ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

旧東海道を歩く 第Ⅱステージ第5回 島田宿~掛川宿(2日目)

2017年01月10日 | ウマさんの「旧東海道」を歩く
2017年1月10日(火)

「ウマさんの旧東海道を歩く」の第Ⅰステージとして、日本橋から三島宿までの
約126Kmを2014年1月から10月にかけて歩いた。
第Ⅱステージは、三島宿から新居宿までの約158Kmを2016年5月から挑戦している。
今回は、都合の良い時間(日程)に気ままに歩くことを目的に、一人で歩くことにした。

第Ⅱステージ第5回目は、島田宿(JR島田駅)~掛川宿(JR掛川駅)を
2日間かけて歩いた。
2日目は、日坂宿から掛川宿までの約8.6Kmを歩いた。

ホテルの朝食場所は、1Fフロントの脇にある。
ガラス戸はホテルの入口で、その向うは外になる。


10名ぐらいが座れるテーブルと6名ほどのカウンター席が用意されている。


この日は、和食にしたが、洋食(クロワッサン)もあった。


7時35分、ホテルを出発


掛川駅北口を7時50分発の東山行に乗車
このバスに乗り遅れると、次は2時間後の9時40分発となるのだ。
乗客は、最初は15名ほどいたが、途中のエコポリス工業団地で
殆どの客は降りてしまった。
バスの中でホテルにストックを忘れたことに気がついたが、
引き返す訳にはいかない。


8時17分、日坂バス停に到着。


バス停は日坂宿本陣の直ぐ横だった。
日坂宿本陣の屋号は「扇屋」で、代々片岡家が世襲で営んでいた。
本陣の敷地はおよそ350坪、建坪220坪、門構・玄関付の建物だったが、
嘉永五年(1852)の大火で全焼。
再建後、明治三年(1870)に店を閉じた。


8時27分、掛川を目指して日坂宿を出発!
その前に、ホテルに電話し、ストックを部屋に忘れてきたことを説明。
掛川に着いたら受取りに伺う旨を連絡し、あらためて出発。


問屋場跡
日坂宿の問屋場は、かつてこの場所にあり、日坂宿の宿役人は問屋1人・年寄4人・
請払2人・帳附5人・馬指3人・人足割3人・同下役6人だった。
問屋場へは問屋・年寄をはじめ宿役の者が毎日交代で一人づつ詰め、
重要な通行があった時には全員で業務に携わった。


脇本陣「黒田屋」跡
日坂宿の脇本陣は、時代とともに移りかわり何軒かが務めた。
ここには幕末期に日坂宿最後の脇本陣を務めた「黒田屋(大澤富三郎家)」があった。


屋号を各家が掲げている。
かつて名乗っていた屋号や店などだ。
実際には「すし屋」や「だんご屋」はない。


「藤文」
日坂宿最後の問屋役を務めた伊藤文七郎
伊藤文七翁は、安政三年(1856)に日坂宿年寄役となり、万延元年(1860)から
慶應三年(1867)にかけて日坂宿最後の問屋役を務めた。
維新後の明治四年(1871)には日坂宿他27ヶ村の副戸長に任ぜられた。
その間、幕府の長州遠征に50両を献金、明治維新の時は、
官軍の進発費として200両を寄附している。
(中略)
この建物は、「藤文」部分が江戸末期に、


「かえで屋」部分が明治初期に建てられた。


「萬家」
建設時期は、安政年間(1854-1860)と推定されている。
筋向いの「川坂屋」が士分格の宿泊もできた大旅籠だったのに対して、
「萬家」は日頃、庶民の旅人が利用した旅籠だった。
間口は四間半(約8.2m)であり、幕末としては中規模の旅篭である。
江戸時代そのままに、一階が店や帳場で、二階が宿泊室という、
ごく普通の構えである。


