ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

旧東海道第Ⅲステージ第8回 草津宿~京都三条(1日目)

2023年11月26日 | ウマさんの「旧東海道」を歩く
2023年11月26日(日)

旧東海道第Ⅲステージの前回の第7回(関宿から草津宿)は、2023年5月13日から5月16に歩いた。
残すは草津宿から京都三条大橋までの2宿となっていたが、今回、旧東海道第Ⅲステージ第8回
(草津宿から京都三条大橋)として、2023年11月26日から11月27日にかけて歩いた。

第Ⅰステージ 日本橋から三島宿 2014年1月から2014年10月(凡そ10か月)
第Ⅱステージ 三島宿から新居宿 2016年5月から2018年4月(凡そ1年11か月)
第Ⅲステージ 新居宿から京都三条大橋 2018年5月から2023年11月(凡そ5年6か月)

日本橋をスタートしたのが2014年1月19日(日)だったことから、旧東海道終点の
京都三条大橋までを歩き終えるのに8年10か月かかったということになる。

旧東海道第Ⅲステージ第8回 草津宿~京都三条(1日目)

この日は荒川沖駅6時19分発の電車に乗り、東京駅7時57分発の「こだま707号」で米原へ。
JR東日本の大人の休日俱楽部会員は、「のぞみ」「ひかり」の指定席は利用出来ない。
東海道新幹線で乗ることが出来るのは、「こだま」のみである。
米原駅から東海道線に乗り換えて草津駅へ。
草津駅には12時14分に到着した。


草津駅前には、旧東海道と旧中山道の道標のモニュメントが建てられている。
右東海道いせち(伊勢路)と刻まれている。


草津駅前の道路を旧中山道方面へ。


旧中山道には、”草津歴史街道”の説明板(内容は省略)があった。
ここを右に曲がって行けば、旧東海道との分岐点(追分)になる筈だ。


旧中山道を少し進むと、トンネル(草津川隧道)があった。


草津川隧道の由来に関する説明板はトンネルを抜けた所にあったが、このような内容となっている。


トンネル(草津川隧道)の中は、両側に街道の景色を描いた絵があった。


こちらは宿場の風景だ


トンネル(草津川隧道)を抜けると、右側に高札場が。


反対側には東海道と中山道の追分道標が建てられている。
ここはかつての日本五街道の最幹線で、東海道と中山道との分岐点である。
トンネルができるまでは、この上の川を越せば中山道へ、右へ曲がれば東海道伊勢路へと行けた。
ここは草津宿のほぼ中心部で高札場もあり、この付近は追分といわれ、銅製の立派な大燈籠は、
旅人にとっては大切な目安であった。
常夜燈だけは今もかつての草津宿の名残を留めている。


また、ここには東海道に関する草津歴史街道の説明板(内容は省略)があった。


草津宿の看板


草津宿を進むと・・・


右側に本陣跡の建物があった。
史跡草津本陣跡(田中七左衛門本陣)は、全国に残る本陣遺構の中でも、ひときわ大きな規模を有しており、


延4726㎡の敷地内には、かつての本陣の姿を髣髴とさせる数々の建築物が残され、関札・大福帳・調度品他、
貴重な資料も数多く保管されているなど、近世交通史上、きわめて重要な文化遺産である。
入館料は史跡草津宿本陣のみの場合は240円、草津宿街道交流館との2館共通の場合は350円となっている。


田中本陣跡の少し先に脇本陣跡の建物が。
草津宿には、本陣が2軒、脇本陣が時代によって2~4軒あった。
この家は脇本陣藤屋与左衛門家にあたる。
今はお茶屋(吉川芳樹園店舗兼主屋)になっている。


草津宿街道交流館


交流館の少し先に草津宿の宿場町の地図があった。
宿場町を歩く際にはこのような地図があるのはありがたい。


石造道標
正面「右東海道」、右面「天明七年五月吉日」と彫られている。
以下の説明が・・・
江戸時代後期の作とある。
もともと建てられていた場所は分かりませんが、曲がり角や分岐点で東海道の道筋を示していたと思われます。
右側面に天明7年(1787)の年号が刻まれていることから、現存する道標のなかでは比較的古いものといえます。


