ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

旧東海道を歩く 第Ⅱステージ第5回 島田宿~掛川宿(1日目)

2017年01月09日 | ウマさんの「旧東海道」を歩く
2017年1月9日(月)

「ウマさんの旧東海道を歩く」の第Ⅰステージとして、日本橋から三島宿までの
約126Kmを2014年1月から10月にかけて歩いた。
第Ⅱステージは、三島宿から新居宿までの約158Kmを2016年5月から挑戦している。
今回は、都合の良い時間(日程)に気ままに歩くことを目的に、一人で歩くことにした。

第Ⅱステージ第5回目は、島田宿(JR島田駅)~掛川宿(JR掛川駅)を
2日間かけて歩いた。
1日目は、島田宿から日坂宿までの約11Kmを歩いた。

東京駅8時3分発の「ひかり465号」に乗車
旅の途中で駅弁を食べるにはちょっと寒いと思われたので、駅弁は買わなかった。
途中何か食べる所はあるだろう、天下の東海道なのだから・・・
最悪コンビニでも構わない。


この日は快晴に近い天気だった。
前日降った雪を被った大山はきれいに見えたが・・・


富士山の裾野は雲に覆われて今一つといった感じだ。


静岡駅9時22分発の浜松行に乗り換え、9時49分、スタート地点の島田駅に到着。


9時56分、島田駅を出発し、旧東海道を西へ。


最初に訪れたのは大井神社である。


鳥居の脇に石燈籠があった。
安政三年(150年前)江戸~京都・大阪の飛脚たちが、道中及び大井川川越の
無事を祈って奉納したもの、とある。


参道土提の石垣は、江戸時代大井川川越稼業の人達が、毎日河原から石一つを持ち帰り、
それを蓄積して築いた、とのこと。


大井神社への参拝前に、福徳開運の神様大井恵比寿神社に参拝を済ませる。


3年に一度行われる大井神社の「島田大祭帯祭」は、「奇祭」と呼ばれる。
その由縁は、大奴が安産祈願の丸帯を提げた太刀を両脇に差し、
蛇の目傘を差しながら踊るように練り歩く、独特の行事から来ている。
この所作は、現在まで厳密に伝承されており、静岡県無形文化財に指定されている。


帯塚
使用した帯に感謝し供養して、この帯塚に納めた。
大井神社特殊信仰の故事により、一家の平安と安産を祈る塚、だそうだ。


正月の雰囲気が残る大井神社に参拝し、神社を後にした。


次に訪れたのは大善寺である。


大善寺は、浄土宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来


大善寺の梵鐘
大井川の渡しで使った時の鐘「大善寺の時の鐘」が有名。
当時の鐘は、戦時中(昭和19年)に供出された。
現在の鐘は、昭和48年に造られたもの。


川越遺蹟の標識に従って、県道34号を左に分岐し、
東海製紙島田工場の塀に沿って進むと、


川越(かわごし)遺蹟の家並みが見えてきた。


江戸時代、大井川の近くには、川会所・札場・番宿などが立ち並んでいた。
「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」
と唄われたことからも分かるとおり、大雨で増水すれば、何日も足止めされた。


上段の間が現存する塚本家
九州肥前の大村藩によって建てられた家。
大村藩やゆかりのある諸大名や武家が大井川を渡る時に、
塚本家が川越しの準備や手続きの代行をした。
その間大名を座敷の上段の間に通して接待し、休憩や食事をとらせた。
なお宿泊は、定められた宿場の宿泊施設以外は禁じられているので、
大名は、島田宿内の本陣に泊った。


六番宿
番宿とは、川越人足が普段詰めていた待機所のこと。


三番宿


三番宿の様子
川越人足は、10組に分けられ各組が番宿に詰めていた。
川越は、各組が輪番制であたったが、当番ではない組の人足も
それぞれの番宿で50人ほどが待機していた。
各番宿には連台が5丁備えてあった、とのこと。


川越人足
大井川の川越に従事した人足たちで、15歳以上50歳以下の屈強の男が務めた。
川越人足の数は、元禄年間は150人程度だったが、その後増員され、
江戸時代の終りには650人に達したと考えられている、とのこと。


