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今日は長岡京遷都1222年目の記念すべき日です。昔なら大極殿遺跡顕彰会の方々と記念式典の準備に朝から大わらわといったところですが、さて今頃京都ではどうなっていることやら・・・。
(相変わらずの150人!何せ9時集合というのに8時半には長蛇の列!びっくりした。)
三重では今日は壬申の乱ウオーク第5回目の日でした。3ヶ月に1回の割で行っていますから年4回、早くもこの会を始めて1年が経ったことになります。今日のコースは近鉄阿倉川駅から久留倍遺跡までの5㌔でした。あいにく昨夜からの雷雨が残りウオーク中雨が降ったり止んだり、これも壬申の乱の転向を示しているのでしょうか、前回も台風接近の中でのウオークで、同じような天候でした。
(羽津城が見えなくなるくらいの人人人!近所の人も驚いていましたね。)
今日の目玉は志弖神社と久留倍遺跡です。先頃史蹟指定に絡み少し調査???をしたというのでその成果???を市民に公開してくださるということでそれに併せてウオークの予定を設定しました。
まず駅前で全体のイメージを説明しました。なぜ阿倉川駅かというと、皇學館大学の岡田登さんが最近、大海人皇子天照大神望拝の地は朝明川ではなく、海蔵川(あくらがわ)だという説をご紹介するためなんです。でも、今回はなぜか考える会のMさんがえらく急いでいて、
「そんなとこ行かんでもよろしいわ」の一言で、川辺まで行くのは却下!(後で分かったのですが、どうもMさん岡田先生の説が気にくわないらしい!何せ迹太川の比定地は朝明郡周辺の全ての川にあるといってもいいくらいたくさんあるんです。ウオーク中も、市民の皆さんから、私はこの川こそ望拝地だと思うんですが違いますか?という質問やら自説の紹介を一杯受けたくらいですから。
(市の指定史蹟になっている天武天皇天照大神望拝地の一角。ここでもMさんの自説が高らかに話された。皆さん誇りに思ってらっしゃるんですね。)
それはともかくとして、県道の車の頻繁に通る道を進むもので、交通事故に遭われないかそれが一番心配でした。今日もまた悪天候の中150人の方が参加されました。本当に皆さん熱心です。感謝!!
途中羽津城という16世紀に築城された中世末期の城跡を見学して志弖神社に参りました。志弖神社は二つの点で注目されます。
①志弖神社古墳の存在
②『萬葉集』に歌われた四泥の崎との関係
です。
古墳は4世紀後半の前方後円墳といわれ、車輪石や内行花文鏡、勾玉、管玉、ガラス小玉などがかつて掘り出されています(卒論でガラス小玉をやってるYMさん、もちろん知ってますよね)。『萬葉集』では1031番・丹比屋主真人の歌としてに次のように詠われています。
(無事志弖神社に到着。ここが唯一のトイレスポット!よって、直ぐにトイレに駆け込んだ人?は説明が聞けず。追加説明をおねだりされる始末。市民サービスは辛い!)
後れにし 人を偲はく 思泥の崎 木綿取り垂でて 幸くとそ思ふ
この「思泥の崎」こそ志弖(氏の下に横棒の「デ」も使う)神社のシデに通じ、この地で詠んだ歌のことだというのが今日の有力な解釈です。つまり今の神社境内地は海に極めて近い場所であったということになります。すると古代東海道がいったいどの辺りを通過していたのかを考える上で重要なヒントとなるのです。まさか浜辺を通ることはないでしょうから、海岸縁だとしたら、神社の直ぐ下、山沿いだとしたら神社裏を通った可能性が高くなります。
なぜ伊勢北部でも有数の前期の前方後円墳(発掘調査はなされていませんが、前方後方墳ではないかとする意見もあります)がこの地に設けられたのかを考える上でもこれは大事な問題です。そこで少し推理してみましょう。
現在古墳は前方部を神社の社務所によって削られてしまい見ることができませんが、本来は南を向いていたものと思われます。海上を進む船と、陸上を通過する人々の両方を見る絶好の地に設けられていたわけです。鈴鹿「関」を越えた後、伊勢湾に東進する古東海道が三重郡采女郷辺りで東に海を見ながら北上する。その一角に志弖神社古墳はあったのです。あるいは、大海人や聖武の一行もこの付近を通過して朝明郡衙(郡家)に向かったと考えてもさほどおかしくはないでしょう。
(県道脇に立つ伊賀留我神社の石碑。北には分祀前の北社がある。)
志弖神社古墳を後にして伊賀留我神社を経て久留倍遺跡に到着し、ここで近くにあった大膳寺の解説をして、久留倍遺跡に向かいました。四日市市教育委員会主催の最後の現地説明会?だそうです。もう見ることができないらしいので、久留倍遺跡の「雄姿」を目に焼き付けてきました。
