2015年3月22日(日)
昨年(2014年)は、旧東海道の日本橋から三島宿までを歩いた。
今年1年間は、旧街道の中でも見所が多く、人気のある(?)区間を(独断で)選んで、歩くことにした。
旧街道の全ての区間を歩くのは、時間的にも経済的にも、また年齢的にも大変なため、
日帰りを主としているが、コースによっては宿泊も止むを得ない。
第二回目となる今回は、甲州街道の日本橋~新宿追分間の約8Kmを歩いた。
上野から上野東京ラインを利用して、9時5分、東京駅に到着。
1駅で5分しかかからないというのは、やはり便利である。利用しない手はない。
この日の参加者は8名、ちょっと少ない。
八重洲地下道を通って地上(外堀通り)へ出てみると、東京駅がど~んと聳えていた。
この方角から東京駅を見るのは初めてである。
外堀通りを北へ進み、
右に折れてビルの間の小さな通りを中央通りへと進む。
中央通りを日本橋方面へ進むと、日本橋高島屋が見えて来た。
永代通りを渡り、さらに進むと、見慣れた日本橋が見えて来た。
このタイムカプセルは、日本橋」保存会により、常盤小学校の生徒たちが「25年後の自分」をテーマに綴った作文や、
日本橋女学館の中学生による「日本橋の未来」を思い描いた作文、地域の有識者による、日本橋の資料や記録集、
架橋100年の記念グッズなど、日本橋への願いが込められた品々が収められ、「2012年に設置されたもので、
25年後の2036年に開封が予定されている。
なお、2036年は、架橋125周年目に当る、とのこと。
首都高速都心環状線の下には、ここに来ると、どうしても写真を撮りたくなるものがある。
「日本国道路元標」である。
ただ、日曜日以外は車が多くて危険なのでお勧めは出来ない。
日本橋の北詰に「東京市道路元標」がある。
明治四十四年(1911)に現在の日本橋が架けられたとき「東京市道路元標」が設置された。
下には、「日本国道路元標」のレプリカもある。
9時26分、日本橋を出発し新宿追分に向かう。
永代通りを大手町方面へ進む。
呉服橋交差点付近。
スカイバス
都内の5つのコースを車窓から眺める観光バスだ。
大人1,900円とのこと。
乗っていたのは殆ど外国人のように見えた。
前に見えるのはJRの鉄橋である
JRの線路下を抜けると、左手にレンガ造りの東京駅が・・・
しかし、回りのビルがあまりにも高くて大きいので、東京駅が小さく見える。
大手町野村ビル付近
永代通りと日比谷通りが交差する大手町交差点を右折し、神田橋方面へ進む。
ひときわ高いのは、読売新聞東京本社ビルだ。
9時51分、酒井家上屋敷跡の将門塚に到着。
平将門は、下総国に兵を起こし、坂東八ヵ国を平定し、自らを平新皇と称して政治の革新を図ったが、
平貞盛と藤原秀郷の奇襲を受けて憤死。享年38歳であった。
将門の首級は京に送られ、獄門に架けられたが、3日後に白光を放って東方に飛び去り、武蔵国豊島郡柴崎に落ちた。
まさしくこの場所であった。
江戸時代の寛文年間、この地は、酒井雅楽頭の上屋敷の中庭であり、歌舞伎の「先代萩」で知られる
伊達騒動の終末、伊達安芸・原田甲斐の殺害されたところである。
平将門は、平安時代中ごろに関東地方で大規模な反乱(天慶の乱)を起した人物。
徳治二年(1307)遊行寺二世真教上人が江戸に行脚した折、将門塚が荒れ果てていたため塚を修復し、
板石塔婆を建てて傍らの日輪寺において供養したとされる。
その霊は神田明神において祀られ、神田明神が移転した後も塚はこの地に残ったが、大蔵省再建事業の際に崩された。
幾多の変遷の後、昭和四十五年(1970)に将門塚保存会などにより現況のように整備されたもの。
将門公首塚
神田明神のご祭神である東国の英雄・平将門公の御首(みしるし)をお祀りしております。
平将門公は、承平天慶年間(931~946)に活躍され、武士の先駆けとして関東地方の政治改革を行ないました。
弱きを助け、強きを挫くその性格から民衆より篤い信望を受けました。
またこの地は神田明神創建の地でもあります。毎年9月彼岸の日には「将門塚例祭」が執り行われ、
また5月の神田祭の時には必ず神輿が渡御して神事が行われる重要な場所です。