「道灌蔵」前を通過


呉服商 万屋善助前を通過


12時42分、立木神社に到着した。


以下は、立木神社HPより
立木神社の創建は古く、縁起によると今から約千二百数十年前の神護景雲元年(767年)のこと、
御祭神である武甕槌命(たけみかづちのみこと)が常陸国(茨城県)の鹿島神宮を白鹿に乗り旅に出られ
(古来初めて旅立つ事を鹿島立ちと云うのはこの縁による)、諸国を経てこの地に到着されました。
そして、手に持たれた柿の鞭を社殿近くに刺されこう言われたそうです。
「この木が生え付くならば吾永く大和国(奈良県)三笠の山(春日大社)に鎮まらん」
すると、その後不思議にも柿の木は生え付き枝葉が茂り出しました。
里人は御神徳を畏み、この木を崇め神殿を建て社名を立木神社と称したのが始まりと伝えられています。


延暦二十年(801年)、征夷大将軍坂上田村麿将軍が、東北鎮圧に際して、当社にて道中安全と厄除開運を
祈願され大般若経一部を寄進しました。
この霊験に由来し、現在では厄除開運・交通安全の守護神として崇敬を広く集めています。
また、当社は古来より朝野の崇敬厚く五穀豊穣・家内安全・安産・商売繁盛・火災鎮護並びに
勧学の大神としてご神徳高く広く信仰されております。


立木神社を後にして、旧東海道へ。


12時53分、草津川に架かる矢倉橋を渡り、


旧東海道を西へ。


小さな地蔵尊に心の中で手を合わせる。


矢倉道標(市指定有形民俗文化財)
東海道と矢橋街道の分岐点に、かつて「姥ケ餅屋」があった場所の北の軒先に一基の石造道標があった。
これは、東海道を道ゆく旅人を矢橋の渡し場へと道案内するものであった。
この道標は、歌川広重の浮世絵をはじめ、「東海道名所図会」や「伊勢参宮名所図会」などに紹介された
「姥ケ餅屋」の軒先にも描かれている、とのこと。


南草津駅近くの旧東海道と東海道(国道1号)の合流点


国道1号を渡った先に、野路一里塚跡の碑があった。
野路一里塚は、日本橋から119番目の一里塚である。
現在は、上北池公園になっている。


関ケ原の合戦で、天下を手中にした徳川家康は、慶長6年に東海道、慶長7年には中山道に対する伝馬徴発令を
発布するなどいち早く江戸を中心とする交通、運輸網の整備を進めた。
慶長9年(1604)には引き続き東海道、中山道、北陸道の街道沿いに一里塚を築造した。
(以下略)


この先の旧東海道は複雑と聞いていたが、赤字で示された道標があったので、これを参考にして進んだ。


東海道と書かれた表示板に従って進む。
こういう案内標識はありがたい。


旧東海道を進んで行くと・・・


弁天池を示す地図があった。
赤く表示された道が旧東海道である。


少し進むと、”古き宿駅 野路駅の名残り”の説明板が。
野路の地名は平安時代末期にあり、「平家物語」や多くの紀行文にもその名がある。
ここ野路の十禅寺川と東海道が交わる辺りには、日本六玉川の一つとして古くから歌枕に詠まれた名勝がある。
「千載和歌集」の源俊頼の歌に
あすもこむ 野路の玉川 萩こえて 色なる波に 月やどりけり
と詠まれた野路の玉川である。
萩の名勝として近世には、「近江名所図会」や歌川広重の浮世絵にも紹介されている。 
付近には重要文化財の本殿がある新宮神社をはじめ、野路小野山製鉄遺跡など多くの歴史遺産が所在する。


旧東海道を少し進むと・・・
弁天池があった。


弁財天参道橋を渡って弁天様に行けるようになっている。


弁天池を後にして旧東海道を進む。


月輪という地名の由来が刻まれた碑が建てられていた。
月輪池に由来する地名で、この池に映った美しい月の姿から名付けられたとも、
月輪殿九条兼実の荘園内にあったからともいわれます。
元来は原野でしたが、江戸時代に入って開墾がすすめられ、延宝四年(1676)大萱新田となり、
明治七年(1874)月輪村と改称されました。


