ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

旧甲州街道を歩く 第十回 大月宿から阿弥陀海道宿

2017年01月22日 | ウマさんの「旧甲州街道」を歩く
2017年1月22日(日)

今年(2016年)の4月で「特選街道を歩く」が終わったことを受けて、仲間の皆さんから
『今度はどこを歩くの?』という声が上がり、五街道のひとつ甲州街道を歩くことにした。
日本橋から内藤新宿までは、「特選街道を歩く」第二回目(2015年2月22日)に歩いているので、
内藤新宿から信州の下諏訪宿までを歩くことになる。

「甲州街道を歩く」第十回目は、大月宿(JR大月駅)から阿弥陀海道宿(JR笹子駅)
までの約12Kmを歩いた。

荒川沖駅6時39分発の常磐線車内


この日の参加者は7名、ほぼいつものメンバーだ。


東京駅には8時ちょうど着。
時計を気にしつつ東京駅構内の駅弁屋へ急行し、駅弁を購入。


東京駅8時11分発の高尾行中央特快に無事乗車。
『いつもぎりぎりだねっ』


高尾駅で9時20分発の松本行に乗り換える。



『ん???』中央線の車内広告が1枚もない。
『車内広告が1枚もないというのは珍しいねぇ』
(正確にはYGUの1枚のみだった)


10時1分、この日のスタート地大月駅に到着した。


駅前の観光案内所で情報(パンフレットなど)を入手して、


10時10分、阿弥陀海道宿(笹子駅)目指して出発だ!


国道20号が走る大月市街地を進む。


10時15分、大月市役所前を通過。


10時19分、桂川に架かる大月橋に到着。


道標
中央に南無阿弥陀仏の文字が刻まれ、その両側には、
左富士山道、右甲州街道の文字が刻まれている。
『ここは富士山への分岐点だったんだっ』


大月橋を渡る。


桂川


大月橋は中央線も跨いでいる。


10時32分、花咲下宿バス停を通過すると、


花咲宿本陣の大きな家があった。
花咲宿の本陣は、星野家が名主・問屋を勤めた。
上段の間を残している、とのこと。
花咲宿は下花咲と上花咲で一宿を成していた。
問屋継立業務は、上15日を上花咲宿が、下15日を下花咲宿が勤めた。
花咲の地名は両宿の間にあった花折と言う地に桜の古木があり、
花咲く頃旅人が憩ったところから由来している、そうである。


本陣の石碑は、大きくて立派だ。
『これは目立つねぇ』


”しばらくの間見学は休止”の貼り紙が。


中には入れなかったので、本陣を横から見たところ。


街道を進む。


10時42分、中央道大月IC入口を通過


右手に西方寺橋という橋があり、その前を横切って進む。


西方寺橋を過ぎ、右手に笹子川を見ながら進む。
前方丘の上に変わった形の建物が・・・
NEC山梨の大月工場である。
『工場にしては、面白い形をしてるねぇ』


街道を進んで行くと、


コンビニがあった。


10時59分、コンビニで一休みして行こう。
何時の頃からか、めいめいが持ち寄った差し入れを配るのが恒例になっている。
お菓子もあれば、酒に漬けた手作りの果物などもあり、多彩である。
ちょうど小腹が空く時間帯なので美味しくいただく。
これで一時は持つだろう。


中央道を潜る形で通過。


三軒屋バス停を通過し、


11時12分、大月警察署前を通過。


大月警察署前を過ぎた辺りは、全く陽が当たらないのか、
2日ほど前に降ったと思われる雪が、かなり積もったままの状態で残っていた。
『相当降ったみたいだねっ』


NEC山梨大月工場
高速大容量の光NWを支える製品として、海底に敷設される光ケーブルの中継装置、
FTTHで用いられる光トランシーバー、携帯電話などの開閉スイッチに用いられる
磁気感応型MRセンサーなどを生産している。
高台にポカリと浮かぶ丸味を帯びたデザインは、何となく「UFO」を彷彿させ、
地元では、この社屋を「UFO」と呼び親しんでいる、そうだ。


笹子川に架かる真木橋(まぎばし)を渡り、


甲州街道(国道20号)を進む。


11時25分、真木諏訪神社下を通過


初月橋を渡って進むと、


街道沿いに食事処があった。
居酒屋・焼き鳥・おでん「いなだや」の看板が。
立寄って一杯やって行きたい雰囲気がある。


国道20号を進む。
”この先11km 笹子トンネル”の文字が。


国道20号を進む。


笹子川の対岸に中央本線の電車が走っているのが見えた。


道端にひっそりと立つ道祖神
長い年月風雨に晒されてか、形がはっきりしない。


11時39分、日の出鉱泉前を通過
昭和初期から鉱泉宿として創業しており、創業当時から変わらずに、
地下水である鉱泉を汲み上げて薪で沸かしている、そうだ。
煙突から煙が立ち上っている。湯を沸かしているのだろう。
料金は500円、とのこと。