法讃寺
真宗大谷派は、我家の宗派ということもあり、


この日の旅の無事安全を祈願した。


旅籠屋「川坂屋」は寛政年間(1785~1800)に、問屋役を務めたことがある
斎藤次右衛門が始めたと伝えられている。
宿で一番西にあった旅籠屋で、日坂宿では江戸時代の面影を残す、
数少ない建物の一つである。
格子が特徴的で、当時建築にあたっては、江戸より棟梁を招いたとのこと。


現存の建物は、江戸時代後期の嘉永五年(1852)に発生した、
日坂宿大火の後に再建されたもの。


(1月9日)
宿場内をきょろきょろしていると、「川坂屋」の管理人と思しき人が
中を案内してくれると言う。
お言葉に甘えて、内部を見学させてもらった。
中庭に続く通り土間


みせおく


みせおく


上段の間(二の間)
この襖の墨跡は、幕末期の幕臣、新政府では明治天皇の側近の一人であった
山岡鉄太郎(号は鉄舟・1836-1888)によるもの。
鉄舟は、戊辰戦争の際、勝海舟と協力して西郷隆盛を説いて、
江戸城の無血開城を実現させたことでも有名。


上段の間(一の間)


上段の間
格子の障子が美しい。


衝立の書は、隆盛の弟で明治の政治家・軍人の西郷継道(1843~1902)が、
明治二十一年(1888)夏に宿泊して書いたもの。
「以静侍譁 戊子夏日 南浦漁者」
(せいをもって かをまつ ぽしかじつ なんぽぎょしゃ)


わざわざ錠を開けて内部を案内していただいた管理人の方に丁重に礼を述べ、
「川坂屋」を後にした。
緩やかな坂道を下ると、


右手相傳寺の入口に秋葉常夜燈があった。
日坂宿はしばしば火災に遭っているためか、火伏の秋葉信仰が盛んであった。
当時の人々は、神仏のご加護を願い、秋葉講を結成し、分社や常夜燈を
各所に作った。
この常夜燈は天保十年(1839)に建立されたもの。
日坂宿には他にも本陣入口と、古宮公会堂脇の2基がある。


常夜灯の奥に相傳寺のお堂(観音堂)があった。
遠州三十三観音霊場の二十一番札所にあたる古寺で、
古くから日坂の人々の信仰を集めた。


観音堂脇には、三十三体の観音石像、


廃寺となった威法院の千浦地蔵(六地蔵)、


延命日限地蔵などが安置されている。


相伝寺の脇には、日坂宿の高札場が復元されている。
当時は相傳寺観音堂敷地内にあり、”下木戸の高札場”とも云われていた。


高札場の近くを流れる逆川の脇に下木戸跡がある。
大規模な宿場では観音開きの大きな門だったが、
小規模だった日坂宿では、川が門の役割を果していた。


逆川に架かる古宮橋を渡る。
江戸時代初期の頃までは橋幅も狭く、粗末な木橋で、いったん事が起こった時は
宿場の治安維持のために橋を外したとも伝えられている。


賜硯堂成瀬大域出生の地
文政十年(1827)ここ古宮町に生まれた成瀬大域は、明治期に活躍した書家。
明治天皇より楠木正成愛用と伝わる硯を賜り、自らと庵を”賜硯堂”と称した。


古宮町の秋葉常夜燈
弘化二年(1845)の建立。
常夜燈の後ろに見える小さな社は若宮神社だ。


県道415号との合流点手前に事任(ことのまま)本宮の鳥居があった。
本宮まで271段とある。
どんな所なのかちょっと立寄ってみよう。
この日最初の訪問地である。


一人がやっと通れるほどの急な271段の階段を上ると・・・


事任八幡宮本宮の鳥居があり、


小さな社が祀られていた。
かつてはここ本宮山に神が祭られていたのを平安初期の大同二年(807)に、
坂上田村麻呂が現在地に移転して再建したと伝えられている、そうだ。


9時5分、旧東海道は、県道415号(東海道)に合流。
昨日は、ここからバスで掛川に向かったのだ。


事任八幡宮へ参拝して行こう。
古代より”願いことのままに叶う神社”とされてきた、そうだ。
太鼓橋の先に一の鳥居がある。


境内に合祀されている金刀比羅神社と稲荷神社の先に楠の巨木があった。
高さ31m・目通り6m・根回り19.3m、静岡県内有数の大木である。
記述はなかったが、樹齢は500年くらいだろうか?


