yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

高橋さんとの思い出-5  『令義解』勉強会の条

2006-12-12 02:25:00 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
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 高橋さんが京都府の担当技師として乙訓地域の発掘調査に当たられたのは、1974年の京都府立向陽高等学校の建設に伴う事前調査が最初だと思う。それまで宮城域の発掘調査しかなされていなかったものを、周辺の古代宮都の研究状況から長岡京でも京域の発掘調査が必要であることを力説され、そのお手本として府立高等学校の建設前の事前調査を主張され、実践されたのが最初だと聞く。

 自らその先頭に立ち、見事に初めて三条大路(当時)と東大宮大路(同)の条坊側溝を検出し、大量の土器群と共に木簡や墨書土器を検出された。当該箇所が、『平安遺文』に記載される勅旨所の藍畑の一角に相当することから、花粉分析を依頼され、これを科学的に実証されようとした調査でもあった。

 まさに当時の日本考古学の粋を集めた発掘調査であった。元々京都大学で藤岡謙次郎先生の下で歴史地理学を学ばれた高橋さんは、乙訓郡条里や長岡京の条坊制についての基礎的研究をなされていた。さらに、考古学研究室の調査・研究にも参加され、小林行雄先生に師事されて日本考古学の基礎である土器型式や瓦型式の編年研究にも精通されていたので、この現場は高橋さんのためにあるようなものであった。この時出土した土器群が長岡京土器型式の基準資料となり長く用い続けられることになる。そして、直接伺ったことはないのだが、出土した木簡の研究を通して、文献史料の学習が不可欠であることも実感されたに違いない。

 そんな高橋さんが、乙訓地域に建設される外環状線の事前調査担当技師として出向かれ、現場のプレハブに寝泊まりして、多くの若者達を育てられた。調査に当たっては様々な研究や調査方法を実践されたが、中でも今里車塚古墳の発掘調査は木製埴輪の発見やその構築方法、葺石の葺き方に関する新たな調査方法など圧巻であった。もちろんここからもたくさんの研究者や「発掘調査技師」が育っていった。

 私にとって忘れられないのは、毎週水曜日の夜に開かれていた『令義解』の勉強会であった。ちょうど木簡の出土した左京第51次発掘調査の最中だったかと思う。清水さんに誘われておそるおそるプレハブを訪ねると、直ぐに次の発表が当てられた。「賦役令土毛条」だった。そもそもその読みからして全く判らない私は、大急ぎで岩波の日本思想体系に入っている『律令』を購入し、分担箇所を俄勉強した。しかし所詮大学で、考古学ですらまともに勉強していなかった私に、古代史はもっと遠い存在であった。「租庸調」という用語がかろうじて思い出される程度の人間にはとても無理だった。数枚のレジュメを作っていったとは思うのだが、読みが終わって、いざ、条文の解釈になると固まってしまった。「賦役令」の中の土毛の位置づけが全く訳が分からなくなったのである。
 賦役令第七 土毛條「凡土毛臨時應用者。並准當國時價價用郡稻。」こんなに短い条文が全く理解できなかったのである。まずもって「土毛」が理解できていなかったのだと思う。そこで私の時間が止まってしまった。俄勉強とはいえ、昨日まで調べたはずの土毛や郡稲が脳裏から消えてしまったのである。頭の中でぐるぐる回る説明の経路、そのどれも言葉となって出すことが出来ないうちに1時間半が過ぎてしまった。私にとっては短かったのだが、待ち続けた参加者の皆さんには苦痛であったに違いない。不思議と恥ずかしいという気もなく、済みません、よく分かりませんとでも答えたとき、高橋さんが優しく何もなかったかのように「来週は・・・」と切り替えて下さった。救われた。

 高橋さんはずるをしない限り決して人を責めることはなさらない。能力に応じて、努力さえすればそれで十分評価してくださる。とても平等な方だ。その後『令義解』は最後まで読み続けられ、終わったときには厚さ10センチメートルを超えるレジュメ集となって結実した。もちろん、古代史研究者の研究会には足元にも及ばない私のような発表もたくさんあった。ただ『律令』の注釈をまとめただけのもの、読むのが精一杯の者、それでもこつこつと読み続け、途中から高橋さん自身が異動されても読み続けられた。その流れを汲んで現在も清水さんを中心に『延喜式』の輪読会が続けられている。

 『令義解』研究会も『延喜式』研究会も当たり前のように現場のプレハブや埋蔵文化財センターの施設を使って実施されてきた。「発掘調査技師」には発掘調査の情報や技術だけが必要なのではなく、文献史学の勉強も必要だと考えられてきたからである。文献研究は「職務」でもあるとの位置づけだったと思う。しかし、高橋さんの教えを最も意識しなければならないはずの「発掘調査担当者」から、『延喜式』研究会は追い出されてしまった。

 高橋さんはほとんど面と向かって相手を責めることはなされなかった方なのだが、きっと彼岸でお怒りであるに違いない。権力とは無縁だった高橋さんが最も嫌うことが乙訓で起こっていることを、心から残念がっておられるに違いない。悲しい。

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