十番宿


川越人足は、外見上の粗野な風貌と仕事内容により、ややもすると
街道に出没する、いわゆる「雲助」と同一視されることもあったが、
事実は、長年に亘る厳しい修行を経て、高度な渡渉技術を身に付けた
熟練者の集団だった。
大井川の川越を経験したシーボルトは、急流を楽々と越す川越人足を
その手記の中で「半人半魚の男たち」と評している、そうだ。


仲間の宿
主に歳をとった川越人足の集まった宿だった。
人足たちの仕事上の意見交換や、各組どうしの親睦の場として使用された。


立合宿跡
「立会人」が詰めたり、川越人足の頭が必要に応じて相談場所として利用した場所。
現在、修復工事中だった。


札場
川越人足が川札を換金する場所。
一日の川越が終了すると、それぞれの番宿において川札を回収して、
札場で現金に換えた後、人足たちに分配した。


札場の向いに昔風情の雰囲気が漂う茶店「川越茶屋」があった。
”そば処”の幟や”江戸珈琲”の看板が見える。


川会所
大井川の川越の料金を決めたり、川を渡るための川札を購入する場所。


川会所の中庭に芭蕉の句碑がある。
馬方は しらじ時雨の 大井川


八重枠稲荷神社
宝暦十年(1760)に川越衆の安全と事故の排除を祈願して建立された。


石積み
昔、ここは大井川の出し堤防があり、洪水の時には蛇籠に石を詰めて杭で固定し、
これを幾重にも並べて、激流から村を守った。
八重枠稲荷の名前は、ここから来ている。
文化九年(1812)と明治三十四年(1901)に社殿は修繕されたが、
石積みは当時のままで、大井川の石を拾って亀甲型にして積み上げたもの。
川石は硬くて手間がかかり、今では市内数か所しかない職人の技法、とのこと。


朝顔の松
人形浄瑠璃で馴染みの朝顔日記で「盲人の朝顔が島田の宿に泊まり、
長年捜し求めてきた愛人(阿曽次郎)に逢ったが、すれ違いとなり、
大井川まで追いかけたが川止めにあった。
死を決意するが助けられ、突然両目が見えるようになり、
初めて目に映し出されたのが松だった」と唄われる松とされている。


土手から大井川橋を望む。
長さは1,000mほどはあるだろう。


11時18分、昭和3年に架設された鋼製のトラス橋「大井川橋」を渡る。


川の流れはけっこう早い。
川越当時の流れはもっと早かったのだろうか?


河原には、大井神社の参道土提や八重枠稲荷神社社殿の石積みなどに見られた
石がたくさんあった。
川越人足たちは、一日の川越業が終わるとこれらの石を持ち帰っていたのだ。


大井川を渡るのに13分ほどかかった。


旧東海道は、大井川を渡って直ぐ左に曲がり、土手の上を200mほど行くと、
右側に続いていた。


土手から120mほどの水神公園に金谷宿の標識があった。
文字の部分は腐食していて殆ど読めない。


金谷側にも川越番宿・札場・川会所などの川越場跡の図があるが、
島田側のような復元された川越遺跡はなく、この案内図だけ、だそうだ。


案内図の隣には川越の光景が描かれている。


新堀川に架かる八軒屋橋を渡る。


街道沿いの家には屋号が掲げられている。
九番宿跡


旧家の跡
平成16年まで江戸時代に建てられた旧加藤家が残っていた。
しとみ戸などを含め、昔の姿の復元を目指している、とのこと。


三番宿跡


秋葉神社
この地に火伏の秋葉信仰が盛んであったことを物語る。


大井川鐡道新金谷駅にSLが停まっていた。
大勢のSLファンに囲まれていた。


大代川に架かる大代橋(左)の隣に新設された歩行者用の往還橋(右)を渡る。


そろそろ昼時だ。
食べ物屋を探すが街道沿いにはそれらしき店は見つからない。
金谷扇町南交差点で、何気なく右手を見ると、スルガ銀行と同じ建物にイオンの文字が。
覗いてみるとスーパーだった。
売り場の片隅にイートインコーナーがあった。


この日の昼食はにぎり寿司(644円)にした。


西照寺
寛永四年 (1627) の創立。
本願寺第13世宣如上人の草創の地、開山は誓玄法師と云われている。


佐塚屋本陣跡
寛永十二年(1635)の参勤交替制度により、本陣が開設された当初から
佐塚家は佐次右衛門の名を継いで金谷宿本陣を務めた。
現在は書店の前に立て札が立っているのみ。