笹子川に架かる法雲寺橋を渡ると、


日本橋からちょうど100Kmとなるポイントを通過。


『日本橋から100Km歩いて来たんだねっ』
何か感慨深いものが感じられ標識である。


道路より一段低い大きな家の前に、山本周五郎生誕之地碑が立っていた。
山本周五郎は、明治三十六年(1903)山梨県北都留郡初狩村にて父清水逸太郎、
母とくの長男として誕生。
明治四十年の山津波で祖父母・叔父母を亡くし、周五郎一家は初狩を離れ、
東京に転居した。
本来の生家は山津波で流されているので、後ろの家は生家ではない。
碑は、山本周五郎が初狩生まれという記念碑であるらしい。

山本周五郎生誕之地碑の近くに二十三夜塔の石碑があった。
時計を見ると12時10分前だった。
お昼の弁当にしたいが、適当な場所がない。
初狩駅が近いのでとりあえず初狩駅へ行ってみよう。


数分で初狩駅に到着した。
駅は無人で、待合室のベンチが空いていた。
『ここで弁当にしましょうっ!』


初狩駅舎の待合室で弁当タイムだ。


『お腹が空いてたんで美味しいよねっ』


この日の駅弁は、山形特選の牛めし(1,080円)である。


これまで東京駅で買った駅弁の中でも一番美味かった、ような気がした。


12時30分、初狩駅を発ち、国道20号を阿弥陀海道宿を目指す。


初狩駅から数分で宮川橋に到着した。
「宮川橋の一目富士」と呼ばれ旅人に評判であった、そうだ。


そんなことはついぞ忘れてしまい、先へ進んでいると、
後ろから、『富士山が見えるよっ』の声が。
振り返ってみると、OKさんがカメラを構え、しきりにシャッターを押していた。


急いで戻り、カメラに収めた富士山である。


宮川橋を渡ると中初狩宿に入る。
初狩宿は下初狩と中初狩で一宿を成していた。
問屋継立業務は、上15日を中初狩宿が、下15日を下初狩宿が勤めた。


宮川橋から数分の所に”甲州街道 中初狩宿”の標識が立っていた。
標識の横の石碑には、芭蕉の句碑があった。
句碑の左隣にあるのが芭蕉塚である。
句碑には、「山賤の 頤とつる 葎哉」(やまがつの おとがいとずる むぐらかな)とある。
山道で貧しい木こりに出会った。話しかけても黙ったままだ。
田舎の人は朴訥(ぼくとつ)だ。
まるで山の蔓草(つるくさ)にあごを縛られている様だ。


芭蕉句碑の裏に大月市立初狩小学校がある。


初狩小学校を過ぎると家並みが続き、時々旧くて大きな家が現れる。
旧いと言ってもそれほど歴史を感じる建物ではないが・・・


12時47分、側子バス停を通過すると、


中初狩宿小林本陣跡の建物があった。
建物の左側には本陣特有の屋敷門を見ることが出来る。
ただ、建物も門も当時の物ではない、とのこと。


屋敷門の左側に明治天皇御小休遺跡碑が建てられており、
ここが本陣だったことが分かる。
脇本陣は、斜め向かい側にあったそうだが今はその痕跡は無い。


12時54分、唐沢橋バス停を通過し、


さらにその先、笹子川に架かる船石橋を渡り、


13時5分、立河原バス停を通過したところで、
首塚・石塔群・船石由来碑など、いくつかのポイントを
見落としたことに気がついたが、後戻りせずにそのまま進むことにした。


国道20号を進み、


13時13分、中央本線のガード下を潜って進む。
この辺りには歩道がなく、カーブで車も多いのでちょっとばかり危険を感じた。


13時16分、”初狩駅から3.2Km、笹子駅まで3Km”の標識があった。
初狩駅を12時30分に発っているので、ここまで約45分で来たことになる。
『45分で3.2Kmはけっこう速いペースだよねっ』
『道理でねっ ちょっと疲れちゃったよっ』


国道20号と旧甲州街道(白野宿)に分岐する手前で一休みだ。


一休み後、右側の白野宿への道を進む。
『笹子駅まで残り3Km、ゆっくり行きましょうっ』


白野宿内の家並みが続く。
車があまり走ってないので、安心して歩けるのが良い。


庚申塔
左は常夜灯


一般の民家が続く白野宿を進む。
天保十四年(1843)の白野宿の宿内家数は84軒、うち本陣1・脇本陣1・問屋1・
旅籠4軒で、人口は318人(男149人、女169人)だった、とのこと。
阿弥陀海道宿と黒野田宿の3宿で1宿とし、問屋業務は月のうち23日から晦日までを
白野宿が勤めた。