二の鳥居
事任八幡宮は、遠江国一の宮である。
創立年代は未詳とのことだが、一説には成務天皇の御代(131~190年頃)に
創建されたと云われている、そうだ。


事任八幡宮拝殿
古くより願い事を”ことのまま”に叶えてくれる神と伝わる。
主祭神は己等乃麻知媛命 (ことのまちひめのみこと
創建年代は不詳、大同二年(807)坂上田村麻呂が桓武天皇の勅を奉じ、
再興したと伝わる。
康平五年(1062)源頼義が石清水八幡を勧請し、八幡宮を称するようになった。
江戸時代の通称は「誉田八幡宮」だった。


事任八幡宮の御神木杉
本殿の東奥にあることから、御神木「東の宮様」と呼ばれている巨樹。
高さ36.5m、目通り6.3m、根回り11.2m
市指定天然記念物となっていることから、樹齢は350年以上と推察。


日本一の大笛
事任八幡宮で開催される大笛祭では、御神楽や各町内奉納囃子が披露される。
この大笛祭の「大笛」とは、中遠竹友会が奉納したもので、
日本一の長さ(約4m)といわれる。


県道415号線を掛川へ。
道の駅「掛川」が近くにあるようだ。
この道の駅には何度か訪れたことがある。


国道1号日坂BPを潜って少し行くと、


旧東海道は県道415号を左に分岐する。


嵐牛蔵美術館
江戸時代後期から明治期にかけて活躍した俳人伊藤嵐牛の作品が展示されている。
見学には事前に予約が必要とのこと。
ここは伊藤嵐牛の出生地で美術館は子孫の方が開設運営している。


伊達方に鎮座する大頭龍神社。


伊達方一里塚
大頭龍神社の向かいに伊達方一里塚跡がある。
江戸日本橋から57番目の一里塚、両塚とも現存はしない。


「歌人石川依平翁出生地」碑
石川依平は江戸後期の国学者で歌人、少年期に冷泉為章の門人となり歌道を学び、
22歳の時に同郷の栗田土満(真淵・宣長門下)へ入門し国学に精進する。
後に多くの著書を残し、多くの門弟を抱え活躍した。


参道入口に立つ慶雲寺道道標。
この先で県道415号に合流するが、


旧東海道は、再び県道415号を左に分岐する。


9時55分、本所の六地蔵を通過


旧東海道「本所」道標を通過


逆川の向こう岸の栄川中学校のグラウンドで
年配の人たちがグラウンドゴルフに興じていた。


10時ちょうど、県道415号の岩橋を通過


掛川市千羽付近
東京日本橋から225Kmの表示


変わった形の門
何と言う形式の門なのだろう?


10時13分、エコポリス工業団地(右)への交差点を通過
JA共済の時計も10時13分を差していた。合ってる。


掛川市薗ケ谷付近
東京日本橋から226Kmの表示
旧東海道の日本橋~京都三条までの総距離495.5kmの半分まであと少しだ。


本村橋交差点を過ぎると、旧東海道は、三度県道415号を左に分岐する。


本村橋交差点にある旧東海道「成滝」道標


「成滝」道標の直ぐ脇に小さな馬頭観音堂があった。


お堂の中を覗くと馬頭観音像が祀られていた。



この道しるべは大頭龍大権現と福天大権現の参道標である。
昔は掛川宿と深い交流のあった川崎湊(現在の静波町)に続く川崎街道と言って
多くの人々に利用されていた。
元の位置は約十米ほど東よりであり、川崎街道の起点となっている。