将門塚保存会の神輿も神田祭の時に同保存会の方々により担がれます。
現在、同保存会により大切に維持・管理が行われております。(江戸総鎮守 神田明神)
将門公首塚を後にして、江戸城内堀(大手濠)を進む。
大勢のランナーが走って来る。
ここは、皇居ランニングコース(約5Km)になっている。
10時ちょうど、大手門の高麗門前を通過。
高麗門の先は枡形になっており、江戸城本丸の正門である大手門がある。
桔梗濠に写る巽櫓
桔梗門方面へ向かう。
ここではランナーを気にしなくて済むので安心だ。
桔梗門
皇居内見学の時の入口である。
5年以上前の2009年11月20日に訪れたことが想い出される。
軽い休憩の後、二重橋を目指す。
蛤濠(はまぐりぼり)から坂下門と宮内庁庁舎を望む。
坂下門
西の丸に続く坂の下に位置していることからこの名があり、現在は宮内庁への通用門となっている。
皇居外苑の広場を進む。
前方に大勢の人だかりが見えて来た。
二重橋の撮影ポイントになっているので、たくさんの観光客が詰めかけているのだ。
我々も二重橋をバックに記念撮影。
二重橋を後に、桜田門へ向かう。
渡櫓(わたりやぐら)門の形式をした外桜田門
江戸城内堀に造られた門の一つで、桜田濠と凱旋濠の間にある。
外桜田門は枡形門の形式となっている。
巨大な渡櫓門と、高麗門から成る。
高麗門
江戸城の門は、枡形形式となっており、外側の門は、ほとんど高麗門になっている。
高麗門を外側から観たところ。
安政七年(1860)3月3日の大雪の朝、この門外で大老井伊直弼が水戸藩脱藩浪士に暗殺された。
これが、桜田門外の変である。
桜田門外からの眺望(1)
法務省中央合同庁舎第6号館赤レンガ棟
桜田門外からの眺望(2)
警視庁庁舎
桜田門外からの眺望(3)
国会議事堂
桜田濠に沿って半蔵門方面へ。
ランナーが一段と増えた感じだ。
桜田濠
元気いっぱいに颯爽と歩く「健康ウォーキング同好会」会長。
三宅坂付近
10時49分、最高裁判所前を通過。
続いて国立劇場前を通過。
10時54分、半蔵門を通過して左折、新宿通りへ。
新宿通りの警視庁麹町警察署(赤い建物)付近を進む。
11時2分、太田姫稲荷神社に到着
伝説によれば、室町時代に太田道灌の姫が当時大流行した天然痘を病んだ。
「山城国一口(いもあらい)の里にある稲荷神社に祈願すれば治る」と云われ、さっそく参詣祈願。
すると姫の病は忽ち平癒したという。
江戸城築城に際し、道灌は崇敬・感謝の念で伏見より一口稲荷を勧請し、江戸城内に祀った。
その後徳川家康が江戸に入府し、江戸城改築の折、城外に移した。
それが神田駿河台の太田姫稲荷神社で、変遷の後ここ麹町に分社鎮座したと云う。
麹町本通り
かつてこの辺りは尾根道であり、今でも道の左右は全て下り坂になっている。
(写真では分かりづらい)
麹町四丁目付近
防火服を着た黒人の女の子が可愛い。
11時12分、日本橋から5Km地点を通過。
11時19分、上智大学前を通過。
四谷駅は間もなくだ。
11時24分、四谷駅横の四谷見附石垣に到着。
四谷見附は、江戸城の西の玄関口にあたり、寛永十三年(1636)に長門萩藩主毛利秀就によって城門石垣が、
そして3年後に門が完成。桜田門同様の渡櫓を配した枡形門だった。
明治32年に石垣の多くが撤去され、その一部が四谷駅麹町口に残されている。
四谷見附の石垣に上ってみたが、先端には行けなかった。
かつてはここに渡櫓門があったのだろう。
『桜を見物しながら歩くには良さそうなところだなぁ』
『満開になる頃にまた来てみようかな~』
四谷駅前を通過して新宿方面へ向かう。
四谷見附交差点
2階建はとバスのオープンバス「オー・ソラ・ミオ」が走り過ぎて行った。
料金は季節やコースによって異なるが、TOKYOパノラマドライブ(レインボーブリッジ&銀座) は、
4月以降は1,600円(大人)とのこと。一度乗ってみたい。
日・英・韓・中・スペイン語などの音声ガイド付だそうだ。
新宿通りを進む。
11時0分、日本橋から7Km地点を通過。
田宮稲荷神社へは、この辺りを入って行けば良いのかな?
