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先日何気なく48年前に亡くなった伯父の名前をインターネットの検索ソフトに打ち込んでいると、同姓同名の人物が何人か出た後に、そうではないかという項目に引っかかった。
(父が亡くなって37年。山中家男子早世の法則を破って?私は既に58歳にもなってしまった。)
伯父、即ち私の父の直ぐ上の兄は身長1メートル80センチは優に超した大男であった。大正5年生まれだから生きていたら今年90歳ということである。その頃のこの背丈は化け物と言われても仕方のないくらいの大きさである。私の父も1メートル75センチほどあったのでそれなりの大男なのだが、それを遙かに凌ぐ高さである(ちなみに私はその遺伝子を受け継がなかったらしく1メートル66センチしかない小男である)。
だから彼はバレーボールの選手だった。経歴を見ると昭和12・13・20年度の全日本東西対抗の代表選手だったとある。今で言う全日本メンバーというところだろうか。バレーボール協会の評議員も務めたらしい。当時のバレーボールは当然9人制だったのだろう、この球技がどれほど認知をされていたのか全く知るところではないが、東京高師の体育科を卒業した彼の位置はそれなりに高かったのだろう。戦後間もなく奈良女子高等師範(後の奈良女子大学)の助教授になったらしい。
そんな伯父一家と私達家族はほんの一時期一緒に暮らしたことがある。小学校入学直前から1学期終了までの短い期間だった。その姿で一番印象的なのはいつも机の前に座っていて、私がいとこ達と庭先で遊んでいると「うるさい!!」と大声で怒鳴る場面である。とにかく天の上から鬼が降りてきて怒っている様な恐怖感だけが残っている。
その伯父が急逝したのはそれからわずか3年後の春のことだった。京都から勤務先に近い生駒に新居を建てて直ぐのことだった。42歳、教授になった直後の死だった。当時の私には伯父が大学の先生だという認識は全くなかった。ただただ「怖い人」という印象だけだった。
その後父を亡くした従姉妹達の家を度々訪れ、まるで姉弟のように仲良く育った。私が大学に入った後も、何となく心の安まる彼女たちの家へつい足が向いたものであった。私の父が急逝したのを聞いたのも実は従姉妹の家で休んでいたときだった。何か因縁めいたものを感じたものだった。
(なかなか大部な著作だ。伯父がこんなに英語に堪能だったとは知らなかった。)
突然どうしてこんなことを思い出したのだろう?自分でもよく分からない。
考えられる原因の一つはなかなか書けない原稿である。
確か、伯父は本を出していたはずだ!どんな本なんだろう?子供の頃は伯父の著作など知ろうとも思わなかったしもちろんあることも知らなかった。大学に進学しても、全く分野の違う道へ進んだので、気にもならなかった。ところがここへ来て、伯父はどんな本を書いたのだろうかと気になってきた。
幸いなことに逍遙書院発行の『新体育学講座第3巻 アメリカスポーツ史』(1960年1月31日発行 238頁)があり、青森の古書店で扱っていることが判った。インターネットというのはこの点本当に便利である。直ぐに購入のボタンを押した。そして今日届いたのである。
巻末には懐かしい?伯父の写真まで載っていた。実は伯父の顔などほとんど覚えていないのだが、私の父とよく似ているので、懐かしく感じるのである。
亡くなったのが1958年だから東京オリンピックのわずか6年前である。ひょっとして故大松博文さんも知り合いだったのかも知れない。あの女子バレーの活躍を見ることもなく逝ってしまって、きっと無念だったに違いない。そんなことを思いながら頁を繰った。遺稿集だというからまだまだ未定稿の部分も多いのだろうが、時代毎に、多様な種目毎に実に整然と種目の現状が記されている。ある面実に淡々とした記述である。
(丹念に資料を集めなさい。その上でじっくり考えなさい!そう言われているような気がする。)
フッと我に返って、己の拙文を思い出した。次々と出す資料、淡々と資料を書き連ね、最後にちょこっと仮説と解釈を述べる。なんだか似てるのかな?!と思ってしまう。今原稿に行き詰まっている原因が少し分かったような気がする。
気取り過ぎ!構えすぎ!!