10時48分、逆川に架かる馬喰橋東袂に到着


馬喰橋を渡った逆川左岸に葛川一里塚があった。
江戸日本橋から58番目の一里塚である。


一里塚碑のある道路反対側の”もちや”のでっかい看板が目を引く。


看板の横に「掛川宿名物 振袖餅」の石碑が。
時計は10時52分を差していたが、小腹が空いたので、ちょっと店を覗いてみよう。


「もちや」は江戸時代後期の文久三年(1863)創業の老舗和菓子屋である。
大勢の老若男女が近くの観世音菩薩へのお参りの帰りに立寄り、
土産に持ち帰ったのが評判になった。
細長い形が着物の振袖に似ていることから”振袖餅”という名が付いた。
十返舎一九が京都に向かう折に買い求めた事もあったり、
また、諸大名も参勤交代の際に買い上げたそうである。


かみさんへの土産にと振袖餅1箱と途中でのおやつ代わりに1個を買ったら、


何とおしるこが出されたのにはビックリ。
お茶まで出されたのには恐縮してしまった。
おしるこは適度な甘さで餅も軟らかく、実に美味しかった。
江戸時代から評判が高かったというのも頷ける。
『ご馳走さまでした~っ』


馬喰橋東詰の旧東海道
かつてこの辺りの旧東海道筋は馬喰町と呼ばれ、橋名だけにその名を残している。


七曲
城下出入口の新町・葛川境から枡形まで七曲りと呼ばれ、
旧東海道は連続して鉤の手に曲げられている。


秋葉常夜燈が残る鉤の手を左に曲がり、


新町区屋台置場前を通り、


今度は鈎の手を右へ。これまで何度鈎の手を曲がっただろう。
何の案内標識もないので不安で仕方がないが、とにかく進んでみよう。


塩の道の道標
その昔、沿岸部から内陸部に向かって塩を運んだ道が全国にたくさんあった。
日本の代表的な塩の道のひとつに、
静岡県牧之原市相良から掛川市を抜けて、新潟県糸魚川市へと続く道がある。
その一部は「秋葉街道」とも呼ばれ、秋葉神社への信仰の道としても栄えていた。
ちょうどここが旧東海道と交わる場所のようだ。
日本海⇔太平洋350Kmの表示も。


塩の道の道標の先に旧東海道掛川宿の道標があった。
東番所跡とかろうじて読める。七曲の終点のようだ。
七曲を間違わずに歩けて一安心と言ったところ。


掛川宿と言えば掛川城が有名だ。
時間も早いので掛川城へ行ってみることにした。
標識に従ってお城を目指す。


掛川城天守閣が見えてきた。


泉洞山天然寺の前に”阿蘭使節ゲースベルト・ヘムミ先生古墳”
と刻まれた碑が建てられていた。
門の中は幼稚園のようだったので、塀に沿って進むと、


古い地蔵や


古い墓の先に、


ゲイスベルト・ヘンミィの墓があった。
ゲイスベルト・ヘンミィの主な使命は日本との通商であり、
オランダの使節として11代将軍家斉との謁見を終え、
長崎に帰る途次、掛川宿中町の役人林喜太右衛門方に投宿。
その3日後にかねてからの病気が悪化し、この地で死去。
天然寺に葬られた。
ときに寛政十年(1798)6月8日、ゲイスベルト・ヘンミィ51歳だった。


11時30分、掛川城大手門前に到着


元の位置より50m程北側に復元された掛川城大手門


大手門内側に建つ大手門番所
安政六年(1859)に再建された番所で、廃藩後に元静岡藩士谷庄右衛門が
居宅用に移築、昭和53年(1980)になって谷家より市へ寄贈され、
元の位置に近い現在地へ移築復元された。
大手門に付属した番所が現存するのは全国的にも珍しいことから、
掛川市の文化財に指定されている。