四谷三丁目交差点近くの小さな路地を進む。
地元の人に教えて貰い、11時59分、田宮稲荷神社に到着。
幟には、「於岩稲荷田宮神社」と書かれている。
立身出世のために妻を毒殺、その怨霊に取り憑かれるというお馴染の、鶴屋南北作「東海道四谷怪談」
主人公・田宮伊左衛門の妻お岩を祀ったお岩神社の旧地で明治五年、田宮稲荷と改称した。
都教育委員会の案内によると、
鶴屋南北作の戯曲「東海道四谷怪談」は、実在の人物から200年後の作品で、お岩夫婦も怪談話しとは大きく異なり、
円満だった、そうである。
『四谷怪談は作り話しだったんだねぇ』
「於岩稲荷田宮神社」の斜め向かいに「於岩稲荷霊神」の幟が立てられた建物があった。
お岩さまを祀る陽運寺である。
案内によると、
江戸時代に実在した女性「お岩」は、家庭をとても大事にした貞淑な妻だったとも伝えられている。
お岩さまを祀る陽運寺は、「えんむすび」の寺として全国に知られている。
悪縁を切り、良縁を結ぶお岩さま。
厄除・縁結び・芸道上達・新たな出会いを望む人、大歓迎とのことである。
四谷三丁目交差点近くの歩道脇に、花束が供えられている「お岩水掛け観音」があった。
とても小さいので、危うく見逃すところだった。
我々が「お岩水掛け観音」に手を合せていると、
こんなところで何をしているのだろうと、通行人が不思議そうな顔をして通り過ぎて行く。
観音様に水を掛けているところ。観音様は水が掛けられたためか黒光りしている。
お岩ゆかりの田宮稲荷向かいにある陽運寺がここに勧請したものとか・・・
新宿通りを進む。
12時25分、日本橋から7Km地点を通過。
新宿通りと新宿御苑トンネルの分岐点である。
新宿通りの交差点を渡り切ったところに、四谷大木戸跡碑があった。
道路の反対側を歩いていたので、探し出すのに苦労した。
大木戸とは西国の豊臣残党から江戸を守る目的で構築された櫓のこと。
江戸では高輪とここ四谷の2か所にある。
新宿通りを進んでいると、道路の反対側に大きな石碑が見えた。
江戸時代に玉川上水の水量や水質を管理した水番所のあったところ。
それを記念して、明治二十八年(1895)に石碑が建てられた。
碑は、高さ4.6mにもおよび、漢文で玉川上水建設の理由や、
請け負った玉川兄弟の事績を讃えた内容が記されている、そうである。
12時37分、新宿御苑正門前を通過。
『そろそろお腹が空いてきたねぇ』
『どこか良いところがないかなぁ』
新宿2丁目近くで、道路の反対側に「丸亀製麺」の看板を見つけた。
路地を挟んだ向かい側にはカレー屋もあった。
看板を見てたら、『何だか急にカレーを食べたくなったねぇ』
ここでうどん組とカレー組に分かれ、カレー屋へ。
店で一番人気の2食カレーを注文。
『久しぶりに食べたけどけっこう美味しいねぇ』
『ちょうど良い辛さだねっ』
ナンはかなり大きく、食べ応えがある。
お代り自由だそうだが、とてもそんなに食べられない。これで充分だ。
830円は、リーズナブルだと思う。
13時24分、大宗寺に到着。
大宗寺は、慶長年間(1956頃)に僧太宗が開いた草庵で、のち信州高遠藩主内藤家の菩提寺として発展した。
江戸の入口に安置された地蔵菩薩「江戸六地蔵」・「内藤新宿の閻魔様」・「切支丹灯籠」など、
街道時代の面影を色濃く残す文化財が今に伝えられている。
江戸六地蔵
江戸深川の地蔵坊正元が不治の病にかかり、病気平癒を両親とともに地蔵菩薩に祈願したところ、
無事平癒したことから、京都の六地蔵に倣って宝永三年(1706)造立の願を発し、人々の浄財を集め、
江戸市中六ヶ所に地蔵菩薩をそれぞれ一躯ずつ造立したと伝えられている。
江戸の六地蔵は、ここ太宗寺(甲州街道)の他に、
品川寺(東海道)・東禅寺(奥州街道)・霊巌寺(水戸街道)・永代寺(千葉街道)・真性寺(中山道)がある。
閻魔堂
江戸時代より、「内藤新宿のお閻魔さん」として庶民の信仰を集め、かつては藪入り