曹洞宗普門山月輪寺行者堂


月輪寺行者堂には、新田開発発祥の地碑と


明治天皇御東遷御輦之所(めいじてんのうごとうせんごちゅうれんのところ)の碑が建てられていた。


さらに進んで道路を横断した所に東海道立場跡の碑があった。


立場跡の碑の後ろ側は枯れた状態であるが、月輪池と思われる・・・


旧東海道を進む。


一里山橋を渡り、


道路名は不明だが、そこを横断して緩やかな坂道を下って進む。


大江の千里(ちりんさん)
大江の地を荘園として持っていた伝えられる「大江の千里」は平安時代前期の歌人で、三十六歌仙のひとりとして
また、百人一首の第二十三首の歌人として著名な人である。
その奥方がこの地に住まいしていた。
村人はその跡地に野上神社(現在は、御霊神社のお旅所)を建て、その遺徳を偲んだといわれている。
第二十三首「月見れば 千々にものこそ 悲しけれ 我が身ひとつの 秋にあらねど
瀬田学区自治連・瀬田歩こう会


旧東海道と思しき地図があった。


旧東海道を進む。


大場の桜
この山桜は樹齢約200年の古木です。
旧東海道筋にあり、毎年美しい花を咲かせています。
旧東海道と芦浦街道との分岐点にあるこの木は、昔から現在まで人々の様子を見てきた古木です。
この桜は、江戸時代には参勤交代ででみやびやかな列をなして、毛槍を振り振り供奴を連れた大名行列が、
物々しく西に東に行き交っていたのを見つめていたことでしょう。
瀬田学区自治連合会  瀬田歩こう会  瀬田文化振興会


赤い欄干の高橋川を渡り、


桧山神社を左手に見ながら進むと・・・


15時19分、瀬田の唐橋の袂に到着した。


瀬田の唐橋を渡る。


瀬田川に沿って大きなホテルや旅館が立ち並んでいる。


遠くに琵琶湖が見える。
日本三名橋・日本三古橋の一つで歌川広重の『近江八景』のうち『瀬田夕照』はこの橋の風景を描いたもの。
東から京都へ向かうには瀬田川か琵琶湖を渡るしか方法はなく、瀬田川にかかる唯一の橋であった瀬田の唐橋は
京都防衛上の重要地であった。
そのため「唐橋を制する者は天下を制す」と言われた。


瀬田の唐橋の中州辺り


こちらは京都方面


京阪石山坂本線の線路を越えたところの鳥居川交差点を右に曲がる。


旧東海道を進む。
草津駅をスタートしたのが、12時30分頃だったので、この日は出来るだけ距離を稼いでおきたい。
JR瀬田駅前にホテルを予約しているので、暗くなる直前の16時30分頃まで歩くつもりである。


国道1号下を潜り、


京阪石山坂本線を渡る。


さらにJR東海道本線の下を潜って進む。


工場群が目立つ旧東海道を進む。


農業試験研究発祥の地付近の碑
明治28年4月1日、この旧東海道の向いに広がっていた、粟津が原(旧膳所村別保)に滋賀県農事試験場が
開設以来百年を迎えるにあたり、これを記念して建立(平成7年3月)


大津市立粟津中学校前を通過


膳所城勢多口(南惣門)跡の碑
膳所城下町の南の出入口になる。


旧東海道を進む。


京阪石山坂本線の踏切を横断して右に曲がると・・・


16時7分、若宮八幡神社に到着した。
若宮八幡神社は、壬申の乱(672年)があって3年後の白鳳四年(675年)、天武天皇が宇佐八幡の神託により造営した。


神社の社殿等が完成したのは白鳳八年(679年)で、九州宇佐八幡宮の次に古い八幡宮であり、当初は
粟津の森八幡宮、のちに若宮八幡宮となり、明治から若宮八幡神社となった。
表門は膳所城の犬走り門を移築したもの。


旧東海道を進む。


また、京阪石山坂本線の踏切があった。


旧東海道を進む。


篠津神社
祭神は素盞鳴命(すさのおのみこと)。創始年代や社歴については不詳。
古くから産土神(うぶすながみ)として庶民の信仰を集めていた。
重要文化財に指定されている表門は、膳所城北大手門を移築したもの。


道なりに200mほど進むと、中ノ庄駅があった。
時計は16時20分を少し過ぎようとしていた。
この日はこの辺りでホテルに引き返した方が良さそうだ。
ということで、この日は京阪石山坂本線の中ノ庄駅をゴールとしよう。


この後、京阪石山坂本線で石山まで行き、JR東海道線に乗り換えJR瀬田駅へ行くことになる。
16時40分、JR瀬田駅前のAPA HOTELに到着した。


この日の万歩計は23,500歩を計測していた。


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