柏屋本陣跡
柏屋は代々河村八郎左衛門を名乗り「金谷宿六人衆」と呼ばれた名家の一つで、
代々名主と本陣を務めていた。
天保十四年(1843)には、尾張徳川家・紀伊徳川家の定宿となっていた、そうである。
現在は、島田市商工会の前に標識が立っているのみである。


脇本陣(角屋・金原三郎右衛門家)跡
元禄~正徳(1688~1715)の頃は、本陣は柏屋・佐塚屋の二軒で山田屋が脇本陣だった。
しかし、寛政三年(1791)の大火で本陣・脇本陣は焼失。
それからしばらくの間、金谷宿には、本陣のみで脇本陣はなかった。
天保十四年(1843)以降、金谷宿脇本陣は、本町の角屋・金原三郎右衛門が務めた、とある。


お七里役所跡
徳川御三家の一つ、紀州家が重要書類の送信のために、七里(28Km)ごとに置いた
飛脚の継立所(飛脚小屋)のこと。


定飛脚問屋(三度屋)跡


定飛脚(じょうびきゃく)とは、「三度定飛脚」とも言い、江戸と上方の京・大坂を
定期的に往復した民間の飛脚で、月三度(2日・12日・22日)出したところから「三度飛脚」、
取扱所を「三度屋」とも言った。
またこの飛脚が被った笠を「三度笠」と呼んだ、とのこと。
「三度笠」は、股旅ものの渡世人が被るものという概念しかなかった自分だが、
飛脚が最初に被っていたということは知らなかった。


大井川鐡道大井川本線と東海道本線の金谷駅脇のトンネル手前に
一里塚碑?があった。


江戸日本橋から数えて53番目の一里塚である。
島田宿へ一里(約4Km)、日坂宿へは一里二十四町(約6.5Km)とある。
一里塚跡の標識でこのような説明板は珍しい。


旧東海道は、大井川本線と東海道本線の線路を潜って右へ続いていた。
旧東海道石畳まで0.6Kmとある。


不動橋(金谷大橋)は金谷宿の西の入口とされており、ここに土橋があった。
金谷坂を下ってきた大名行列は、橋の北側にあった休茶屋で休息し、
身なりや隊列を整えてから、整然と宿場に入った。


金谷大橋が架かっている川は、それほど大きな川ではない。
この土橋は「御普請所」となっていて、約三年目毎に代官所の負担で
修理や架け替えが行われた、とのこと。


金谷坂のやや急な坂道を上る。
昼飯を食べた後なので身体に堪えるし、息も上がる。


金谷坂を上り切って振り返ったところ。
金谷の町が見おろせる。


道路左手に”旧東海道石畳”の案内表示が・・・


13時15分、旧東海道石畳の入口に到着
「石畳茶屋」の他、「すべらず地蔵尊」の案内も。


旧東海道金谷の石畳上り口
山石が敷き詰められている。


石畳茶屋
茶屋の奥には、本陣に残された江戸時代の文書や川越しの歴史的資料など
金谷宿に関するものが展示されている。
囲炉裏がある広間では、蕎麦やうどんなどの軽食や金谷茶が味わえる、そうだ。


木立に囲まれた静かな峠に430mの石畳道が続く。


近年、僅か30mを残す以外は全てコンクリートなどで舗装されていたが、
平成三年、町民約600名の参加を得て実施された「平成の道普請」で、
延長430mの石畳が復元された、とのこと。


六角地蔵尊
別名「すべらず地蔵尊」と言われる。
このお地蔵様・六角堂・鞘堂は、町民の手により据えられたもので、
「すべらず地蔵」の謂れは、ここの石畳は「すべらない」という特徴から、
受験や商売など、何事も願いが叶うということからきている、そうだ。