(1月と7月の16日に商家の奉公人が休暇をもらい家に帰ること)に閻魔大王の縁日が出て賑わった。
閻魔像は、文化十一年(1814)に安置されたとされ、製作もその頃と推察される。
しかし、数度の火災による度重なる補修を受けたため、当初の部分は頭部を残すだけとなった、とのこと。
閻魔像の左には、閻魔大王に仕え、三途の川を渡る亡者から衣服を剥ぎ取り、
罪の軽重を計ったとされている、奪衣婆(だつえば)像があるが、
金網越しに奪衣婆の顔半分を見るのが精いっぱいで、撮るのはちょっと難しい。
不動堂
不動堂内部
暗くて見え難いが、正面上段に額に銀製の三日月を持つ「三日月不動」と呼ばれる不動明王立像が鎮座している。
正面手前は、新宿山の手七福神の布袋尊像である。
塩かけ地蔵
願掛けの返礼に塩をかける珍しい風習のある地蔵尊。
造立年代や由来についてははっきりしない、とのこと。
新宿通りに戻り、新宿2丁目付近を進む。
新宿2丁目交差点から先は歩行者天国となっていた。
大勢の人が気ままにのんびりと歩いていた。
歩行者天国を進む。
追分だんご本舗
甲州街道と青梅街道の分岐点である新宿追分にある団子の老舗。
串1本から買える、そうだが、まだ満腹状態で食欲が湧かない。ここは素通りだ。
13時48分、新宿3丁目伊勢丹前に到着。
伊勢丹前で左折して、明治通りへ。
雷電稲荷神社
伝説によると、源義家が奥州征伐に行く途中、この付近ではげしい雷雨にあったため、小さな祠の前で休んでいると、
一匹の白狐が現れ、義家の前で三回頭を下げたところ、雷雨がたちまち止んだので、義家は無事北進できた。
その後、村人はこの小祠を雷電神社と呼ぶようになったという伝承がある、そうだ。
雷電稲荷神社は、昭和3年に花園神社に合祀されたが、現在も鳥居と祠が残されている。
きつねの狛犬は金網で囲まれていた。
逃げないように?囲われているのだろうか?
随分と窮屈な金網ではあるまいか。
13時59分、この日最後の訪問地である天龍寺に到着。
曹洞宗寺院の天龍寺は、護本山と号する。
小田原最勝寺五世の春屋宗能和尚を開山、戸塚忠春とその娘の西郷の局を開基として牛込に創建された。
天龍寺本堂
江戸城表鬼門を鎮護する上野寛永寺に対し、裏鬼門を護る寺とされていたと云われるが、
天和三年(1683)牛込の火事で類焼、この地へ移転した。
時の鐘
天龍寺の時の鐘は、上野寛永寺・市ヶ谷八幡とともに江戸の三名鐘に数えられた。
天龍寺は府外で登城するのに時間がかかったことから、江戸の各所にある時の鐘より、
朝四半刻(30分)早く鐘を撞いていたといい、新宿で遊興していた人々を追出す鐘ともなっていたため、
「追出しの鐘」として頗る評判が悪かったとも云われる。
天龍寺本堂の傍の観音像が、『お疲れさま』と言っている様にも見えた。
天龍寺を後にして、新宿駅へ向かう。
14時15分、新宿駅南口に到着。
『皆さんっ、今日は大変お疲れさまでしたぁ』
「旧街道を歩く」第二回目(日本橋~新宿追分間約8Km)を歩き終えた。
甲州街道に因む名所旧跡に立ち寄り、いろいろと勉強になった。
中でも於岩稲荷霊神で「東海道四谷怪談」が全くの作り話だったことを知ったのは、収穫だった。
新宿2丁目で食べたカレーの美味しかったことが印象深い。
次回(2015年4月)は、日光御成街道(駒込~岩淵宿間約8.5Km)を予定している。
皆さんと一緒に元気に楽しく歩きたい。
ウマさんの「旧街道(特選)を歩く」目次に戻る。
昨年(2014年)は、旧東海道の日本橋から三島宿までを歩いた。
今年1年間は、旧街道の中でも見所が多く、人気のある(?)区間を(独断で)選んで、歩くことにした。
旧街道の全ての区間を歩くのは、時間的にも経済的にも、また年齢的にも大変なため、
日帰りを主としているが、コースによっては宿泊も止むを得ない。
第二回目となる今回は、甲州街道の日本橋~新宿追分間の約8Kmを歩いた。
