入りの私に、電卓を片手に測量計算を一生懸命教えていただいたことを今でも鮮明に覚えています。何とか計算すると「山中君すごいなー」と褒めていただいて、とてもうれしかったです。「頑張って勉強しなければ!」と思った瞬間でした。もしこの一言がなかったら、今の私はありませんでした。外環のプレハブで行われていた『令義解』の勉強会で、報告に詰まってしまった私を、1時間半も待ち続けてくださった優しさを生涯忘れることはありません。
初めて『月間文化財』に木簡の報告を書くようすすめていただいたこと、山城郷土資料館で8インチのディスク片手にコンピューターの威力をお話し下さったこと、ご自宅に伺ったときに次から次へと書籍を出してきていただいて平安京のことを教えていただいたこと、中国語の勉強会で、発音はともかくいつも関連資料をいただいてお話し下さったこと、中国へご一緒したとき、ファイル一杯の資料を用意して下さったこと、できの悪い私達乙訓の人間を何とか勉強させようと開いてくださった乙訓の勉強会のこと、毎年の乙訓の忘年会のこと、・・・・、いつも、いつも優しい笑顔で接してくださいました。どれも、どれも忘れることができません。有り難うございましたという言葉が軽すぎるくらい、一杯、一杯お世話になりました。
本当に寂しいです。悲しいです。
逝かないでください!高橋さん

余り時間もありませんが、しばらく高橋さんとの思い出を書きとどめておこうと思っています。


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