昨夜の雨で大変見やすくなった柱跡に皆さん感動しておられましたが、その目の前に道路の橋脚が立つことを聞いてがっかりされていました(もちろん市教委の方々はそんなことは一言も仰らなかったので私の方で追加しておきました)。それにしてもどうして正直に言わないんでしょうかね。後でばれても済んでしまったことだと逃げる気ですかね。これこそ税金の無駄遣いだとわたしは思うのですが・・・。
(現地施説明会?会場にはこれだけは見ておかないとと、さらに多くの市民が・・。皆さんの熱い眼差しを市教委の幹部の皆さんはどんな思いでご覧になったでしょうかね。)
これについては明日10時からの市民討論会(大矢知市民センター)でじっくりシュミレーションを交えながらお話しすることにしましょう。
説明が終わり最後の挨拶が済んで家路についたのが12時過ぎ、大学に着いたら既に13時を過ぎていました。これから明日のレジュメとプレゼンテーションの最終調整です。R大学のKTさんに作ってもらったGISを用いたシュミレーションですが、まだまだ改善の余地はたくさんありそうです。余り時間もありませんから、未完成でもやるしかありません。何とか市民の皆さんに実情を訴えて、新たな展開へ向けたスタートが切れればと思っています。
(今頃になって、調査地の図面がかなりいい加減だと分かってきました。この最も大事な(私が聖武頓宮の証拠の柱穴だと考えている)柱跡の切り合い関係や時期変遷、その検出位置はもう一度じっくり確認しないととんでもない「成果」になってしまうことが分かりました。もちろんそれでもなお、際だつのがこの巨大な堀方なんです。私はその前後の建物配置については相当の見直しが、評価も含めて必要だと思っていますが、これだけは動かないとさらに確信しました。こんなものが倉庫であるはずがない!!!)
とにかくウオーク参加の皆さん、雨の中お疲れ様でした。
そして資料作りから当日の案内まで手伝ってくれた学生の皆さん、ちょっとした?ミス?もありましたが、お陰で多くの市民の皆さんに喜んでいただくことができました。皆さんのとても喜んでおられるお顔を見ていると疲れも吹っ飛ぶでしょう?!!有り難う!これからもよろしくね。
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今日は長岡京遷都1222年目の記念すべき日です。昔なら大極殿遺跡顕彰会の方々と記念式典の準備に朝から大わらわといったところですが、さて今頃京都ではどうなっていることやら・・・。
(相変わらずの150人!何せ9時集合というのに8時半には長蛇の列!びっくりした。)
三重では今日は壬申の乱ウオーク第5回目の日でした。3ヶ月に1回の割で行っていますから年4回、早くもこの会を始めて1年が経ったことになります。今日のコースは近鉄阿倉川駅から久留倍遺跡までの5㌔でした。あいにく昨夜からの雷雨が残りウオーク中雨が降ったり止んだり、これも壬申の乱の転向を示しているのでしょうか、前回も台風接近の中でのウオークで、同じような天候でした。
(羽津城が見えなくなるくらいの人人人!近所の人も驚いていましたね。)
今日の目玉は志弖神社と久留倍遺跡です。先頃史蹟指定に絡み少し調査???をしたというのでその成果???を市民に公開してくださるということでそれに併せてウオークの予定を設定しました。
まず駅前で全体のイメージを説明しました。なぜ阿倉川駅かというと、皇學館大学の岡田登さんが最近、大海人皇子天照大神望拝の地は朝明川ではなく、海蔵川(あくらがわ)だという説をご紹介するためなんです。でも、今回はなぜか考える会のMさんがえらく急いでいて、
「そんなとこ行かんでもよろしいわ」の一言で、川辺まで行くのは却下!(後で分かったのですが、どうもMさん岡田先生の説が気にくわないらしい!何せ迹太川の比定地は朝明郡周辺の全ての川にあるといってもいいくらいたくさんあるんです。ウオーク中も、市民の皆さんから、私はこの川こそ望拝地だと思うんですが違いますか?という質問やら自説の紹介を一杯受けたくらいですから。
(市の指定史蹟になっている天武天皇天照大神望拝地の一角。ここでもMさんの自説が高らかに話された。皆さん誇りに思ってらっしゃるんですね。)
それはともかくとして、県道の車の頻繁に通る道を進むもので、交通事故に遭われないかそれが一番心配でした。今日もまた悪天候の中150人の方が参加されました。本当に皆さん熱心です。感謝!!