上野から上野東京ラインを利用して、9時5分、東京駅に到着。
1駅で5分しかかからないというのは、やはり便利である。利用しない手はない。
この日の参加者は8名、ちょっと少ない。
八重洲地下道を通って地上(外堀通り)へ出てみると、東京駅がど~んと聳えていた。
この方角から東京駅を見るのは初めてである。
外堀通りを北へ進み、
右に折れてビルの間の小さな通りを中央通りへと進む。
中央通りを日本橋方面へ進むと、日本橋高島屋が見えて来た。
永代通りを渡り、さらに進むと、見慣れた日本橋が見えて来た。
このタイムカプセルは、日本橋」保存会により、常盤小学校の生徒たちが「25年後の自分」をテーマに綴った作文や、
日本橋女学館の中学生による「日本橋の未来」を思い描いた作文、地域の有識者による、日本橋の資料や記録集、
架橋100年の記念グッズなど、日本橋への願いが込められた品々が収められ、「2012年に設置されたもので、
25年後の2036年に開封が予定されている。
なお、2036年は、架橋125周年目に当る、とのこと。
首都高速都心環状線の下には、ここに来ると、どうしても写真を撮りたくなるものがある。
「日本国道路元標」である。
ただ、日曜日以外は車が多くて危険なのでお勧めは出来ない。
日本橋の北詰に「東京市道路元標」がある。
明治四十四年(1911)に現在の日本橋が架けられたとき「東京市道路元標」が設置された。
下には、「日本国道路元標」のレプリカもある。
9時26分、日本橋を出発し新宿追分に向かう。
永代通りを大手町方面へ進む。
呉服橋交差点付近。
スカイバス
都内の5つのコースを車窓から眺める観光バスだ。
大人1,900円とのこと。
乗っていたのは殆ど外国人のように見えた。
前に見えるのはJRの鉄橋である
JRの線路下を抜けると、左手にレンガ造りの東京駅が・・・
しかし、回りのビルがあまりにも高くて大きいので、東京駅が小さく見える。
大手町野村ビル付近
永代通りと日比谷通りが交差する大手町交差点を右折し、神田橋方面へ進む。
ひときわ高いのは、読売新聞東京本社ビルだ。
9時51分、酒井家上屋敷跡の将門塚に到着。
平将門は、下総国に兵を起こし、坂東八ヵ国を平定し、自らを平新皇と称して政治の革新を図ったが、
平貞盛と藤原秀郷の奇襲を受けて憤死。享年38歳であった。
将門の首級は京に送られ、獄門に架けられたが、3日後に白光を放って東方に飛び去り、武蔵国豊島郡柴崎に落ちた。
まさしくこの場所であった。
江戸時代の寛文年間、この地は、酒井雅楽頭の上屋敷の中庭であり、歌舞伎の「先代萩」で知られる
伊達騒動の終末、伊達安芸・原田甲斐の殺害されたところである。
平将門は、平安時代中ごろに関東地方で大規模な反乱(天慶の乱)を起した人物。
徳治二年(1307)遊行寺二世真教上人が江戸に行脚した折、将門塚が荒れ果てていたため塚を修復し、
板石塔婆を建てて傍らの日輪寺において供養したとされる。
その霊は神田明神において祀られ、神田明神が移転した後も塚はこの地に残ったが、大蔵省再建事業の際に崩された。
幾多の変遷の後、昭和四十五年(1970)に将門塚保存会などにより現況のように整備されたもの。
将門公首塚
神田明神のご祭神である東国の英雄・平将門公の御首(みしるし)をお祀りしております。
平将門公は、承平天慶年間(931~946)に活躍され、武士の先駆けとして関東地方の政治改革を行ないました。
弱きを助け、強きを挫くその性格から民衆より篤い信望を受けました。
またこの地は神田明神創建の地でもあります。毎年9月彼岸の日には「将門塚例祭」が執り行われ、
また5月の神田祭の時には必ず神輿が渡御して神事が行われる重要な場所です。
将門塚保存会の神輿も神田祭の時に同保存会の方々により担がれます。
現在、同保存会により大切に維持・管理が行われております。(江戸総鎮守 神田明神)
