神や愛を説く精神世界を学び知りそれを実践することになれば、
それが世間一般で見られているような、
神社仏閣や教会に神仏霊魂を偶像化して奉りそれらを崇拝したり、屋敷の中に神棚を奉ったり、また仏壇やお墓に先祖を奉り線香やお供えで供養したり節目に法要したり、また冠婚葬祭や伝統行事に神仏霊魂を迎えるなどがあります。
それらは見える形で執り行われますから、それをやり遂げたと言う実感が伴い自己満足できます。
だからそれらの行動実践を続けることが出来るのです。
また宗教で言われるような施しお接待や善行の実践や布教活動も形の実践でその結果が見えるだけにやり甲斐があります。
ところが生まれ持つ欲を捨てる実践となるとその実践は不可能です。
また私が正しいと否定反発・主張し堅持誇示したがる意識やその守り意識をなくする実践となるとそれにも無理があります。
すなわち何らかの欲がある内は精神面の実践は無理なのです。
だから我慢辛抱し堪える(禁欲修行)ことなどをしてその欲を抑えることで誤魔化したり言い訳正当化するしかありません。
だから人類誕生以来その欲が原因からして小さくも大きくも様々な形での問題が限りなく出続けています。
何たってこの世の救世主のように思われていた過去の釈迦やイエスやまた現在の神懸り超能力者や宗教家や教祖さえも欲を持って生まれ出ているくらいですから欲だけはどうしようもないのが事実です。
だから如何なる精神世界が語り説かれようが、またどんな神懸り超能力者やの救世主が現れ出ようが欲をなくすることは絶対に無理なのです。
そしてそれらが成して見せる事と言えば物質的外見的にも見える状態のその形やを変化修正する程度です。
中には無から有を出したようにみせかけるサイババがいますが、完全な無から有を出すことは俗に言う神様でもってしても不可能です。
だから今は見えていながそれを見える形に変化させただけのことだと思います。
すなわち見える形の物ならばそれを出したり消したりと魔術のように何とかできても、形にして見せる事が出来ない見えない命&意識だけは人の手で変えようがないのです。
と言うことは古今東西の救世主と言われる人の説く精神世界を(良かれ悪しかれ)見聞する事はできても、
見えないところの精神面での実践は自らの意識でもって(独自独歩で)やるしかありません。
しかし先程に書いたように自らの実践意識でもってしても生まれながらにして持つ良い悪いで判断する矛盾意識を無くすることは不可能です。
ゆえにその自己満足や不平不満の原因になる我欲を消すことも無理なのです。
しかも救世主教祖らが説くその精神面での実践意識にさえなれない人がいるし、その精神世界の学びすら疎かにしておいてその神懸り超能力者が何とかしてくれるものと思い憧れ信頼し期待する人がいるくらいですから、
その救世主教祖やのその説教そのものの(不完全が顔を覗かすだけに)必然性さえも薄れかけているし、
時には神懸り超能力があるためにそれに惑わされて実践の邪魔立てになることもありますから、
とにかく精神世界を説く形が有っても無くてもどうでもいいような状況になっていると思います。
しかし宇宙・神・愛のあるがままの精神世界を不完全意識の未熟ながらも実感でもって味わい知ることは人間としての役割と使命ですから、
とにかく自然体でもって生きていくためにも欲が出ずらい形の生活にして、人様の事を気にしないままに、その自由にして、素直謙虚素朴に生きる、その実践なら(未熟&不完全ながらも)何とかずーっと続けることが出来るかもしれません。
何たって欲を捨てる修行や女人禁制の禁欲生活や仏門に下らないでも、
ごく普通の生活の中で出来る実践をしながら神や愛の精神世界を学び知ることを始めればいいわけですから。
それが世間一般で見られているような、
神社仏閣や教会に神仏霊魂を偶像化して奉りそれらを崇拝したり、屋敷の中に神棚を奉ったり、また仏壇やお墓に先祖を奉り線香やお供えで供養したり節目に法要したり、また冠婚葬祭や伝統行事に神仏霊魂を迎えるなどがあります。
それらは見える形で執り行われますから、それをやり遂げたと言う実感が伴い自己満足できます。
だからそれらの行動実践を続けることが出来るのです。
また宗教で言われるような施しお接待や善行の実践や布教活動も形の実践でその結果が見えるだけにやり甲斐があります。
ところが生まれ持つ欲を捨てる実践となるとその実践は不可能です。
また私が正しいと否定反発・主張し堅持誇示したがる意識やその守り意識をなくする実践となるとそれにも無理があります。
すなわち何らかの欲がある内は精神面の実践は無理なのです。
だから我慢辛抱し堪える(禁欲修行)ことなどをしてその欲を抑えることで誤魔化したり言い訳正当化するしかありません。
だから人類誕生以来その欲が原因からして小さくも大きくも様々な形での問題が限りなく出続けています。
何たってこの世の救世主のように思われていた過去の釈迦やイエスやまた現在の神懸り超能力者や宗教家や教祖さえも欲を持って生まれ出ているくらいですから欲だけはどうしようもないのが事実です。
だから如何なる精神世界が語り説かれようが、またどんな神懸り超能力者やの救世主が現れ出ようが欲をなくすることは絶対に無理なのです。
そしてそれらが成して見せる事と言えば物質的外見的にも見える状態のその形やを変化修正する程度です。
中には無から有を出したようにみせかけるサイババがいますが、完全な無から有を出すことは俗に言う神様でもってしても不可能です。
だから今は見えていながそれを見える形に変化させただけのことだと思います。
すなわち見える形の物ならばそれを出したり消したりと魔術のように何とかできても、形にして見せる事が出来ない見えない命&意識だけは人の手で変えようがないのです。
と言うことは古今東西の救世主と言われる人の説く精神世界を(良かれ悪しかれ)見聞する事はできても、
見えないところの精神面での実践は自らの意識でもって(独自独歩で)やるしかありません。
しかし先程に書いたように自らの実践意識でもってしても生まれながらにして持つ良い悪いで判断する矛盾意識を無くすることは不可能です。
ゆえにその自己満足や不平不満の原因になる我欲を消すことも無理なのです。
しかも救世主教祖らが説くその精神面での実践意識にさえなれない人がいるし、その精神世界の学びすら疎かにしておいてその神懸り超能力者が何とかしてくれるものと思い憧れ信頼し期待する人がいるくらいですから、
その救世主教祖やのその説教そのものの(不完全が顔を覗かすだけに)必然性さえも薄れかけているし、
時には神懸り超能力があるためにそれに惑わされて実践の邪魔立てになることもありますから、
とにかく精神世界を説く形が有っても無くてもどうでもいいような状況になっていると思います。
しかし宇宙・神・愛のあるがままの精神世界を不完全意識の未熟ながらも実感でもって味わい知ることは人間としての役割と使命ですから、
とにかく自然体でもって生きていくためにも欲が出ずらい形の生活にして、人様の事を気にしないままに、その自由にして、素直謙虚素朴に生きる、その実践なら(未熟&不完全ながらも)何とかずーっと続けることが出来るかもしれません。
何たって欲を捨てる修行や女人禁制の禁欲生活や仏門に下らないでも、
ごく普通の生活の中で出来る実践をしながら神や愛の精神世界を学び知ることを始めればいいわけですから。