「すべらず地蔵尊」の先にも石畳は続いていた。


石畳を上り切った所を少し左手に行った所に、芭蕉の句碑があった。
馬に寝て 残夢月遠し 茶の烟


一帯に茶畑が広がる。
牧之原台地のお茶はブランド品、だそうだ。


諏訪原城跡の案内表示があったので、進んでゆくと・・・


空堀の先に


諏訪原城址の碑があった。


諏訪神社の鳥居には、門松が据えられていた。


二の曲輪南馬出


街道に戻って少し進むと、諏訪原城跡の駐車場があった。
こちらが、正規な入口になるのだろう。


諏訪原城は、天正元年(1573)に武田勝頼の命により築城された山城で、
武田家の守護神の諏訪明神を奉って諏訪原城と名付けられた。
諏訪之原城、牧野城、牧野原城、扇城という名でも呼ばれている。
現在、建築物は残っていないものの、堀・曲輪・馬出などの遺構が残っており、
これらが国指定文化財になっている。
地図を見ると、区域はかなり広い。
時間があまりないので、少しだけ覗いて行くことにした。


地図によると、ここが二の曲輪大手馬出と思われる。


城跡の案内標識があって少し歩いてみたが、紙面の都合上割愛する。


13時58分、菊川坂(下り)の始まりだ。
金谷坂と同じような石畳である。


平らでないため足首を捻挫しそうになるし、この石畳を下るのはけっこう疲れる。


旧東海道菊川坂石畳普請助郷役芳名
平成十三年一月廿一日、「菊坂助郷伝説」として旧東海道廿二宿之助郷
並びに大勢之助郷を以て平成之道普請を相催し候、
依って茲に助郷として出投下され候面々之氏名を刻印し、
以て当石畳之復元を後世之伝説と致すべく候、
就いては助郷衆に対し謝意を表すべく此の芳名板を設置致す者也
地元菊川地区や町内からの助郷役の人たち500名を超える力で
平成13年に道普請に着手し、石畳は完成した、とある。素晴らしい!!


石畳の案内図


旧石畳
この石畳は、調査により江戸時代後期のものと確認された。
江戸時代は、様々な仕事が助郷という制度によってなされた。
この石畳も近隣12か村に割り当てられた助郷役の人たちによって敷設された。
長さは、380間(約690m)あったともいわれているが、現在では161mを残している。


14時13分、菊川の石畳の終点に到着


菊川宿
菊川は旅人の休憩用として便宜されていた。
中世から栄えた旧東海道の宿場だったが、東海道五十三次には指定されなかった。


また菊川は、金谷宿と日坂宿との間の宿で、大井川の増水時には足止めのために
緊急的に宿泊が許されたそうだ。
間の宿とは、宿場と宿場の間に発展した休憩用の町場のことで、商家が軒を連ねても、
宿場ではないため旅籠はない。


菊川の里会館


菊川の名前の由来
その昔附近の川から菊花紋の石が数多く出土された。
その石は菊石と呼ばれて、川の名前を菊川と名付け、地名も生まれた。


歌碑
源頼朝の死後、鎌倉幕府の力が弱まり、公家と幕府の対立は表面化。
承久三年(1221)後鳥羽上皇は、幕府追討の院宣を出し軍事行動を起こした。
京都方はあえなく敗れ、計画に加わった中御門中納言藤原宗行は捕らえられ、
鎌倉へ送られる途中の7月10日、菊川の宿に泊まり死期を覚って宿の柱に詩を書き残した。
「昔南陽県菊水 汲下流而延齢 今東海道菊河 宿西岸而失命」
”昔は南陽県の菊水下流を汲みて齢を延ぶ 今は東海道の菊川西岸に宿りて命を失う”

承久の変から約100年後の正中の変で、日野俊基は捕えられ、
鎌倉への護送の途次菊川の宿で、宗行の往事を追懐して一首の歌を詠んだ。
「いにしえも かかるためしを 菊川の おなじ流れに 身をやしづめん」


旧東海道の道標
小夜の中山への道はほぼ直角に折れていた。


階段状の石畳の先には・・・


急坂の道が続いていた。


坂道を上ると一面に茶畑が広がっていた。


14時47分、島田市と掛川市の市境を通過
一人で歩いていると、標識もない区間が続くと、正しい道なのだろうかと不安になる。
こういう標識を見ると正直ホッとする。


阿佛尼・十六夜日記の歌碑
「雲かかる さやの中山 越えぬとは 都に告げよ 有明の月」
雲のかかる 小夜の中山を越えたと、都の子供らに伝えておくれ 有明の月よ。 


小夜の中山の街道の様子


久延寺
行基の開基とされる。
本尊は、夜泣石伝承にちなんで「子育て観音」と呼ばれている。
徳川家康が遠江平定時に本陣としたのを契機に、ゆかりの寺院として栄える。
家康をもてなした茶亭の跡地、その礼に家康が植えたとされる五葉松の跡、
夜泣石伝説ゆかりの寺としても有名な古刹である。