将門公首塚を後にして、江戸城内堀(大手濠)を進む。
大勢のランナーが走って来る。
ここは、皇居ランニングコース(約5Km)になっている。
10時ちょうど、大手門の高麗門前を通過。
高麗門の先は枡形になっており、江戸城本丸の正門である大手門がある。
桔梗濠に写る巽櫓
桔梗門方面へ向かう。
ここではランナーを気にしなくて済むので安心だ。
桔梗門
皇居内見学の時の入口である。
5年以上前の2009年11月20日に訪れたことが想い出される。
軽い休憩の後、二重橋を目指す。
蛤濠(はまぐりぼり)から坂下門と宮内庁庁舎を望む。
坂下門
西の丸に続く坂の下に位置していることからこの名があり、現在は宮内庁への通用門となっている。
皇居外苑の広場を進む。
前方に大勢の人だかりが見えて来た。
二重橋の撮影ポイントになっているので、たくさんの観光客が詰めかけているのだ。
我々も二重橋をバックに記念撮影。
二重橋を後に、桜田門へ向かう。
渡櫓(わたりやぐら)門の形式をした外桜田門
江戸城内堀に造られた門の一つで、桜田濠と凱旋濠の間にある。
外桜田門は枡形門の形式となっている。
巨大な渡櫓門と、高麗門から成る。
高麗門
江戸城の門は、枡形形式となっており、外側の門は、ほとんど高麗門になっている。
高麗門を外側から観たところ。
安政七年(1860)3月3日の大雪の朝、この門外で大老井伊直弼が水戸藩脱藩浪士に暗殺された。
これが、桜田門外の変である。
桜田門外からの眺望(1)
法務省中央合同庁舎第6号館赤レンガ棟
桜田門外からの眺望(2)
警視庁庁舎
桜田門外からの眺望(3)
国会議事堂
桜田濠に沿って半蔵門方面へ。
ランナーが一段と増えた感じだ。
桜田濠
元気いっぱいに颯爽と歩く「健康ウォーキング同好会」会長。
三宅坂付近
10時49分、最高裁判所前を通過。
続いて国立劇場前を通過。
10時54分、半蔵門を通過して左折、新宿通りへ。
新宿通りの警視庁麹町警察署(赤い建物)付近を進む。
11時2分、太田姫稲荷神社に到着
伝説によれば、室町時代に太田道灌の姫が当時大流行した天然痘を病んだ。
「山城国一口(いもあらい)の里にある稲荷神社に祈願すれば治る」と云われ、さっそく参詣祈願。
すると姫の病は忽ち平癒したという。
江戸城築城に際し、道灌は崇敬・感謝の念で伏見より一口稲荷を勧請し、江戸城内に祀った。
その後徳川家康が江戸に入府し、江戸城改築の折、城外に移した。
それが神田駿河台の太田姫稲荷神社で、変遷の後ここ麹町に分社鎮座したと云う。
麹町本通り
かつてこの辺りは尾根道であり、今でも道の左右は全て下り坂になっている。
(写真では分かりづらい)
麹町四丁目付近
防火服を着た黒人の女の子が可愛い。
11時12分、日本橋から5Km地点を通過。
11時19分、上智大学前を通過。
四谷駅は間もなくだ。
11時24分、四谷駅横の四谷見附石垣に到着。
四谷見附は、江戸城の西の玄関口にあたり、寛永十三年(1636)に長門萩藩主毛利秀就によって城門石垣が、
そして3年後に門が完成。桜田門同様の渡櫓を配した枡形門だった。
明治32年に石垣の多くが撤去され、その一部が四谷駅麹町口に残されている。
四谷見附の石垣に上ってみたが、先端には行けなかった。
かつてはここに渡櫓門があったのだろう。
『桜を見物しながら歩くには良さそうなところだなぁ』
『満開になる頃にまた来てみようかな~』
四谷駅前を通過して新宿方面へ向かう。
四谷見附交差点
2階建はとバスのオープンバス「オー・ソラ・ミオ」が走り過ぎて行った。
料金は季節やコースによって異なるが、TOKYOパノラマドライブ(レインボーブリッジ&銀座) は、
4月以降は1,600円(大人)とのこと。一度乗ってみたい。
日・英・韓・中・スペイン語などの音声ガイド付だそうだ。
新宿通りを進む。
11時0分、日本橋から7Km地点を通過。
田宮稲荷神社へは、この辺りを入って行けば良いのかな?
