ロビンの観劇日記

芝居やオペラの感想を書いています。シェイクスピアが何より好きです💖

「リア王」について Ⅲ

2022-07-05 00:29:47 | シェイクスピア論
③ 吉田健一の「リア王」論

「リア王について」で、我々はシェイクスピアの劇の中で最も残虐で陰惨なシーンを見てきた。
このシーンについて、吉田健一は「シェイクスピア」という書物の中で実に斬新な見方を述べているので紹介したい。
まずはストーリーに沿って彼の意見を聞こう。
(なお、以前にも書いたが彼の日本語は分かりにくいので適宜現代風に直し、さらに分かりやすいように書き直した)
   (リアは)人が自分に従うことに馴らされてきた・・それまで彼は人を愛するか憎むかで、疑うことを必要とせず、・・その前にその人間を
   悪人と信じて罰してきた・・言わば無垢な性格の持ち主である。
   この作品の中心をなしているのは悪の問題なのである。
   恩知らずの親不孝は、・・どこにでもざらにあるものなので、もしそのために苦しみたくないのならば、それに備えて国を娘に譲ったりしない
   のこそ賢明な策である。
   (長女)ゴネリルの冷たい仕打ちを怒って、リアが(次女)リーガンの領地に向けて立ち去る時、彼はすでに発狂の一歩手前まで来ている・・。だが
   リーガンとゴネリルの間にはすでに了解が出来ていて、・・ゴネリルもその後を追って現れ、リアは二人の娘と対決することになる。
   ここで最も我々を打つのは、リアとその二人の娘が出会う時には常にそうであるが、この場面でも、常識的には理が娘たちの方にあることで、
   言葉の表面の意味だけを取れば、リアはいかにも頑固で分からず屋の年寄りなのであり・・。

「常識的には理は娘たちの方にある」!
この意外な見方には驚かされる。
これまでこういうことを言った人がいるだろうか。
だが姉たちの側に身を置いて考えてみよう。
リアは自分で言っているように、老後は末娘コーディーリアに世話されて暮らすつもりだった。
ところが、末娘の思いがけぬ冷淡な言葉を聞いて逆上したため、急に今後の暮らし方を考え直さなければならなくなって、とっさに百人の騎士を引き連れて
一ヶ月ずつ長女の城と次女の城に居候しよう、と思いついた。
姉娘たちからすれば迷惑この上ないことであり、えっそんなの聞いてませんけど!というのが彼女らの気分だろう。
おまけに父王は、だいぶボケが進んでいる。
  ゴネリル「お父様は歳のせいですっかり気まぐれにおなりだわ・・」
  リーガン「耄碌したのよ。もっとも、昔からご自分のことは少しもお分かりじゃなかったけど」
  ゴネリル「一番元気でしっかりしていた時だって見境がなかった。その上あのお年でしょう、覚悟しとかなきゃ。」
それに、そんな父に末娘は可愛がられたが、上の二人の娘たちはどうだったか。

   多神教の時代に住むリアには(唯一)神の観念がないが、娘たちの背後には悪の世界があり、その悪の世界を通して結局は神とリアが向き合っている。
   彼はついに完全に錯乱する。これが劇の頂点である。
   リアを苦しめる舞台全体の心理的緊張は続く。しかも増してゆく。
   これは生理的にも、観衆にも長くは耐えられない、それ故そこには当然一つの破綻、あるいは爆発が期待される。

それが3幕7場の老グロスター拷問のシーンだと吉田は言う。

   嵐の場面も含めて、これまでの動きのすべてがこの場面を必要としている。
   このような残忍さが3幕にわたって押し上げられて来たのであり、だからこそリアは発狂した。だがまだ解放ではない。
   蓄積された力は放出されねばならない。
   この場面で、それまで閉じ込められていた力がはけ口を与えられたために、ゴネリルやリーガンの世界とは別な世界が展開する余地が生じる。
   そういう意味で、グロスターが眼を抜かれるのは解放である。

