孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

不満と欲でもって「老後さえも欲張り続けていれば」生きた屍が如くの老後となるようです。

2020年09月25日 | Weblog
私は60歳にして諸々の人間関係の矛盾やら非情さ理不尽さにふと気付き「何で・どうして」と違和感が芽生え「じゃどうするの」となり…

その意識が原因からして宇宙・神・愛の仕組みの必然ご縁の連続からして思いもよらなかった…
家族と離れた過疎地でもって「孤独の自由」を味わうことになりました。

然るにそれが素朴謙虚生きていく自己縮小の実践となることを後日知りました。

その自己縮小の生き様を味わっているうちにいつの間にやら「欲張らない実践」をブログに書くことになり現在に至っています。

その人間関係から離れた孤独の自由からして満足納得したことからして…食って寝て糞をしながらの…グーたら生活が板に付きました。

然るに…嫌なことはしない・面倒なことは避ける・疲れたら途中でやめる・やる気になったら行動する…成り行き任せにして生きています。

またそれが巷の変化刺激に満ちた趣味嗜好娯楽などが色あせて離れることにもなりました。

また食生活となれば朝はパンと牛乳、昼はうどんと野菜のかき揚げ、夜はご飯とスーパーのお惣菜という食生活の繰り返しが現在も続いていますが…それがいつも美味しいのは…不満と欲の喜怒哀楽から離れて心身が安定しているからです。
…不平不満が原因からしてその衣食住までも不味くしているのです…
だから尚更に欲張ることになり、またキリもなく繰り返し続くのです。

然るに孤独の自由の生き様に納得して満足していますから不満が出てこなくなり…
それだけに自然界の恵みの衣食住でもって何とかしながら生きていることが有難く思うようになり…

また不満が無くなることで巷の変化刺激に満ちた人為人工的な諸々が次第に色あせ必要無くなり…
その苦と楽の喜怒哀楽の矛盾の繰り返しから離れるからして心身のストレスが次第に消えて…

結果的に欲張らずにして心身の健全健康にして生きていることの価値を見出すことになりました。

然るに過去の生き様を省みて…
此れではダメだの不満と何とかしなければの欲からして…数に限りがある有限の世界でもって…欲張ることが…生活弱者を虐める・差別する罪作りに思えるようになりました。

またその欲張らない実践からして更に気付くことが多くなり、それを根掘り葉掘りブログに書き続けていますが…

その欲張らない実践の必要性に気付きながらも欲張り続けているとなれば…
何やら愚かで卑劣な卑怯者にも思えるのが私です。

ちなみに欲張ることからして数々の問題が出てきて結果的に困ったことになっているのだから、逆に欲張らなくなれば全てが解決できることに気付いていない精神未熟にして哀れな人に私は思えるわけです。

然るに欲張ることの是非を真面目真剣に捉えないで相変わらず喜怒哀楽の繰り返しで生きている・いい加減な・中途半端な・精神未熟な・お粗末な人に私は思えるのです。

しかも欲張ることが当然でありそれが正しいことに思えるようならば…お粗末な精神にして…ことの分からないおバカさんに私は思えるのです。

とにかく欲張って物や金や姿形や生活環境やで何かと「得」をしたように錯覚勘違いしていても…
その老後でもって惨めで哀れで悲惨な生き様になって「損」となります。

然るに…後悔先に立たず…の結果になります。

なのにその老後さえも欲張り続けていれば…生きた屍が如くの老後となるでしょう…

何はともあれ…欲張らない実践が今は無理でも…その欲張ることの是非を真剣に自問自答することからして、次第に心構え精神意識が変わり・仕組まれ、その実践が可能になっていくのです。