鐘楼
鐘を突いてみた。とても良い音がした。


山内一豊が家康をもてなした茶亭の跡地。
慶長五年(1600)掛川城主山内一豊は、境内に茶亭を設けて、
大坂から会津の上杉景勝攻めに向かう徳川家康をもてなした。
関ケ原の合戦の後、山内一豊は功績を認められ、土佐二十万国に栄転した。


その礼に家康が植えたとされる五葉松の跡の標柱。
今は松の木は見当たらない。


夜泣き石
小夜の中山に住むお石という臨月の妊婦が菊川からの帰り、
この丸石のあたりで腹痛に見舞われうずくまっていたところ、
轟業右衛門という男が介抱したが金に目がくらみ、
お石を斬り殺して金を奪って逃げた。
その斬り口から子供が生まれ、お石の魂は丸石に取り憑き毎夜泣くために、
この石は“夜泣石”と呼ばれるようになった。
生まれた子供は音八と名付けられ、近所の久延寺の住職が飴を食べさせ育て、
やがて大和の刀研ぎ師の弟子となった。
ある時一人の侍が刀を研ぎにやってきた。
立派な刀だが刃が少しこぼれている。
音八が訳を聞くと、昔小夜の中山で女を一人斬ったという。
この侍こそが轟業右衛門であり、音八は見事母親の仇を討ったという。


西行歌碑
西行法師は平安時代末期の歌人。
新古今和歌集の中でも優れた歌のひとつとされているのが
年たけて また越ゆべしと おもひきや 命なりけり さやの中山」の一首。
23歳で出家し、自由な漂泊者としての人生を送りながら自然とのかかわりの中で
人生の味わいを歌いつづけた西行の最も円熟味をました晩年69歳の作である。


扇屋
夜泣石伝説に出てくる飴で、名物の「子育て飴」をいただくことができる。
広重の「東海道五十三次日坂」にも小夜の飴売りの女が出てくることから、
江戸期にはすでに名物になっていたようである。


茶畑の先の山頂辺りに、


”茶”の文字が見える。


第48回農林水産祭で小夜の中山茶が天皇杯受賞とある。


佐夜鹿一里塚
日本橋から54番目の一里塚


鎧塚
建武二年(1335) 北条時行の一族名越太郎邦時が、世に言う「中先代の乱」の折、
京へ上ろうとして、この地で足利一族の今川頼国と戦い、壮絶な討死にをした。
頼国は、邦時の武勇を称えここに塚をつくり葬った。


街道には、点々と小夜の中山を詠んだ歌碑が置かれている。
「東路の さやの中山なかなかに なにしか人を思ひそめけむ」
(紀友則 古今和歌集)
東国へ行く人がきっと通るのが小夜の中山である。
中山のなかといえばなかなかに(なまじっか)どうしてあの人に
思いを掛けたのだろう。


「ふるさとに 聞きしあらしの声もにず 忘れぬ人をさやの中山」
(藤原家隆朝臣 新古今和歌集)
旅に出て耳にするここ、小夜の中山の山風の音は、都で聞いたのとは似ても似つかない。
このように都も遠ざかったのであるから、いっそ都の人のことなど忘れてしまえよ。


「道のべの 木槿は馬に くはれけり」
(松尾芭蕉 のざらし紀行)
道端の木槿(むくげ)の花が、乗っている馬にパクリと一口食われてしまったよ。


15時26分、白山神社を通過


馬頭観世音
小夜の中山峠には、多くの伝説が残されているが、その一つに蛇身鳥退治の物語が
云い伝えられている。
この馬頭観世音は、蛇身鳥退治に京の都より下向して来た、三位良政卿が乗って来た
愛馬を葬った所とされている。