大手門番所裏に鎮座する三光稲荷
山内一豊が掛川城と城下の整備に取り掛かった文禄年間(1592-1596)
伏見城の普請に携わった縁で伏見稲荷を勧請したことに始まるという。


掛川城太鼓櫓


掛川城には日本100名城巡りで、平成22年(2010)10月10日に訪れている。
6年ぶりの掛川城登城となる。
本丸へ通じる四足門
正保城絵図を元に復元された。


天守閣と二の丸御殿拝観料410円を払い本丸広場へ。
本丸広場より太鼓櫓を望む。
城下に時を知らせるための大太鼓を納めてあった建物。
掛川城に現存する唯一の櫓で、安政大地震後に再建されたもの。
元は荒和布(あらめ)櫓があった場所で、昭和30年(1955)
現在地に太鼓櫓が移築された。


掛川城
室町時代、駿河の守護大名今川氏が遠江進出を狙い、
家臣の朝比奈氏に命じて築城させたのが掛川城の始まり。
戦国時代には、山内一豊が城主として10年間在城した。
この間一豊は、大規模な城郭修築を行い、天守閣・大手門を建設するとともに、
城下町の整備や大井川の治水工事などに力を注いだ。


掛川城天守は嘉永七年(1854)に発生した安政東海地震により損壊。
再建されることなく明治二年(1869)廃城に。
安政東海地震から約140年を経た平成6年(1994)、日本初の
「本格木造天守閣」として復元されたものである。


いざ天守へ!


天守閣へ至る急な石段を登る。
何度も折り曲げた狭い階段は、敵の侵入に備え登りにくくなっている。


霧吹き井戸
永禄十二年(1569)徳川家康は、今川氏真の立て籠もる掛川城を攻めた。
この時、井戸から立ち込めた霧が城を包み、家康軍の攻撃から城を守った、
という伝説がある。
掛川城は別名「雲霧城」とも呼ばれている。


天守閣内
階段は急で狭い。


さらに階段を上ると天守閣に至る。


天守閣からの眺望(南)
掛川駅方面


天守閣からの眺望(東)
二の丸御殿が一望だ。


天守閣からの眺望(東)
真っ白な雪を被った富士山がはっきりと見える。
鉄塔がちょっと邪魔である。


天守閣からの眺望(西)


天守閣を後にして、二の丸御殿へ。


掛川城公園から天守閣を望む。


二の丸御殿入口


報刻の太鼓
安政二年(1855)8月、当時の掛川藩主太田氏により製作された。
直径90Cm、長さ100Cm、胴周り333Cm
樹齢600年の欅で作られている。


三の間
城主や家老に用向きの場合、この間に通され用件を済ませる。
用件によっては御二の間や次の間に通される場合もある。


次の間
城主と謁見できる身分の高い者だけが通された部屋。


御書院上の間
藩主が藩の政治を司った部屋。


次の間
城主や奥方の世話・護衛をする役人が控えていた部屋

(二の丸御殿にはまだたくさんの部屋や展示物があるが、
ここでは割愛させていただくことにする)

掛川駅へ向かう。


市街には、今年のNHK大河ドラマ「女城主直虎」の幟がはためく。


12時45分、掛川駅に到着した。


忘れてきたストックを受取りに駅前のホテルへ。
この後、駅構内のレストランで昼食だ。
昨日夕食を摂った「㐂膳」である。


天丼セット(1,490円)を注文した。


掛川駅13時32分発の新幹線「こだま号」で東京へ向かった。


この日は素晴らしい富士山を見ることができた。
これまでの東海道歩きでは味わえなかった満足感に浸れた。


日坂宿の区間は昨日と一部重複したが、掛川宿まで歩き終えた。
2010年10月10日以来2度目の掛川城登城だったが、城巡りの楽しさを再認識。
帰りの新幹線から見えた雪を被った富士山は、本当に素晴らしかった。
満足の旧東海道歩きだった。
「もちや」で買った”振袖餅”、かみさんの評価は上々だった。

この日の万歩計は、19,000歩を計測していた。

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