途中羽津城という16世紀に築城された中世末期の城跡を見学して志弖神社に参りました。志弖神社は二つの点で注目されます。
①志弖神社古墳の存在
②『萬葉集』に歌われた四泥の崎との関係
です。
古墳は4世紀後半の前方後円墳といわれ、車輪石や内行花文鏡、勾玉、管玉、ガラス小玉などがかつて掘り出されています(卒論でガラス小玉をやってるYMさん、もちろん知ってますよね)。『萬葉集』では1031番・丹比屋主真人の歌としてに次のように詠われています。
(無事志弖神社に到着。ここが唯一のトイレスポット!よって、直ぐにトイレに駆け込んだ人?は説明が聞けず。追加説明をおねだりされる始末。市民サービスは辛い!)
後れにし 人を偲はく 思泥の崎 木綿取り垂でて 幸くとそ思ふ
この「思泥の崎」こそ志弖(氏の下に横棒の「デ」も使う)神社のシデに通じ、この地で詠んだ歌のことだというのが今日の有力な解釈です。つまり今の神社境内地は海に極めて近い場所であったということになります。すると古代東海道がいったいどの辺りを通過していたのかを考える上で重要なヒントとなるのです。まさか浜辺を通ることはないでしょうから、海岸縁だとしたら、神社の直ぐ下、山沿いだとしたら神社裏を通った可能性が高くなります。
なぜ伊勢北部でも有数の前期の前方後円墳(発掘調査はなされていませんが、前方後方墳ではないかとする意見もあります)がこの地に設けられたのかを考える上でもこれは大事な問題です。そこで少し推理してみましょう。
現在古墳は前方部を神社の社務所によって削られてしまい見ることができませんが、本来は南を向いていたものと思われます。海上を進む船と、陸上を通過する人々の両方を見る絶好の地に設けられていたわけです。鈴鹿「関」を越えた後、伊勢湾に東進する古東海道が三重郡采女郷辺りで東に海を見ながら北上する。その一角に志弖神社古墳はあったのです。あるいは、大海人や聖武の一行もこの付近を通過して朝明郡衙(郡家)に向かったと考えてもさほどおかしくはないでしょう。
(県道脇に立つ伊賀留我神社の石碑。北には分祀前の北社がある。)
志弖神社古墳を後にして伊賀留我神社を経て久留倍遺跡に到着し、ここで近くにあった大膳寺の解説をして、久留倍遺跡に向かいました。四日市市教育委員会主催の最後の現地説明会?だそうです。もう見ることができないらしいので、久留倍遺跡の「雄姿」を目に焼き付けてきました。
昨夜の雨で大変見やすくなった柱跡に皆さん感動しておられましたが、その目の前に道路の橋脚が立つことを聞いてがっかりされていました(もちろん市教委の方々はそんなことは一言も仰らなかったので私の方で追加しておきました)。それにしてもどうして正直に言わないんでしょうかね。後でばれても済んでしまったことだと逃げる気ですかね。これこそ税金の無駄遣いだとわたしは思うのですが・・・。
(現地施説明会?会場にはこれだけは見ておかないとと、さらに多くの市民が・・。皆さんの熱い眼差しを市教委の幹部の皆さんはどんな思いでご覧になったでしょうかね。)
これについては明日10時からの市民討論会(大矢知市民センター)でじっくりシュミレーションを交えながらお話しすることにしましょう。
説明が終わり最後の挨拶が済んで家路についたのが12時過ぎ、大学に着いたら既に13時を過ぎていました。これから明日のレジュメとプレゼンテーションの最終調整です。R大学のKTさんに作ってもらったGISを用いたシュミレーションですが、まだまだ改善の余地はたくさんありそうです。余り時間もありませんから、未完成でもやるしかありません。何とか市民の皆さんに実情を訴えて、新たな展開へ向けたスタートが切れればと思っています。
(今頃になって、調査地の図面がかなりいい加減だと分かってきました。この最も大事な(私が聖武頓宮の証拠の柱穴だと考えている)柱跡の切り合い関係や時期変遷、その検出位置はもう一度じっくり確認しないととんでもない「成果」になってしまうことが分かりました。もちろんそれでもなお、際だつのがこの巨大な堀方なんです。私はその前後の建物配置については相当の見直しが、評価も含めて必要だと思っていますが、これだけは動かないとさらに確信しました。こんなものが倉庫であるはずがない!!!)
とにかくウオーク参加の皆さん、雨の中お疲れ様でした。
そして資料作りから当日の案内まで手伝ってくれた学生の皆さん、ちょっとした?ミス?もありましたが、お陰で多くの市民の皆さんに喜んでいただくことができました。皆さんのとても喜んでおられるお顔を見ていると疲れも吹っ飛ぶでしょう?!!有り難う!これからもよろしくね。
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