妊婦の墓
松の根元で自害した妊婦小石姫(三位良政と月小夜姫の間に生まれた子)を葬った所で、
墓碑に「往古懐妊女夜泣松三界万霊・・・旧跡」と刻してある。


涼みの松
ここで詠まれた芭蕉の句「命なり わづかの笠の 下涼み」にちなんで
涼みの松と呼ぶようになった。


芭蕉句碑
馬に寝て 残夢月遠し 茶のけぶり
(松尾芭蕉 のざらし紀行)
早朝に旅立って、馬上になお夢心地でうとうととしていたが、はっと目がさめてみると、
有明の月は遠く山の端にかかり、ふもとの村里からは朝茶をたく煙が立ち上ってくる。
金谷の石畳を上り切った所にも同じ句碑があった。


夜泣石の跡碑
石自体はなく、そこにあったということを示す碑が存在する。
妊婦の霊魂が移り泣いたという石(夜泣石)が、明治元年まで
ここの道の中央にあったが、明治天皇御東幸のみぎり、道端に寄せられた。
その後明治初年東京で博覧会があり、出品された帰途、現在の位置に移る。


安藤広重の”東海道五十三次 日坂”には、
小夜の中山に夜泣石が描かれている。


急坂の道が続く二の曲り
急坂に加え、


そして急曲がりが連続する難所である。


二の曲りの難所を過ぎた所に日之坂神社という小さな神社があった。
昔の旅人は、難所を越えた後ここで休息していったのだろう。


坂道の終点に東海道五拾三次 日阪 
安藤広重作「狂歌入東海道」の浮世絵版画があった。


「あたらしく けさにこにこと わらび餅 をかしな春の 立場なるらん」倭園琴桜
江戸時代末期になると、江戸を中心として諸国への街道が整備され、
物見遊山の旅が盛んに行われ、庶民の関心がそれまでの享楽の場から
戸外へ移るにつれて風景画が多く描かれるようになった。
この浮世絵は、広重が天保三年(1832)の「保永堂版東海道五拾三次」に続き、
天保十三年(1842)頃に、視点を変えて風景をとらえた「狂歌入東海道」の
日阪である。


16時ちょうど、国道1号日坂BPを潜り、県道415号(東海道)を渡ると、
日坂宿に入った。


日坂宿


家々の門々に昔の屋号を墨書した木製一枚板の看板が掛かっていた。


秋葉常夜燈
日坂宿はしばしば火災に遭っているためか、火伏の秋葉信仰が盛んであった。
当時の人々は、神仏のご加護を願い、秋葉講を結成し、分社や常夜燈を
各所に作った。
ここの常夜燈は、安政三年(1856)に建立されたが、老朽化のため、
平成十年(1998)に撤去され、あらためて復元された。


日坂宿本陣跡
東海道25番目の宿である日坂の本陣跡。
「本陣扇屋」という木札も並んでいる。

この日実際には、日坂宿西の外れの「事任八幡宮」まで歩いたが、
記事の総文字数の制約があるため、紹介は日坂宿本陣跡までとする。
この続きは2日目にあらためて記述する。

日坂宿を過ぎて県道415号に合流した所に「事任八幡宮」があり、
その前が掛川駅行のバス停になっている。
待つこと10分、


16時52分発の掛川駅行バスがやって来た。


17時22分、掛川駅に到着
バス料金は、300円だった。
予約しておいたホテルは、駅の反対側(南口)にあるため、
歩行者専用通路を通ってホテルへ。
ホテルで一休みした後、食事に出かけた。


夕食は、掛川駅構内にあった「㐂膳」である。
歩行者専用通路を通った時に夕食はこの店にしようと決めていた。


静岡県でしか飲めないという「静岡麦酒」の生ビール(380円)が
何とも美味かった。さっぱりとした味は疲れた身体に染み渡った。
熱々の焼き鳥盛り合わせと枝豆をつまみに、ついお代りし、
純米酒”花の舞”まで注文してしまった。


最後にまぐろ丼(1,080円)をいただき、ホテルへ引上げた。


この日は、島田宿から日坂宿までの約11Kmを歩いた。
見どころがたくさんあり、思いの外時間を要した。
大井川の川越制度や川越人足のことを知ることが出来、勉強になった。
金谷坂・菊川坂の「道普請」で復元された石畳には感心した。
助郷で参加された近隣の方たちには、心から拍手を送りたい。

この日の万歩計は、29,000歩余を計測していた。

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