四谷三丁目交差点近くの小さな路地を進む。
地元の人に教えて貰い、11時59分、田宮稲荷神社に到着。
幟には、「於岩稲荷田宮神社」と書かれている。
立身出世のために妻を毒殺、その怨霊に取り憑かれるというお馴染の、鶴屋南北作「東海道四谷怪談」
主人公・田宮伊左衛門の妻お岩を祀ったお岩神社の旧地で明治五年、田宮稲荷と改称した。
都教育委員会の案内によると、
鶴屋南北作の戯曲「東海道四谷怪談」は、実在の人物から200年後の作品で、お岩夫婦も怪談話しとは大きく異なり、
円満だった、そうである。
『四谷怪談は作り話しだったんだねぇ』
「於岩稲荷田宮神社」の斜め向かいに「於岩稲荷霊神」の幟が立てられた建物があった。
お岩さまを祀る陽運寺である。
案内によると、
江戸時代に実在した女性「お岩」は、家庭をとても大事にした貞淑な妻だったとも伝えられている。
お岩さまを祀る陽運寺は、「えんむすび」の寺として全国に知られている。
悪縁を切り、良縁を結ぶお岩さま。
厄除・縁結び・芸道上達・新たな出会いを望む人、大歓迎とのことである。
四谷三丁目交差点近くの歩道脇に、花束が供えられている「お岩水掛け観音」があった。
とても小さいので、危うく見逃すところだった。
我々が「お岩水掛け観音」に手を合せていると、
こんなところで何をしているのだろうと、通行人が不思議そうな顔をして通り過ぎて行く。
観音様に水を掛けているところ。観音様は水が掛けられたためか黒光りしている。
お岩ゆかりの田宮稲荷向かいにある陽運寺がここに勧請したものとか・・・
新宿通りを進む。
12時25分、日本橋から7Km地点を通過。
新宿通りと新宿御苑トンネルの分岐点である。
新宿通りの交差点を渡り切ったところに、四谷大木戸跡碑があった。
道路の反対側を歩いていたので、探し出すのに苦労した。
大木戸とは西国の豊臣残党から江戸を守る目的で構築された櫓のこと。
江戸では高輪とここ四谷の2か所にある。
新宿通りを進んでいると、道路の反対側に大きな石碑が見えた。
江戸時代に玉川上水の水量や水質を管理した水番所のあったところ。
それを記念して、明治二十八年(1895)に石碑が建てられた。
碑は、高さ4.6mにもおよび、漢文で玉川上水建設の理由や、
請け負った玉川兄弟の事績を讃えた内容が記されている、そうである。
12時37分、新宿御苑正門前を通過。
『そろそろお腹が空いてきたねぇ』
『どこか良いところがないかなぁ』
新宿2丁目近くで、道路の反対側に「丸亀製麺」の看板を見つけた。
路地を挟んだ向かい側にはカレー屋もあった。
看板を見てたら、『何だか急にカレーを食べたくなったねぇ』
ここでうどん組とカレー組に分かれ、カレー屋へ。
店で一番人気の2食カレーを注文。
『久しぶりに食べたけどけっこう美味しいねぇ』
『ちょうど良い辛さだねっ』
ナンはかなり大きく、食べ応えがある。
お代り自由だそうだが、とてもそんなに食べられない。これで充分だ。
830円は、リーズナブルだと思う。
13時24分、大宗寺に到着。
大宗寺は、慶長年間(1956頃)に僧太宗が開いた草庵で、のち信州高遠藩主内藤家の菩提寺として発展した。
江戸の入口に安置された地蔵菩薩「江戸六地蔵」・「内藤新宿の閻魔様」・「切支丹灯籠」など、
街道時代の面影を色濃く残す文化財が今に伝えられている。
江戸六地蔵
江戸深川の地蔵坊正元が不治の病にかかり、病気平癒を両親とともに地蔵菩薩に祈願したところ、
無事平癒したことから、京都の六地蔵に倣って宝永三年(1706)造立の願を発し、人々の浄財を集め、
江戸市中六ヶ所に地蔵菩薩をそれぞれ一躯ずつ造立したと伝えられている。
江戸の六地蔵は、ここ太宗寺(甲州街道)の他に、