この思いがけない、大胆な分析はどうだ!
「グロスターが眼を抜かれるのは解放である」!
傍点をつけたいところだが、ブログではつけられなくて実に残念。
彼のおかげで新しい視点が開けてくる。
気の毒な老グロスターは、ここで両目を失って初めて息子たちの真の姿が見えてきた。
父親に謀反を企むとんでもない悪党だと信じ込んでいた長男エドガーが実は無実で、それを自分に吹き込んで信じさせた次男エドマンドこそ、父を殺すことも厭わない
謀反人だったと知るのだ。
つまり、盲目となって初めて、言わば目が開けたのだった。
この後、城を追い出された彼は、あてもなくさまよううちに、身をやつしたエドガーに発見される。
エドガーは、父の家来たちに追われて逃げ、狂人に扮して洞窟に隠れていた。
彼は盲目となった父を見て激しいショックを受けるが、涙をこらえ、言葉使いを変え、自分の正体が父にバレないように努める。
そして父が行きたいと言うドーバーまで道案内するのだ。
こうして二人の道行が始まる。
エドガーは、父が絶望のあまりドーバーの断崖から身投げするつもりなのを察し、何とかしてそれを阻止しようとする。  
その途中で、彼らは狂ったリアに出会う。
リアもまた、今ようやく娘たちの真の姿が見えるようになったのだった・・・。

   コーディーリアがいないでゴネリルやリーガンばかりの世界を人間の世界であるとするのは虚偽であり、人間の世界を問題とするならば、
   そこにコーディーリアが登場するのは避けられない。
  
   かつてこの芝居の結末をハッピーエンドに書き直したものが上演されていたことがある。
   そこではフランス軍が勝ち、ゴネリル・リーガンの一党が敗れ、リアが復位して安穏に余生を送る。
   だがそうなると、人間と人間悪の問題は放棄されてしまう。
   悪に抗議することは人間の倫理的要求であるのみならず、芝居の観衆の生理的欲求でもある。
   このことがこの作品の筋を決定している。

この劇のあまりに悲劇的な結末に耐えられなかった人は、ヤン・コットだけでなく、以前から多くいたらしい。
18世紀に流行した改編版というのがあり、そこではリアは復位し、コーディーリアとエドガーがめでたく結ばれる(笑)。
フランス王はどうなったのか、と少々気になるが、とにかくこの二人は同世代で善良であり、身分上も何とか釣り合うのだから、
二人を一緒にしたくなる気持ちは、わからなくはない。
ちなみに評者は子供の頃、子供向きのダイジェスト版を読んでケント伯爵に感動し、この人とコーディーリアが結ばれればいいのに、と思っていた(笑)。
ケントは48歳だと自分で言っており、当時の感覚からすると、すでにかなりの年寄りだ、と気づいたのはだいぶ経ってからだった。

吉田は「悪に抗議することは人間の倫理的要求であるのみならず、芝居の観衆の生理的欲求でもある」と言う。
「悪に抗議する」とはどういうことかと言うと、悪人共が戦いに敗れ、善人が勝利するという勧善懲悪ではなく、この世の現実を忠実に反映して、
悪が栄え、善人が滅びるという過酷な不条理を観客の眼前に描き出すということだ。
悪が初めからなかったかのように簡単に消滅し、リアが元の地位を取り戻したのでは何の解決にもならない。
そんなハッピーエンドこそ、ただの絵空事に過ぎず、誰の心をも打つことはない。
乱れに乱れた世界がようやく秩序を取り戻した時、犠牲も生じる。
それがリアとコーディーリアの死、父グロスターの死なのだ。
悪人共の悪事はすべて露呈し、彼らはみな死ぬ。
それは観客にとってまことに喜ばしいことであり、すべての人に満足をもたらすものだ。
人間には「正義」の感覚が与えられているから。
だが善人たちもまた、数人を除いて死んでしまう。
悲しみに満ちた結末だが、この世の不条理を直視しているという点で極めて現代的であり、だからこそ深い感動を与えてくれるのではないだろうか。









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