孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

素朴謙虚にして生きている中に<本物>を味わい楽しめるから虚しさ寂しさの孤独感にはなりません。

2015年12月17日 | Weblog
誰もが矛盾偽善を持っていますから、何とかなるようでも、しかし「どうしようも」ありません、それ事実です。
然るに矛盾偽善のままに生きてその積み重ね上塗りする人生で人間を終えます。

ちなみに悩み困ったことがあっても自力ではなかなか解決できないし、解決したようでも根本原因が残っているから「ぶり返す」ことになるし、
そこで他力の神仏霊魂・信仰宗教・超能力・霊力・念力、手かざし・チャネリング・ヒーリング・セラピー・カウンセラーなどに足を運んでも、それらも矛盾偽善がありますから余計な金銭の支出や時間の浪費をして「無駄」になります。

然るに「どうしようも」ありません。
何たって完全な宇宙自然界の中で人間だけが良い悪いで判断する不完全意識を持つ宇宙の中での「落ちこぼれ」だからです。

だからこのブログに来て、その「どうしようも」ない人間意識を深く理解することが先決です。
でなければ何をやっても余計なことで無駄になり、その矛盾偽善の積み重ねになるだけです。

ちなみに食って寝て糞をして生きている中にも味わい楽しめる本物があるのだが、巷の変化刺激の強い特別な趣味嗜好娯楽に興じているからそれらが味気なくなっているだけです。

然るに本能のままに生きている犬猫畜生よりも、
例えば食の味覚が敏感だから様々な味わいを楽しめ・食を極めることになるし、視覚も彩り深く鮮やかに見えて芸術的感性でもって楽しめますし、聴覚からして音をリズム・音感・感性的に捉えて楽しめるし、嗅覚でもってより深い香りを楽しむことができますし、肌でもって様々に奥深く感じて楽しむこともできますし、水や風とも楽しめるし、歩いたり走ったり泳いだり潜ったり木登りしたり岩や山を登る冒険や探検の楽しみもあります。

またそれらを繰り返しながらも様々に創意工夫する能力でもってそれを味わい楽しめ、それが自力にも自信にもなりますから、
虚しさ寂しさの孤独感を味わうことにはなりません。

ところがそれらを良い悪いで評価判断することからして優劣を競い合うことになり、その楽しみに苦楽が伴うようになったのです。
そして優秀な者は褒められ、劣る者は疎外されることになりますから、常にその苦楽を味わうことにもなりました。

然るに己がやることが楽しいはずなのに、人様の出来栄えが気になって、それをやる前から思い考え悩み躊躇することにもなっています。
そして「やらずに終わる」ことがたくさんあるはずです。

そこで暇で退屈すれば人為的に用意された諸々の中から選んでそれを受け身で楽しむことが多くなったのが現在です。
だから楽しいようでも何かが欠けているような納得できない楽しさで終わっているのです。

しかも優劣で判断されことにでもなれば尚更におかしなことに巻き込まれてその苦楽を味わうことになりますから、過ぎた自己満足と不快な不平不満、度の過ぎた苦楽、自惚れ慢心になるか負け犬が如く落ち目になります。

だから生きていても何か事足りない、その不平不満で生きているのとまったく同じなのです。
だから尚更に人為的な形で自己満足するしか他にないのです。

然るに何度も書いているように「どうしようも」ないことから離れて己の自力と自信でもって独自独歩で生きていくしか(この世では)他に道はないのです。

それが特別な生き方なら此れまでの繰り返しになりますが、
しかし素朴謙虚にして食って寝て糞をしながらにして生きているだけでも楽しめるのが先ほど書いた内容です。

そして自力で味わうことですから納得のいく満足になります。

また暇で退屈する時間が変化刺激のない精神が穏やかな時間に変わるのです。

そして何が無くても精神の安定でもって生きていることに価値を見出せるのです。

然るに巷の人為的な変化刺激から卒業できて納得のいく人生を過ごすことにもなるのです。

となれば巷の人為的なことに関わって楽しんでも、それに執着しないままに一時の「おまけ」として捉えるようになります。
しかもやがてその「おまけ」さえも必要なくなります。

そして必然ご縁の来る者は拒まず去る者は追わずの成り行き任せに生きることになりますが、
しかし先行きの灯台が見えているが如くの安心安全でもって(大船に乗ったつもりで)成るようになっていくだけです。