品川寺(東海道)・東禅寺(奥州街道)・霊巌寺(水戸街道)・永代寺(千葉街道)・真性寺(中山道)がある。
閻魔堂
江戸時代より、「内藤新宿のお閻魔さん」として庶民の信仰を集め、かつては藪入り
(1月と7月の16日に商家の奉公人が休暇をもらい家に帰ること)に閻魔大王の縁日が出て賑わった。
閻魔像は、文化十一年(1814)に安置されたとされ、製作もその頃と推察される。
しかし、数度の火災による度重なる補修を受けたため、当初の部分は頭部を残すだけとなった、とのこと。
閻魔像の左には、閻魔大王に仕え、三途の川を渡る亡者から衣服を剥ぎ取り、
罪の軽重を計ったとされている、奪衣婆(だつえば)像があるが、
金網越しに奪衣婆の顔半分を見るのが精いっぱいで、撮るのはちょっと難しい。
不動堂
不動堂内部
暗くて見え難いが、正面上段に額に銀製の三日月を持つ「三日月不動」と呼ばれる不動明王立像が鎮座している。
正面手前は、新宿山の手七福神の布袋尊像である。
塩かけ地蔵
願掛けの返礼に塩をかける珍しい風習のある地蔵尊。
造立年代や由来についてははっきりしない、とのこと。
新宿通りに戻り、新宿2丁目付近を進む。
新宿2丁目交差点から先は歩行者天国となっていた。
大勢の人が気ままにのんびりと歩いていた。
歩行者天国を進む。
追分だんご本舗
甲州街道と青梅街道の分岐点である新宿追分にある団子の老舗。
串1本から買える、そうだが、まだ満腹状態で食欲が湧かない。ここは素通りだ。
13時48分、新宿3丁目伊勢丹前に到着。
伊勢丹前で左折して、明治通りへ。
雷電稲荷神社
伝説によると、源義家が奥州征伐に行く途中、この付近ではげしい雷雨にあったため、小さな祠の前で休んでいると、
一匹の白狐が現れ、義家の前で三回頭を下げたところ、雷雨がたちまち止んだので、義家は無事北進できた。
その後、村人はこの小祠を雷電神社と呼ぶようになったという伝承がある、そうだ。
雷電稲荷神社は、昭和3年に花園神社に合祀されたが、現在も鳥居と祠が残されている。
きつねの狛犬は金網で囲まれていた。
逃げないように?囲われているのだろうか?
随分と窮屈な金網ではあるまいか。
13時59分、この日最後の訪問地である天龍寺に到着。
曹洞宗寺院の天龍寺は、護本山と号する。
小田原最勝寺五世の春屋宗能和尚を開山、戸塚忠春とその娘の西郷の局を開基として牛込に創建された。
天龍寺本堂
江戸城表鬼門を鎮護する上野寛永寺に対し、裏鬼門を護る寺とされていたと云われるが、
天和三年(1683)牛込の火事で類焼、この地へ移転した。
時の鐘
天龍寺の時の鐘は、上野寛永寺・市ヶ谷八幡とともに江戸の三名鐘に数えられた。
天龍寺は府外で登城するのに時間がかかったことから、江戸の各所にある時の鐘より、
朝四半刻(30分)早く鐘を撞いていたといい、新宿で遊興していた人々を追出す鐘ともなっていたため、
「追出しの鐘」として頗る評判が悪かったとも云われる。
天龍寺本堂の傍の観音像が、『お疲れさま』と言っている様にも見えた。
天龍寺を後にして、新宿駅へ向かう。
14時15分、新宿駅南口に到着。
『皆さんっ、今日は大変お疲れさまでしたぁ』
「旧街道を歩く」第二回目(日本橋~新宿追分間約8Km)を歩き終えた。
甲州街道に因む名所旧跡に立ち寄り、いろいろと勉強になった。
中でも於岩稲荷霊神で「東海道四谷怪談」が全くの作り話だったことを知ったのは、収穫だった。
新宿2丁目で食べたカレーの美味しかったことが印象深い。
次回(2015年4月)は、日光御成街道(駒込~岩淵宿間約8.5Km)を予定している。
皆さんと一緒に元気に楽しく歩きたい。
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