もう一度原点に立ち返り、淡々と資料をまとめ、資料から小さな仮説を立ててみる、そんなことを伯父があの世から示唆してくれたのかも知れない。
日常の忙しさにかまけて、資料集めを怠っている自分への厳しい一撃なのかも知れない。
ひょっとしたら私達が庭で戯れていたとき、伯父は淡々と英文のアメリカスポーツ事情を読み解いていたのだろうか。集中を切られたときの「うるさい!!」今となったら実によく分かる。
さあもう一度ねじを巻き直して今日から頑張ろう!!有り難う良正おじさん。
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(父が亡くなって37年。山中家男子早世の法則を破って?私は既に58歳にもなってしまった。)
伯父、即ち私の父の直ぐ上の兄は身長1メートル80センチは優に超した大男であった。大正5年生まれだから生きていたら今年90歳ということである。その頃のこの背丈は化け物と言われても仕方のないくらいの大きさである。私の父も1メートル75センチほどあったのでそれなりの大男なのだが、それを遙かに凌ぐ高さである(ちなみに私はその遺伝子を受け継がなかったらしく1メートル66センチしかない小男である)。
だから彼はバレーボールの選手だった。経歴を見ると昭和12・13・20年度の全日本東西対抗の代表選手だったとある。今で言う全日本メンバーというところだろうか。バレーボール協会の評議員も務めたらしい。当時のバレーボールは当然9人制だったのだろう、この球技がどれほど認知をされていたのか全く知るところではないが、東京高師の体育科を卒業した彼の位置はそれなりに高かったのだろう。戦後間もなく奈良女子高等師範(後の奈良女子大学)の助教授になったらしい。
そんな伯父一家と私達家族はほんの一時期一緒に暮らしたことがある。小学校入学直前から1学期終了までの短い期間だった。その姿で一番印象的なのはいつも机の前に座っていて、私がいとこ達と庭先で遊んでいると「うるさい!!」と大声で怒鳴る場面である。とにかく天の上から鬼が降りてきて怒っている様な恐怖感だけが残っている。
その伯父が急逝したのはそれからわずか3年後の春のことだった。京都から勤務先に近い生駒に新居を建てて直ぐのことだった。42歳、教授になった直後の死だった。当時の私には伯父が大学の先生だという認識は全くなかった。ただただ「怖い人」という印象だけだった。
その後父を亡くした従姉妹達の家を度々訪れ、まるで姉弟のように仲良く育った。私が大学に入った後も、何となく心の安まる彼女たちの家へつい足が向いたものであった。私の父が急逝したのを聞いたのも実は従姉妹の家で休んでいたときだった。何か因縁めいたものを感じたものだった。
(なかなか大部な著作だ。伯父がこんなに英語に堪能だったとは知らなかった。)
突然どうしてこんなことを思い出したのだろう?自分でもよく分からない。
考えられる原因の一つはなかなか書けない原稿である。
確か、伯父は本を出していたはずだ!どんな本なんだろう?子供の頃は伯父の著作など知ろうとも思わなかったしもちろんあることも知らなかった。大学に進学しても、全く分野の違う道へ進んだので、気にもならなかった。ところがここへ来て、伯父はどんな本を書いたのだろうかと気になってきた。
幸いなことに逍遙書院発行の『新体育学講座第3巻 アメリカスポーツ史』(1960年1月31日発行 238頁)があり、青森の古書店で扱っていることが判った。インターネットというのはこの点本当に便利である。直ぐに購入のボタンを押した。そして今日届いたのである。
巻末には懐かしい?伯父の写真まで載っていた。実は伯父の顔などほとんど覚えていないのだが、私の父とよく似ているので、懐かしく感じるのである。
亡くなったのが1958年だから東京オリンピックのわずか6年前である。ひょっとして故大松博文さんも知り合いだったのかも知れない。あの女子バレーの活躍を見ることもなく逝ってしまって、きっと無念だったに違いない。そんなことを思いながら頁を繰った。遺稿集だというからまだまだ未定稿の部分も多いのだろうが、時代毎に、多様な種目毎に実に整然と種目の現状が記されている。ある面実に淡々とした記述である。
(丹念に資料を集めなさい。その上でじっくり考えなさい!そう言われているような気がする。)
フッと我に返って、己の拙文を思い出した。次々と出す資料、淡々と資料を書き連ね、最後にちょこっと仮説と解釈を述べる。なんだか似てるのかな?!と思ってしまう。今原稿に行き詰まっている原因が少し分かったような気がする。
気取り過ぎ!構えすぎ!!
もう一度原点に立ち返り、淡々と資料をまとめ、資料から小さな仮説を立ててみる、そんなことを伯父があの世から示唆してくれたのかも知れない。
日常の忙しさにかまけて、資料集めを怠っている自分への厳しい一撃なのかも知れない。
ひょっとしたら私達が庭で戯れていたとき、伯父は淡々と英文のアメリカスポーツ事情を読み解いていたのだろうか。集中を切られたときの「うるさい!!」今となったら実によく分かる。
さあもう一度ねじを巻き直して今日から頑張ろう!!有り難う良正おじさん。
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