大月市消防団第一分団第一部の前に白野宿の標柱が立てられていた。


宿場の中ほどにどっしりと構えた大きな家は「旅籠よろず屋跡」だ。
江戸時代の建物ではないが、宿場内では存在感のある建物だ。


白野宿の家並みが続く。


大きな石柱が2本あった。宝林寺への参道口だ。
標識等はないが、右手が天野脇本陣跡で、左手が今泉本陣跡、だそうだ。
参道口を進んで行くと、


宝林寺の門があった。
宝林寺は、臨済宗妙心寺派の寺院で、白野宿唯一のお寺である。
永正六年(1509)清心浮公が開基した。本尊は地蔵菩薩。
建立年代は天文元年(1532)と云われているが定かではない。


門の所には蛇腹の扉が閉まっていて中へ入れない。
本堂は門から見るだけである。
『中に入れないお寺ってのは珍しいよね~っ』


白野宿の西の外れで国道20号に合流した。
ここが白野宿の西口である。


白野宿を少し進むと、子神社の標識が。


右手に白野村の鎮守、子()神社があった。
祭神の大国主命(おおくにぬしのみこと)の遣いが
ね(ネズミ)であるところに由来している、そうだ。
本殿はしっかりと覆いで護られている。


子神社の拝殿


狛犬


国道20号を進むと、”笹子峠 矢立の杉 分岐まで4Km”の看板が。
笹子駅まであと2Km余か?


国道20号を進みながら、いつの間にか旧甲州街道から
逸れてしまっていたことに気がついた。


振り返ると、稲村神社と思しきこんもりとした木立が見えた。
しかし、今更戻るのは面倒である。
『このまま進みましょう』ということで前へ進むことに。


地図で確認すると、旧街道が国道20号に合流する地点から葦ヶ池は近い。
せめて葦ヶ池へは行ってみよう、ということで、中央本線の方へ。


中央本線を潜って直ぐ右手に葦ヶ池の標柱と碑があった。
葦ヶ池には、次のような伝説がある、そうだ。
大百姓小俣左衛門の娘「およし」は美女だったが、心悪しく、
慳貪邪見(けんどんじゃけん)で、ついに蛇身となった。
大沼に棲み、夜な夜な出て来て里人を悩ませた。
ここを通りかかった親鸞上人が小石に南無阿弥陀仏の名号を書き、
池に投げ入れると、娘の霊は済度(成仏)した、とのこと。


国道20号に戻り、ゴールの笹子駅を目指す。


14時20分、笹子川橋バス停前を通過。


笹子川橋を渡るとゴールは近い。


『もう直ぐ笹子駅だねっ』


笹一酒造会社前を通過
大正八年(1919)創業の比較的新しい酒造会社である。


ワインも造っており、見学や試飲・販売も行っている、そうだ。
『ちょっと寄って一杯やって行きたいねっ』の声も・・・


笹子餅屋の前を通過すると、笹子駅は目の前だ。


14時32分、笹子駅前に到着
駅前に阿弥陀海道宿の標柱が立っていた。
一応ここがこの日のゴールである。


笹子隧道記念碑が笹子駅前広場に建てられていた。
笹子隧道は、明治29年(1896)10月に着工し、
明治35年(1902)11月に完成した、鉄道トンネルの記念碑である。
全長4,456mは、当時東洋一の鉄道トンネルとして注目された。
このトンネルは中央線下り列車専用で現在でも使われている、そうである。


14時34分、笹子駅に到着したが・・・


すんでのところで14時35分発の電車は発車したばかりだった。
次の電車までちょうど1時間待つことになる。
『まぁ しょうがないね』 
Mさんが笹一酒造まで戻って日本酒を買い、皆に振舞ってくれた。


『どうぞっどうぞっ』 『ごちそうさま~っ』


『かんぱ~いっ』
『お疲れさまぁ』


なんと! 金粉入りである。
円やかでいつになく美味しかった。


15時半過ぎ、中央線笹子駅ホームには陽が当たらないため、殊の外寒かった。


ホームの半分以上が雪に覆われた状態だ。
次回は笹子峠越えに挑むことになるが、ここでこの調子ということは、
峠越えにはアイゼンが必要になるだろう。


15時35分、高尾行電車が到着した。


高尾駅で東京行快速に乗り換える必要があるが、
その前に大月駅で東京行快速に乗り換えることにした。
これなら終点の東京駅まで乗り換え無しでゆっくり座って行ける。

『皆さんっ 今日は大変お疲れさまでしたぁ』

「旧甲州街道を歩く」第十回目(大月宿~阿弥陀海道宿)間約12Kmを歩き終えた。
次回(2017年2月)は、阿弥陀海道宿(笹子駅)から石和宿(石和温泉駅)間
約21Kmを予定している。
次回は甲州街道随一の難所とされる笹子峠越えが控えている。
雪が多いとされる時期だけに、無事峠越えはなるのか、不安が募る。

笹子峠を越えた先の甲斐大和での一泊を予定しているが、
無事に峠を越えて、甲斐大和の宿では美味い酒を酌み交わしたいものだ。

どんな景色が現れるのか、またどんなハプニングが待っているのか、
今から「旧甲州街道を歩く」が楽しみでもある。

この日の万歩計は、22.000歩を超えていた。

ウマさんの「甲州街道を歩く」の目次

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