孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

真実を知らないために命をかけてまで<守り闘う>ことになっている、その原因・事実を知ることが先です。

2009年12月13日 | Weblog
私達は此れまでに無かった完全真理(この世の最初で最後となる)によって・・・私達人間があまりにも「真実」を知らなさ過ぎた欠陥人間・不完全人間だったことが証明されています。

例えば・・・有史以来の歴史を顧みれば・・・自分の命をかけてまで守り・闘ってきた典型的な事実がたくさんあります。
中には・・・思想弾圧や宗教弾圧と闘って命を落とした人も大勢います。
それを日本で言えば・・・島原の乱で有名になったキリシタン弾圧やその「踏み絵」が語られていますし、戦前戦中の共産主義弾圧の「赤狩り」や宗教思想の弾圧もありました。

ところが、そうなる前に・・・自らの命をかけてまで、己の信じる思想活動や布教活動に加わって広めてきた人も大勢います。
その中には・・・布教の為に未開の地に入り原住民に殺された布教師や、異教徒の迫害に屈せずに闘い敵対側を倒して(大勢を殺して)勝利した勇敢な布教師や、その途中半ばで惜しくも命を落とした布教師などがいて、それらが聖者として奉られている場合も世界各地で多く見受けられます。

また旧約聖書?に、弾圧・迫害から逃れて新天地を目指して海岸に来たときに、運悪く追手の軍隊が迫って来て困りましたが、モーゼ?が海面を割って避難民を対岸まで導き、その後に迫ってきた軍隊は海に飲み込まれるという話が有名ですが、その軍隊命令に従っていた多数の兵士にも命があり家族があるのに・・・何でそこで無残な死に至ることになるのか変に思いません?兵士は悪の手先だから殺しても正義だから神が祝福するの?

それが近代戦争となると・・・自らが選択した、今で言う自爆作戦・自爆テロと言える爆弾三勇士や突撃隊や特攻隊があります。

それらには・・・他の命(味方)を守るために、他の命(敵側の命)を奪うという矛盾があります。

何故そうなるのか・・・ 命の大切さ、尊さと言うよりも、持って生まれてきた(当たり前の)「命」そのものの真実を知らなかったからではないの? ・・・神の名の下に洗脳・思い込み・自己暗示にかかっていたとしか思えませんが・・・

だからか、それ以後にも・・・特定の思想や特別な宗教やその時代の社会国家が正しいと思い込み・妄信したり洗脳されたり自己暗示にかかってしまった挙句に・・・命をかけてまで宣伝・布教・侵略・戦争することになり、また勝ち得たその成果を守るためにもまた命をかけて敵対するものと戦うという・・両者・両側・対立の堂々巡りがいつまでたっても終わりません。

もしも現在の私達が・・・島原の乱のときのように・・・「踏み絵」を踏まなかったら十字架に張付けられて処刑されるのを知っているのに、その踏み絵を足で踏みつけるどころかその踏み絵に口づけをする人がいますか?・・・
もしも十字架で処刑されることを選択したとしたら・・・他の命を守るために他の命を奪うモーゼ同様の意識・・・派閥抗争・闘争や戦争・自爆テロをするような偽善者と同じ意識になっていると思いませんか?・・・そして「私は正しい」ことをしたと思う正義感を持っていませんか?・・・その正義とやらは何処にあるのですか?・・・
その思想や宗教や社会国家が言う正義が正しかったことが此れまでの歴史に一つでもあったでしょうか?・・・中途半端な妥協ではなかったの?・・・それが真実の正義なら遠い昔にこの世の混乱や戦争が消えていると思いません?

そこで「完全真理」で言われているのが・・・
宇宙の創造主が神であれば、その神から生まれたすべても同じ神です。 
宇宙から生まれた惑星・地球が宇宙でなければ、人間から生まれた赤ちゃんが人間ではなくなります。
だから創造主が神で無ければ、すべても神ではありません。
しかしその神と言われる名称・形がなくても・・・宇宙・万物はこの世に実在しているではありませんか?
そうすると神が居ても居なくても同じでしょう・・・「あるがまま」にあるだけでしょう・・・それが<真実>なのです。

形姿が違っていても、すべてが同じなのです・・・すべてが「ひとつ」なのです。
だから特別は無いのです。 だから特別になる必要・必然は何処にも無いのです。
その特別に生きようとする者の意識は・・・真実・実在で生きているのではなくて非実在で生きていることになり、宇宙でも神でも人間でも無い不完全意識で生きている「命」になるのです。

そして特別なことをしているだけに必ず「私は正しい」を持っていて、それを守るために闘います。
それが潔癖・完璧・正義感になります。
その「私は正しい」が無ければ皆と同等・平等となり、特別が無ければそれに執着・束縛制限されないから自由があります。
そして皆と同じですから、良い悪いで判断せずに「お互い様」「お陰様」の調和の関係で争うことも不満に思うこともありません。 

しかし・・・如何に完全とは言えども・・・此れを他の人の意識に当てはめ託すことには絶対無理がありますから・・・先ず自分が意識して生活する実践が先でなければなりません。
だから・・・この世の矛盾・不完全にあまり関知せずに(どうしようもないことに)巻き込まれないようにして、自分に過ぎた特別の無い日常の生活の中で真実を学び知り悟る方向に意識を向けて進んでいくしかありません。

それ以外の事(この世の)不完全・非実在にいくら意識を向けても、その結果は同じ不完全・非実在しかありません。
まして自分が不完全なのだから特別なことをせずに・・・まして「私は正しい」と意地を張らずに、自己主張・顕示・救世主・正義感を持たないようにして・・・矛盾・不完全な他のことに巻き込まれないためにも(やぶへびにならないために)、あまり介入・お節介しないでおいて、人それぞれの中の意識・命に任す・・・ほっとけ・仏に任す・・・しか何の手立てもありません。

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