孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

愛よりも愛情を選び、仙人よりも釈迦やイエスの類を選びたがるのは?

2014年12月19日 | Weblog
精神世界で天国を説くためにはその裏の地獄が必要になります。
然るに地獄を言えば天国を語ることにもなります。
そうなると善悪損得優劣&苦楽&飴と鞭&褒美と罰などの裏表の使い分け&矛盾で生きることになります。

ちなみに自己満足を欲しがらなければ不平不満にはなりません。
然るに不平不満を持たなければ自己満足も必要なくなります。
すなわち裏表の矛盾がありません。だから完全になります。

また不信感が無ければ人様を信じる必要もありません。
ところが人様を信じたがることはその裏に不信感があるからです。
また不信感が無ければ守り戦うことにはなりません。

ところが聖者とも言われるイエスはサタンと戦いました。
また釈迦は邪な霊と戦いました。
然るに不信感・敵対心からして己を守り戦うその矛盾意識を持った人間なのです。

また「守る」のは良いとこ取りの欲です。
その欲が無ければ守ることにはなりません。
然るに先付けの思い思惑&期待願望を持ったりまた否定反発排除することにもならずにして必然ご縁の成り行きに任せます。

ところが良い悪いで判断してその悪いところを否定反発排除したがるのが人間です。
然るに愛の心は出ていません。
ちなみにその悪いことを排除するからには当然ながら良いとこ取りをすることにもなります。

その良いとこ取りの欲が無ければ不平不満&不安心配恐れにもなりません。
また私は正しいと自己主張することにもなりません。
然るに欲が無ければ矛盾の無い完全意識&愛意識になります。

ところが生まれながらにして持っている欲を無くすることは出来ません。
そこで欲が出ても(執着しないで)欲張らなければ(頑張らなければ)その欲が無かったが如くに消えていきます。

然るに釈迦やイエスの形は欲張った結果になりますが、ちなみに名も無き仙人は欲張らなかった形になります。
しかし多くの人は仙人よりも釈迦やイエスを選ぶことでしょう、
何故なら「欲張り」だからです。
だから普通の愛よりも特別な愛情を選ぶことでしょう。

然るに特別な人を敬い仰ぎ奉るのも自分も同じ特別な人間になりたいその野心野望&期待願望を持っているからです。

ちなみにその特別な教祖指導者が自由を説いたり差別をなくすることを唱えたり調和の世界を目指すのはインチキ&嘘偽り偽善になります。
更にその嘘偽り偽善の欲絡みで動いていることに気付けないのも己に特別になりたい欲があるからです。

然るに同じ穴の狢であり、しかもドングリの背比べをして少しでも上に立って特別になりたい欲があるからです。

そしてそれが正しいと思い込んでいるところがあります。
だから欲が渦巻くところに人が集まるのです。
ちなみに釈迦やイエスの類やヒトラーやオーム真理教の類に人が集まることにもなるのです。

もしもそうでなければ、その欲が渦巻く同じ穴の狢の集団&赤信号を皆と一緒に渡るその集団から脱するはずです。

ちなみに釈迦やイエスの類であれヒトラーやオウムの類であれ、完全真理からすればどっちが良くてどっちが悪いではなくして(欲張った結果は同じですから)どっちもどっちも同じ類になるのです。


そこで欲張ることが無くなれば人の集まるところよりも静寂にして仙人が如くの孤独を選びます。

となみに仙人と言えども不完全意識ですから、その欲絡みの人間関係&柵シガラミなどのわずらわしいこと(常識・伝統風習・道徳などの無理無駄余計なこと)に人様を巻き込んだりまた己が巻き込まれたくないはずですから、然るに孤独と自由にして独自独歩に歩むことになると思います。